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車は工事の渋滞に嵌り、行きよりも少し時間がかかってしまった。
部屋へ着いたのは約束の時間を30分も過ぎたころ。途中で遅れる旨の連絡は入れていたとはいえ申し訳ない。家の前で待っていてくれた五十嵐さんへ頭を下げた。
「連絡をいただいていましたから。一息入れることもできましたしね。お気になさらず」
そう言ってくれた五十嵐さんは、私の背後に立つ浩くんに視線をうつした。
「…不躾で申し訳ありませんが、もしかして、あの血の、主、ですか」
え、なんでわかったの。
浩くんが嫌そうにうなづくと、五十嵐さんは大爆笑した。文字通り、腹を抱えて笑っている。しかも引き笑い。
え、どこに笑える要素があったの?!掃除疲れで、沸点が壊れたの?!
「いえ、失礼、すみません」
といいつつ、ククっと笑いの余韻を引きづる。浩くんは眉間にしわを寄せてとっても嫌な顔をしているが、笑われていることにも、あの血が自分のものだとわかったことも不思議に思っていないようだ。
私にはまったく笑いどころも、血の持ち主判定もわからないのに。しかも、あの部屋の惨状で、こんな、腹を抱えて笑う??
「大変ですね。あそこまでだと」
ふ、と息を整えて五十嵐さんは涙を拭う。
「ええ、まあ、大変ですね、お手数をおかけしました」
浩くんも不機嫌そうにうなづく。
笑いの余韻を振り切るように五十嵐さんは息を深く吸い込んで姿勢を直した。
「失礼しました。お客様、こちらがお預かりしてた鍵になります」
トレーに載せられた鍵を受け取る。血がついてしまったキーホルダーも綺麗になっている。
部屋の確認をお願いしますと五十嵐さんに言われて部屋へ入る。
部屋の中は元通りではなく、元よりも綺麗になっていた。ラグもカーテンも座椅子も、買ってもらった新しいものに変わっているし、壁に至っては、元よりも白くなっていた。匂い残りもない。
しかもキッチンまでピカピカになっている。
「島崎様の指示でオールクリーニングを施しております。水回りもご確認ください」
島崎さんって?
首をかしげると、浩くんが耳打ちした。
「うちの会社の部長。龍与さんの上司なんだ」
へえ、そうなんだ。でも、なんで私に、龍与さんの会社の偉い人までもがこんなにしてくれるんだろう。
口止め料?なんかな?昨日今日とあったことなんて誰にも言わないし、周りに言ったって信じる人がいると思えないのに。
換気扇までピカピカだ。ここまでされるとなんか怖い。私、騙されてない?
「まあ、この対応も後ろの方を見ると納得ですね」
五十嵐さんの言葉に、後ろ?と振り返ると浩くんがいた。
五十嵐さんが横を向いて、ふ、と息を漏らす。
「ええ、まあ、そうですね。あなたも、今までよく生きて来られましたね」
「はい、いろんな人に守ってもらいましたから」
浩くんがなぜか気まずそうに私から目を逸らす。
「ああ、お客様は一般の方でしたねぇ」
五十嵐さんのその声も、私に向かう視線にも猜疑の色で満ちていた。なんでよ。
「では、お客様こちらで作業の方終わりとなりますが、なにかございますでしょうか」
「いいえ!とっても綺麗にしてくれてありがとうございます」
五十嵐さんが話を切り上げる。
「では、こちら引き渡しの書類になります。こちらにサインを…はい、ありがとうございます」
確認事項にチェックと署名を入れると、五十嵐さんはきっちりと礼をした。
「では、小春日様にもよろしくお伝えください。この度は弊社をご利用いただきありがとうございました」
五十嵐さんが去った後、私は、バスルームなどの水回りを確認したり、クロゼットのスーツの匂いを確認していた。うん問題ない。
プロの仕事って素晴らしいわ。
ラグのみかん色、すごく可愛い。カーテンもみかん色だと部屋がすごく明るくみえるし。うん、気に入った。
部屋を点検している間、浩くんは所在なさげに立ち尽くしていた。ちょっと困っているように見えて、首を傾げる。
「どうしたの?座りなよ。インスタントだけどコーヒー飲む?で、申し訳ないけど、一息ついたら、荷物を取りに行きたい。そして、帰りも送ってほしい」
「もちろん、そのつもりです」
浩くんの口調まで硬い。しかも、正座ってなんだよ。
「なんで正座?楽にしてよ」
「いや、なんか緊張して」
「一昨日も入ったじゃない」
「怪我をしてていっぱいいっぱいだよ!気を緩めれば血が出るし、痛いし。ドキドキじゃなくてドクドクだったからね?緊張じゃなくて、焦りでドキドキだよ」
「血がドクドクって?」
「そうだよ」
「気を緩めればビューって血が出るし?」
「そうだよ!」
一瞬の間を置いて二人で吹き出した。
変な言い合いで流れていた変な空気も消えた。ローテーブルに浩くんの分のコーヒーをおくと、彼は膝を崩して座り直す。
「ラグ、オレンジにしたんだね。前のベージュもよかったけど、この色もいいね」
「でしょう?これなら血も目立たないよ」
「もう、出ないから。いつまで、それで弄るの?!」
ふふと笑って、カーテンも買ってもらったんだ、と指さす。
「うん。部屋がすごく明るく感じるね」
「でしょう?でも至れり尽せりでちょっと怖いよ」
「そんなことない。これでも対価が足りるかわからないくらいだよ」
「対価?私は浩くんをお持ち帰りしただけなのに」
「それが一番助かったんだ。あのまま、俺があの状態であそこにいたら俺は死んでいたし、…その後大きな大災が起こる可能性が高かった。人が大勢死ぬようなことが起きたかもしれないんだ」
「え?」
なにそれ。どういうこと?
