第四百六十六話 夜会にて ―― 舌戦の裏側
さて、これはまた別の場所での夜会の一幕 ―――
広間を出たブラジェナは、しばし人気のない廊下を歩いていたが、不意に呼びかけられた。
「ブルッキネン伯爵夫人、少しよろしいですか?」
声をかけてきた人を見て、ブラジェナは懐かしく笑った。
「ハヴェル様」
ハヴェルはいつもの穏やかな微笑をたたえてブラジェナに挨拶すると、グルンデン家に与えられている一室に誘った。ブラジェナは快く了承し、二人並んで他愛ない季節の花の話などしながら歩いて部屋に入ると、ハヴェルはすぐさま頭を下げた。
「申し訳ない、伯爵夫人」
ひどく恐縮した様子のハヴェルに、ブラジェナはあわてて頭を上げさせた。
「まぁ……ハヴェル様に謝っていただく必要はございませんわ。きちんと私に発言の機会をお与えくださって感謝致します。むしろ私の方こそハヴェル様にご迷惑をおかけすることになってしまって、申し訳ございません」
公爵の挨拶が始まる少し前、皆が集まり来る高座前でブラジェナはハヴェルに声をかけられた。そこでブラジェナは新たなる公女についての疑念、不信をハヴェルに打ち明けたのだ。
「まったく。あのような母親に育てられて、果たして公女として相応しいのか……発言が許されるなら、直接伺いたいものですわ」
「では……私が伯爵夫人に機会を作ってさしあげましょう」
そのときにはブラジェナはハヴェルの言葉の意味をはっきりとわかりかねた。理解したのは、ハヴェルが公爵に対して申し述べたときだ。
―――― ブルッキネン伯爵夫人におかれては、公女様に対して物思うところがおありのようです
急に言われてブラジェナは驚いたが、慌てふためくような見苦しいことはしなかった。そこはかつて明敏を謳われた公爵夫人の侍女である。自らの矜持もあり、ハヴェルの期待にも応えたく思った。なにより ―――
「どうせあの場にいた者のほとんどが、口に出さぬだけで思っていたことですもの。面と向かって言う度胸のない者の代わりに、多少の礫を受ける覚悟で申し上げたのです。そのことについては、後悔しておりません。それに収穫もございましたわ」
「収穫?」
ハヴェルが首を傾げると、ブラジェナはハアーッと大きく溜息をついてから、いつものごとく息もつかせぬ早口で話し出す。
「クランツ男爵夫人ですよ。ああまでしっかりと ―― いえ、やんわりとねじ伏せられるとは思ってもおりませんでした。息子のオヅマは闊達で、裏表もない一本気な性格ですから、きっと母親も人が良いだけの単純な女なのだろうと思っていたのです。おそらく公女の世話係も、嫌々押しつけられて拒否できなかったのだろうと。元が平民であれば、公爵閣下に逆らうなんてことできるわけがございませんもの」
ブラジェナはミーナを認めつつも、言葉にはどこか棘があった。
やはりかつては公爵夫人の右腕、今はシュテルムドルソンの女領主と一目置かれるブラジェナにとって、初対面で、元平民出の、顔と人柄だけはいい暢気な田舎者にねじ伏せられたことは、かなりの屈辱であったようだ。
隠しきれないブラジェナの怒りに、ハヴェルはうっすらと苦笑して頷いた。
「まぁ……そうですね」
「そんな哀れな元平民出の女に、あのペトラの娘の養育など、まともにできるのかどうか。それこそ長年、二人きりの母娘であったのです。公女が母親と同じように意地汚い性格を隠して、母親の復讐を成し遂げようと、また小公爵様の命を狙うことがないとも限りません。ハヴェル様も、そのことを危惧しておられたのでしょう?」
ブラジェナの行動原理は、いつも彼女なりの正義感によるものだった。
新たな公女が、その母のように狡猾なる本性を持っているならば、早々に暴いてやろうと思っていたのだ。そしてそれは、自分に発言の機会を与えてくれたハヴェルもまた同様であろうと信じ込んでいた。
ハヴェルは一瞬、眼鏡の奥のアンバーの瞳を伏せてから、ニコリと笑った。
「えぇ。……私も、それは心配しておりました。何しろ、あのペトラの娘ですから。では、伯爵夫人の中で公女への疑念は消え去ったということですか?」
「まぁ……とりあえずは。もし、あの公女が猫を被っているとしても、クランツ男爵夫人であれば見抜くでしょう。そうしたまともな目はお持ちのようですしね。まったく、公爵閣下にまんまとしてやられましたわ」
「……そのようです」
ハヴェルが少しつらそうに顔を歪めると、ブラジェナは励ますように言った。
「落ち込まれる必要はございませんよ。きっと、閣下もハヴェル様を信頼なさってのことです。私共を見せしめにして、公女と小公爵様の権威を確立させる……といったところかしら? 私に発言を許した段階で、そういうおつもりでいらっしゃったのでしょう」
