第1話 黒手袋の断罪
「黒手袋のセレスティーヌ・ド・ヴァルモン」
建国祭前夜の大広間に、殿下の声が響いた。
楽団が、音を止める。数百の視線が、私の指先に集まった。
黒い絹の手袋。7年間、私が手放したことのない、私の通り名の由来だ。
「聖女ミレイユへの数々の非道を、本日、ここで断罪する」
殿下の隣で、ミレイユ様が小さく肩を震わせている。白い衣に、栗色の髪。平民の出でありながら、癒しの力で民の心を掴んだ、この国でいちばん愛されている少女。
その手を、殿下が優しく握っていた。
「ひとつ。聖女に陳情を求めた民を、君は『前例がない』の一言で追い返した」
「はい」
「ひとつ。聖女が公務を休んだ日、君は彼女を『怠慢だ』と叱責し、泣かせた」
「はい」
「ひとつ。男爵家14軒に、一方的な解雇と追徴を言い渡した」
「事実です」
「ひとつ」
殿下は、ほんのわずかに声を落とした。
「僕の離宮の増築費を、君は、不要だと突き返した」
どこかで、誰かが咳払いをした。
それは断罪というより、殿下の私怨の告白に近かったのだけれど、誰も指摘しない。
「弁明は?」
「ございません」
私は、静かに答えた。
ざわめきが、波になる。争うと思っていた人が、多かったのだろう。
「いま読み上げられたことは、すべて事実です。陳情を断ったのも、聖女様を叱ったのも、男爵家に追徴をかけたのも、離宮の予算を却下したのも、私です。言い訳はいたしません」
「潔いな」
殿下が、ほっとしたように息を吐く。
この人は、いつもそうだ。争わずに済むと分かると、すぐに安心する。
「ただ、ひとつだけ確認を」
私は、顔を上げた。
「これらの業務は、明日から、どなたが?」
「……業務?」
「陳情の可否の判断、公務の督促、徴税と解雇の通達、予算の査定。どれも、これまで私が担当してまいりました」
「あれは、君が勝手に」
「ええ。殿下は、君に任せる、と」
大広間が、また静まり返る。
殿下の笑みが、少しだけ固くなった。
「そ、そんなものは、ミレイユの優しさがあれば、どうとでもなる。民は、嫌われ役の厳しさなど、望んでいないのだから」
「承知いたしました」
私は、礼をした。
「では、引き継ぎ書は、3日前に殿下の執務室へお届けしてあります。ご確認を」
「3日前?」
「お読みでなければ、机の左の引き出しです」
そして私は、踵を返した。
黒い手袋は、はめたまま。
これは、頂き物だから。返すのは、まだ先でいい。
◇
3日前の午後、王宮の庭園は、薔薇の盛りだった。
殿下に呼ばれて行くと、白いテーブルに、紅茶が3つ並んでいる。
殿下と、ミレイユ様と、私。
「来てくれて、ありがとう、セレス」
殿下は、昔と同じ呼び方で、昔と同じ笑顔を向けてくる。
その笑顔に、7年間、私は救われてきたのだと思う。
「単刀直入に言うよ。君との婚約を、解消したい」
「理由を伺っても?」
「最近、民の君への風当たりが、強すぎるんだ。このままでは、王家まで悪く言われかねない」
風当たり。
そう、私は7年間、風を受け続けてきた。
「だから、建国祭の夜に、君を断罪する形をとらせてほしい。君が悪役として、国を去る。そうすれば民の怒りは収まるし、僕とミレイユは、潔白なまま結ばれる」
隣で、ミレイユ様が、カップを置いた。
「お姉さま」
あの子は、泣きそうな顔で、笑っていた。
「本当に、ありがとうございました。お姉さまが、みんなに嫌われてくださったから、わたし、みんなに愛される聖女でいられたんです」
それは、感謝の言葉だった。
心の底からの、混じりけのない、感謝だった。
それが、いちばんの毒だった。
「だから、もう十分です。お姉さまは、もう十分、お役を果たしてくださいました」
十分。
何が、十分なのだろう。
私はカップを持ち上げようとして、指が震えていることに気づく。
「……半分こ」
声が、掠れた。
「殿下。『半分こ』のお約束を、覚えていらっしゃいますか」
「え?」
「10歳のときです。私が、嫌な書類に署名するたびに手が汚れる気がすると申し上げたら、殿下は、この手袋をくださいました。汚れるのは手袋だから、君の手は汚れない、と。そして、仰いました。君が嫌われた分、僕が好かれてあげる。半分こだ、と」