「俺、特殊体質っていうのかな。俺の血って昼間見たアレみたいなものにはご馳走に見えるみたいで。さらにはアレらの力を増幅させるみたいなんだよね」
は?
「だから、あのままあそこにいて喰われてたら、あそこの地区で大事件が起きてた。無差別の殺人とか、大きな事故とか、そんな感じの、人がたくさん念を残して死ぬような事件が」
「だからね、紀久さんはなにもしてないっていうけど違うんだ。強い力を持つ紀久さんがあそこにいただけで、俺も、瀬越も、係長も助かった。まだ起きていない事件で死ぬ運命だった人たちも」
「でも、それって偶然で」
「うん、偶然かもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただあるのは、紀久さんの守りに俺たちも助けられたという事実だけ」
「俺たちは視えないものと対価のない取引はしない。でも、紀久さんの後ろの存在とは話ができなかった。だから、島崎部長は紀久さんに対価を払うようにしたんだと思う。
後ろの存在からのコンタクトもなかったしね」
これは、この待遇は後ろの、多分曽祖母への対価。
もちろん浩くんとのこの時間も。
「ええと、変なこと聞かせてごめんね?俺の体質とか、正直気味が悪いでしょう?」
浩くんが歪に笑う。
龍与さんの、目を思い出した。
視えることを信じてもらえなかった人のあの目。
「気持ち悪くなんてないよ」
否定の言葉は本心から。
「世の中には不思議はたくさんあるし、私はその不思議を聞いて育ったから、そんなこともあるんだなと思うだけ。
でも、それ、話していいことだったの?企業秘密じゃないの?」
「企業秘密って」
浩くんが息を吐くようにして笑った。
「話しちゃいけないことなんてないよ。聞かれたら答えるし、話す必要があれば話すよ」
「今、話したのは俺が話したかっただけ」
「きっと紀久さんは怖がるかな、と思って話さないつもりだったけど、俺が知ってほしかったんだ。俺の体質も、俺たちの仕事も。
昼間のアレがいるのが俺たちの日常で、アレよりももっと怖いものと対峙するのが俺たちの仕事だから」
ショッピングモールの、禍々しいアレがいるのが日常。
ぞわりと背筋に怖気が走る。
アレよりももっと禍々しいものがあるの?
アレよりももっと怖いものと対峙するの?
龍与さんも、優美ちゃんも、浩くんも?
「怖い?ごめんね、でも、紀久さんと、」
「こわい?」
「こわい?」
「こわい?」
部屋の中からきゃわきゃわと声がした。え、何事?
怖くて、浩くんに縋る。浩くんが大きなため息を落とす。
「紀久さん、大丈夫。烏帽子っていう妖怪みたいな蟲が湧いてるだけ。まだ、害はないよ」
まったく、中途半端な仕事して。人の顔見て笑う前にちゃんと仕事をしろって、とぶつぶつと文句を言いつつ、浩くんは腕にすがった私の背中を、気持ちを落ち着かせるように優しくトントンと叩く。
そして、声がした方をみた。
「いた」
浩くんの視線の先には、下着の入ったチェストがあった。チェストの裏から、親指くらいの烏帽子を頭に載せた何かが三体、キャラキャラと浩くんの言葉を復唱しながら舞い踊っている。
え、ちょっと可愛い。
「可愛いとか思ってる?アレって結構凶悪で、一匹いたら百匹はいると思えって言われるくらいにすぐに湧いて、湧くと存在自体がうるさくてノイローゼになるからね?」
え、なにそれ気持ち悪い。
「…どうにかできる?」
「…まずは元凶を探します」
浩くんは私から離れ、チェストに近づき、チェストが見えていないかのように思いっきり脛をぶつけた。
「いったぁ。え、なに?タンス?」
浩くんはチェストのあたりを手で確認する。たまにチェストに当たらずにスカッと空を叩いている。
「なるほど…。紀久さん、ここにタンスかなんかある?掃除する前に触らないで欲しいとか思った?」
「うん、あのチェストがあるよ。触られたくはなかったかな」
だって下着がはいっている。作業員は男の人ばかりだったから。
「了解。紀久さん、これに触っていい?」
「うん」
あ、見えた、と浩くんは脛をさすりながら呟く。そして、チェストに手をおく。
もしかして、私が許可をしたから、視えるようになったの?