「夫人はそれに乗ったと?」
「えぇ。もちろん、最初からわかっていたわけじゃございません。ただあの場での発言を許されるとは思っておりませんでしたから、許可を頂いた時点で少々おかしくは思いました。途中で気付いたのですよ。公爵閣下の思惑に」
ブラジェナは少しばかり悔しげに、けれど清々したように軽く肩をすくめる。
「いずれにせよペトラのことは言うべきことですし、あの場にいた全員が思い知ったことでしょう。公女はもちろん、小公爵様のことも……公爵閣下は我が子として大事に思っておいでだと」
ハヴェルは頷いた。
まさしく公爵は、長く無関心であった子供らへの態度を変えたのだ。
数ヶ月前、アールリンデンの公爵邸で行われた晩餐において、何か騒動があったらしいことは聞いているが、詳しいことはわからなかった。
ただ、アドリアンが珍しく父公爵に対して反抗し、その後に公爵から叱責を受けて北の塔に謹慎していたという。(事実が多少曲解されたのは、まさしくハヴェルの歓心を得たいがために、使用人らはハヴェルにやさしい嘘をついたからだ。)
大したことでもないと、ハヴェルは気にもせずにいたが、今にして思えばあの頃から公爵の態度は少しずつ、おかしなものになっていった。
絵画廊下にあったアドリアンの絵をリーディエの一人絵の隣に移したり、あまつさえ長年肌身離さず持ち歩いていたリーディエの細密画の描かれたロケットまでも、アドリアンに譲り渡したのだ。
悶々としたものを抱えるハヴェルに気付かず、ブラジェナの話は続いていた。
「しかも上手にクランツ男爵夫人の株を上げられましたわ。元は平民の、小作の未亡人風情であった女に、グレヴィリウスの公女の世話係などできるわけもないと、みな内心では嘲っていたでしょうからね。あぁまで上品に、そつなく対応できるなど、青天の霹靂ですわ。まったく……ヴァルナル・クランツは果報者だこと。オヅマだけでなく、しっかり者で美人の妻まで手に入れて。まぁ、それでもリーディエ様ほどではないけれど」
どれだけ他人を称賛しようとも、必ず最後にリーディエの賛辞で終わるのは、もはやブラジェナのお約束だった。
故人が逝去して既に十数年。
それでもブラジェナにとって、リーディエは第一の人であり、その忠義が色褪せることはない。
であればこそ ―――
ハヴェルは穏やかな笑みを浮かべ、ブラジェナに尋ねた。
「それでクランツ男爵夫人の器量を信じて、公女のことも信じることになさったと?」
「あぁ、それは……実のところ、息子や小公爵様御本人からも、サラ=クリスティア公女はペトラと違ってまともだと、聞かされてはいたのです」
「あぁ……そういえば、アドリアンがアカデミーに向かう途中に、伯爵夫人の元に寄られたと聞いております」
ブラジェナはおや? となった。
アドリアンらがシュテルムドルソンに立ち寄ったことは、特に誰にも話していない。無論、隠していることでもないので、誰かから聞き及んだのであろうが……。
ブラジェナは少し考えてから、納得のいく答えに辿り着くと、満面の笑みになった。
「あぁ! 本当に、相変わらずお優しいことですわ、ハヴェル様。小公爵様の身辺のことにも、気を遣っておいでですのね。あぁ、やはり……あなたはお変わりない。リーディエ様のお言葉を、今もきちんと実行しておいでですのね!」
「…………えぇ」
ハヴェルは曖昧に頷いただけだったが、ブラジェナはすぐさまいいように補完する。
「生まれてくる小公爵様を弟だと思って、可愛がってほしいとおっしゃっておられましたものね! きっと、ゆくゆくはハヴェル様に、小公爵様を支えてほしいと思っておられたのでしょう」
ハヴェルは静かに、ブラジェナに気付かれぬように細く息を吐くと、小さな声で尋ねた。
「お母様が……公爵夫人がそのようにおっしゃっていたのですか?」
「特にそうとおっしゃったわけではございませんけど、リーディエ様にとって大事な息子のお二人が手を取り合って、公爵家を盛り立てていってくれれば、嬉しいと思われるのは当然のこと。自明の理というものですわ!」
「…………そうですね」
ハヴェルは笑った。
このときほど、可笑しくてたまらないことはなかった。
そう、ブラジェナのリーディエへの崇拝は本物で、今も色褪せることはない。であればこそ ―― 彼女は優秀なる道化となり得るのだ。
「では、私はこれで。せっかく時間も空いたことですし、領地から届いた陳情書でも読むことに致しますわ」
言いたいことを言って、ブラジェナは部屋を出て行った。
公爵からの退去命令も、豪胆なる伯爵夫人にとってはさほどの痛痒でもないらしい。
パタンと扉が閉まると、にこやかだったハヴェルの顔は一瞬にして無になった。