殿下は、しばらく、黙っていた。
「……ああ。子供の頃の話だね」
その一言で、すべてが分かった。
あれは、半分こではなかったのだ。
私が嫌われる分だけ、殿下が好かれる。最初から、ひと組の取引だった。それを私は、約束だと思っていたのだ。
「子供の頃の、お約束でしたね」
私は、微笑んだ。
「理解しました」
「分かってくれて、嬉しいよ」
殿下が、あからさまにほっとした顔をする。
「悪いようにはしない。年金も、領地も用意する。君は、静かに暮らせばいい」
私は、礼をして、庭園をあとにした。
薔薇の香りが、背中にまとわりついていた。
廊下を歩きながら、静かに数える。
7年。
その間に、私が却下した陳情。解雇した使用人。追徴した男爵家。殿下の浪費を止めた回数。聖女様の公務を促した回数。
どれも、嫌われる仕事だった。
その全部が、殿下の優しさと、聖女様の慈愛の、裏側にあったものだ。
誰かが言わなければならない「いいえ」を、私が言っていた。
私が言わなければ、殿下か聖女様が、言わなければならなかった。
それを、私抜きで、どうなさるおつもりなのだろう。
怒りは、不思議と湧かなかった。
ただ、とても冷静に、ひとつのことが決まる。
私は、何も壊さない。
ただ、手を離すだけだ。
◇
13歳の冬のことを、ふと、思い出した。
陳情を却下した帰り道。薬代の補助を求めた母親に、対象外だと告げたのだ。代わりの窓口の名前は、渡した。それでも母親は、私の頬を、平手で打った。
「あんたみたいな冷たい子に、親の気持ちが分かるもんか」
殿下は、その夜、王宮の裏庭で、赤くなった頬に、冷たい布を当ててくれた。
「痛かっただろう」
「いいえ」
「嘘だ」
「……少しだけ」
殿下は、笑って、手袋をはめた私の指を握った。
「大丈夫。君が嫌われた分、僕が好かれてあげる。半分こだ」
その言葉を、私は7年間、お守りのように握りしめていた。
嫌われてもいい。殿下だけは、分かっていてくださる。
それが、私の支えだった。
あの夜の布の冷たさが、いまになって、指先に戻ってくる。
あの優しさは、嘘ではなかったと思う。
嘘ではないものが、取引の一部だったという事実が、いちばん痛い。
◇
その夜、私は自室で、1冊の薄い書類を作った。
表題は『業務引き継ぎ書』。
1. 陳情の可否判定。却下する場合は、代替の窓口を必ず添えること。
2. 聖女様の公務の督促。拒まれた場合は、理由を記録すること。
3. 男爵家以下への追徴と、解雇の通達。
4. 王太子殿下の予算の査定と、却下。
5. ……
全部で17項目。
どれも、嫌われる仕事だ。
最後に、1行だけ書き添えた。
『これらはいずれも、嫌われることを恐れずに行う必要があります。期日までに、お願いいたします』
少し考えてから、さらに1行を足す。
『嫌われる覚悟が、まだおありでなければ、先にお決めください』
インクが乾くのを待って、封をする。
控えていた老執事のガスパールが、静かに尋ねた。
「お嬢さま。それは、何のための書類でございますか」
「忠告よ」
「届きますでしょうか」
「さあ」
私は、黒い手袋の指先を、見つめる。
「届かなくてもいいの。ただ、書いておきたかっただけ」
窓の外で、建国祭の準備の鐘が、遠く鳴っていた。
◇
夜明け前、私は、王都の北門をくぐった。
見送りは、ガスパールがひとりだけ。
城壁の向こうでは、建国祭の花火が、まだ、上がっている。
聞こえてくる歓声は、祭りへの歓声であり、同時に、私の断罪への歓声でもあった。
黒手袋の令嬢が、いなくなった。
そう喜ぶ声が、夜風に混じって、馬車の窓を叩いてくる。
「お嬢さま。お耳を、塞がれますか」
「いいえ」
私は、窓の外を、まっすぐに見た。
「聞いておくわ。7年分の、お代だから」
ガスパールは、何も言わずに、頷く。
馬車は、ゆっくりと、夜の街道を走り出した。
背後で、最後の花火が、白く、開いて、消える。
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