第四百六十七話 夜会にて ―― イングウェル・グルンデン小侯爵(1)
「アルビン」
ハヴェルは冷たい声で、柱の陰に隠れていたアルビンを呼んだ。
アルビンが近寄ってきて傍らに跪くなり、ハヴェルは固く握りしめた拳で思いきり彼の顔を殴りつけた。
「…………よくも恥をかかせてくれたな」
それは勿論、公爵の前でのアルビンの失態を指してのことである。
アルビンは真っ青になり、ひたすらに頭を下げて謝った。
「……も、申し訳ござい ―― 」
「それとも何か? お前もあの単純でお間抜けな伯爵夫人と同じように、私がいまだ自分の言いなりになるような、か弱い、愚かな子供だとでも思っているわけか?」
「ちっ、違います! そのような……」
「あの場で公爵があのように言うということは、もはや覆ることなど有り得ぬということだ。馬鹿な伯爵夫人でさえ気付いたことを、お前はあの時点で理解もできなかったのか? まったく、つくづく阿呆な家臣を持ったものだ。そんなだからヘルフリッド・アルテアンのような馬鹿もうまく使いこなせないのだ。挙げ句、代わりに送り込んだヨナーシェクからも、いまだに何らの報告もないではないか」
「え……あ、いや……その……オヅマ公子と話をしたと……」
ハヴェルはもはや嫌悪の表情を浮かべ、アルビンの芥子色の髪を引っ掴んだ。
「そんな報告をお前は奴に求めていたのか? 我らが何を知るべきか……いちいち、私がそこまで指示しないと動けないのか?」
「あ、あ……」
「オヅマ公子だと? ハ! そうだな。お前が常日頃、馬鹿にしているあの元小作人の息子の方が、数百倍は頭が回るだろうよ。奴はちゃんと一般試験を受けられたんだからな。受験資格も得られなかったお前と比べるべくもない」
「…………」
「いっそ、奴のほうがお前より役に立ちそうだ。そうだ。奴を手に入れれば、アドリアンもそれはそれは驚くだろう。何と言っても、一番のお気に入り。誰より信頼厚い近侍……」
「は、ハヴェル様ッ!」
必死にハヴェルに取り縋ろうとするアルビンを、ハヴェルは忌々しげに払った。
床に頬をこすりつけるように転がったアルビンは、それでもすぐさま起き上がると、ハヴェルの前に今度は額をこすりつけて謝罪を乞う。
「どうか、お許しを……どうか……」
「謝罪すれば、お前の頭が良くなるのか? もっと必死になれ、アルビン。公爵は変わった。公爵が変わったということは、公爵家が変わるということだ。私の公爵家が! そんなことが許されるものか!」
ハヴェルの目は途中からアルビンを見ていなかった。
彼が見ているのは、在りし日の公爵邸。彼にとって最も幸せであった時代の思い出であった。だがその懐かしき憧憬は今、無残に穢され朽ちていこうとしている……。
「すべてはリーディエ様がお作りになられたのだ。今の公爵家を。公爵閣下とて例外ではなかったというのに……あの方はリーディエ様を……お母様を裏切った……捨て去った!!」
ハヴェルは毒を吐くようにつぶやいて、激しく歯軋りした。強く握りしめた拳が、行き場のない怒りを机に落とす。
ガンッ! と激しく叩く音とほぼ同時に、部屋の扉が開いた。
鈍い痛みに顔をしかめていたハヴェルは、入ってきた人物を見てハッと固まった。
「父上……兄上……」
現れたのはハヴェルの実父であるマキシム・グルンデン侯爵と、兄のイングウェルだった。
強張った顔のハヴェルと床に這いつくばるアルビンを見て、グルンデン侯爵は軽くため息をつく。
「ハヴェルよ。公爵閣下に退席を命じられたのは不本意なことだろうが、あれはお前も悪い。閣下の信頼が厚いからと、少々図に乗ったとは思わぬか?」
いかにも善良なる父の、少々的外れな戒めに、ハヴェルはそれこそクスリと頬を緩めた。
「はい。少し……増長したと反省しております。怒っていたのは、自分への不甲斐なさゆえにです」
「そうか。ブルッキネン伯爵夫人も、元から才気煥発な人であるし、人を煽るようなところもおありだからな。お前も幼い頃には世話になった故、彼女の頼みに応えてやらぬわけにもいかなかったのだろう? しかし彼女は一度、公爵家から罰を受けた身だ。あまり深入りは良くないね」
穏やかに言う侯爵の姿は、普段のハヴェルを彷彿とさせる。
名門グルンデンの後継として生まれ、本家筋のグレヴィリウスほどの苛烈な継嗣争いもなく、平和に生きてきたマキシムは、生まれながらの上品さ故に、貴族間の陰湿なる勢力争いにも興味がない。興味なく過ごせるほどに安穏としていられた、ということだ。
公女ヨセフィーナを妻とした後も、彼女に対して淡々と、名門侯爵家夫人としての礼儀を守って過ごしている。当然、彼らの間に愛情らしきものは皆無で、双方ともに愛妾を数人囲っていた。
「イングウェルが少し、また頭が重いと言っている。休ませてやっておくれ」
侯爵は自ら長男の手を引いて、ソファに座らせる。
特に家族に対して愛情らしきものを示さない侯爵にとって、長男だけは例外であった。早産で生まれたせいなのか、幼い頃から体も弱く成長も遅かった息子を、侯爵はなぜか可愛がった。
周囲は後継として不安視し、実母であるはずのヨセフィーナですら、傴僂で斜視の息子を気味悪がって遠ざけたが、侯爵は気にしなかった。
ハヴェルが公爵家の養子となる前には、いっそこの長男を廃嫡し、健康なハヴェルを次期後継にと推す声は多かったが、マキシムは頑として聞き入れなかった。
ただこればかりは長男可愛さばかりでなく、
「長子が後を継ぐ。これを守らねば、後の患いとなる」
という彼独自のこだわりによるところが大きかった。
グレヴィリウス公爵家がこの長子相続から外れたことで、大きく狂っていった……と祖父と父が話しているのを聞いて以来、彼は自分の代でその順序が変わることを怖れたのである。
そのため三歳になったハヴェルに突如グレヴィリウス公爵夫妻との養子縁組の話が持ち上がったとき、ヨセフィーナ始めグルンデン家中の者ほとんどが反対を示したが、珍しくマキシムは断行した。
これもまたイングウェルによる長子相続を確実にするためもあったのだろう。
「アルビン。イングウェルは林檎ジュースが飲みたいんだそうだ。お前、持ってきてやっておくれ」
いきなり指図され、アルビンはハヴェルと侯爵を素早く見比べた。
ハヴェルが軽く顎をしゃくって促すと、あわてて「はっ」と請け負い部屋を出て行く。
「じゃあ、私は戻るよ。ハヴェル、頼んだよ」
兄の世話を任せて、自分はまたぞろ昔馴染みの婦人との逢瀬でも楽しむのだろう。ハヴェルは忌々しかったが、顔だけはにこやかに請け負った。
パタリと扉が閉まると、途端に憮然とした表情になって、兄の方を見ようともせず問うた。
「また、父上を困らせるようなことをなさったんですか?」