守りが強いと散々言われたが、それが目に見える形で理解した。
こんなこと今まではなかったのに。
うわぁと呟きにハッとする。
浩くんは、チェストの裏を見て、いやーな顔をしている。そして少し躊躇した後、チェストの裏に手を突っ込んだ。
「あった。元凶」
引き抜いた彼の袖に5体くらいの烏帽子がぶら下がっている。それをペッと壁に打ち付けて、浩くんはこちらに戻ってきた。踏まれた烏帽子がキュウと鳴いて消える。ちょっとかわいそう。
「かわいそうとか思っちゃダメ。アレは虫と同じ。虫にかわいそうなんて思わないでしょ。
で、これが元凶」
「…ボタン?」
「うん、龍与さんが引きちぎったやつ。多分、血がついてたんだと思う。だから」
彼の血を、アレらは好み、力を増す。
烏帽子はこれについていた血で湧いた。
「チェストの裏、烏帽子でぎっちり。正直キモい。見ない方がいい。数が多すぎるから、浄化をかけないといたちごっこになる」
顔をのぞかせる烏帽子はどんどん増える。これがきっしりと詰まっているチェストの裏…。ざわっとする。
「なんで、私にも見えるの?見えなかったら大丈夫じゃないの?」
「俺と一緒にいるってこともあるだろうけど、あそこまで増えたら少し素質があれば見えるよ。んで、見えなくてもきゃわきゃわ聞こえて、心が病む」
そういうモノなんだ、と浩くんは肩をすくめた。
「多分、俺たちと会わなくなったら、昼間のああいうのは視えなくなるだろうけど、こいつは別。
視えなくても、ざわざわとした空気とか、声とかにそのうち幻聴が聞こえるようになって、そうなったらアウト。そういうものなの、これ」
「…そうなの」
「そうなの」
そうなの、そうなの、そうなの、と烏帽子が復唱する。
会わなくなったらと浩くんはなんでもないように言った。
視えなくなるのは正直ほっとする。
あんなの視えてもどうにもならないもの。
視えてもなにもできないなら、見てはいけないの。
でも。
そんなに簡単に、なんにも思わないみたいに、会わなくなったらなんて言わないでほしかった。
浩くんは淋しくないの?
「もう引き渡しも完了したし、あのチェストじゃ取り残しも仕方がないなぁ。悔しいけど。優美ちゃんにお願いしようか。それでもいい?」
「え?」
「烏帽子の掃除。俺じゃちょっと手に余るから、優美ちゃんにお願いしようかと。優美ちゃんなら、紀久さんの家にいけるって喜んで引き受けてくれそうだし」
浩くんは、先陣隊らしい、こちらの部屋まで出陣してきた烏帽子を一匹叩き潰す。
きゅう、と鳴いて烏帽子は消えた。
「うわー、もう陣地を広げようとしてる。やば。紀久さん、まず寮に行って優美ちゃんを連れてこよう。今日は寮に泊まった方がいいよ。一晩おいて、取り残しがないか確認したいし」
「うーん、でも色々やりたいことあるしなぁ。できれば、今日帰りたい。もし難しいなら、泊めてもらうけど」
「難しくはないけど。…わかった。まず寮に行って、優美ちゃんを連れてこよう」
仲良くなったと思ったのは私だけだったのかな。
淋しいと思ってくれないのかな。
それが寂しいと思う私が、彼らに甘えすぎてるのかな。
なぜか滲んできた涙を、目を閉じて振り払う。
仕方がない。彼らとは見ている世界が違うのだから。だから仕方がない。
浩くんがマグをシンクに運んでくれた。洗おうとするのを止めて水を入れる。片付けるのはあとでいい。
部屋はきゃわきゃわきゃわと騒がしくなってきた。確かにこれほどうるさければ心が病む。
「あ、紀久さん、烏帽子に、出てくんなって圧かけて」
「は?」
浩くんが大真面目な顔をしていた。
「いない間に変なところに入り込まれてても厄介だから。強く、命令して。そっから出てくんなって」
「う、うん」
きゃわきゃわと騒がしい声の発生源に目を向けて、「出てくんな」と念じてから浩くんを見ると、浩くんは「大変良くできました」とサムズアップをした。
車の中は静かだった。
私も浩くんも口を開かない。
沈黙は苦には感じないけど、淋しい。
夕暮れのオレンジ色が山道を照らす。山の神様の祠もオレンジ色に染まっていた。
ふと、部屋のラグの色を思い出した。
夕焼け色になんてしなきゃよかった。




