エピローグ:僕たちの最後の青
#槍ヶ岳に散る #最後の青 #小説家になろう #切ない #悲劇 #信州 #涙腺崩壊
辰野町の春は、いつも希望を運んでくる。天竜川のほとりでは桜が咲き始め、その花びらは柔らかな桃色の雪のように舞い落ちる。けれど、今日の辰野高校の体育館の中は、空気が凍りついたままだった。
卒業式は終わった。3年3組の教室には、主のいない机が一つ。その上には、永遠の象徴である白い菊の献花と、一通の卒業証書が静かに置かれている。海斗は、それを受け取るためにここへ来ることはなかった。
僕は屋上に立ち、遠くに連なる日本アルプスを眺めていた。槍ヶ岳の山頂が、遠くの方で微かに、そして傲慢に見えた。まるで、下界に取り残された僕たちを嘲笑っているかのように。
「江戸君……?」
その声。僕の世界の重力の中心だった、あの声。朱莉がそこに立っていた。制服の胸元には、どこへ行くにも手放さない、小さな喪章の黒いリボンが揺れている。
「明日、東京へ行くんだよね?」彼女が静かに尋ねた。
「ああ。朝の電車だ」僕は振り返らずに答えた。
沈黙が僕たちを包み込む。これが、僕に許された最後の機会だ。僕は親友の亡骸を背負い、何年もエゴを飲み込み、何度も、何度も、心の中で壊れてきた。この胸の中で腐りかけている秘密を抱えたまま、旅立ちたくはなかった。
僕は向き直り、かつて僕が愛した、あの輝きを失った彼女の瞳を見つめた。
「朱莉……好きだ」
言葉が、ただ零れ落ちた。三年間抱え続けてきた想いは、単純な言葉のわりに、あまりにも重すぎた。
「この学校に入った最初の日から、ずっと好きだった。上高地でお前の足を処置した時も。……そして、あの頂上から海斗を背負って下りてきた時も、ずっと、お前が好きだったんだ」
朱莉は黙り込んだ。驚いた様子はなかった。ただ、僕がこれまでに受け取った中で最も残酷な眼差し――「同情」を込めて、僕を見つめていた。
「ごめんね、江戸君……」彼女が囁く。一粒の涙が落ち、彼女の卒業証書を濡らした。「でも、私の心はあの山頂に置いてきちゃったの。海斗と一緒に」
彼女は一歩歩み寄り、僕の制服の袖に優しく触れた。それは恋人ではなく、ただの友人としての、一線を超えない手の温もりだった。
「江戸君を見るたびに、私は海斗を思い出してしまう。君の手を見るたびに、あの子が逝く時にその手を握っていた君を思い出してしまうの。……私は君を愛せないよ、江戸君。私にとって君を愛することは、あの子の最期の吐息を裏切るような気がするから」
僕の世界は、完全に崩壊した。この拒絶は、僕が足りなかったからではない。彼女が忘れられない悲劇に、僕が深く関わりすぎたからだ。僕は彼女の宇宙が死ぬ瞬間の証人であり、朱莉にとって、僕の存在そのものが、開き続ける「傷口」なのだ。
「……分かった」
自分の声が、他人のもののように空虚に響いた。死んでいるも同然の声だった。
朱莉は背を向けて歩き出し、僕を屋上に一人残した。遠ざかっていく彼女の背中を見送る。あの日、山で見送った時と同じ背中。彼女は二度と、振り返ることはなかった。
僕は空を見上げた。今日の長野の空は、どこまでも青い。朱莉が海斗のために買った、あの靴と同じ青。親友の亡骸を背負った時に僕が着ていた、あのジャケットと同じ青。
結局、自己犠牲が幸福をもたらすとは限らないらしい。時に、人は持てる全てを捧げた果てに、空っぽの手と、穴の開いた心だけを手に入れる。
僕の名前は、篠原江戸。僕は槍ヶ岳から生還したが、本当の意味であの場所から帰ってこられたことは一度もない。僕は今もあそこに置き去りにされ、二度と返らない残響と共に凍りついている。
僕たちの青春は、終わった。
そしてこの青は――僕たちが最後に共有した、青だった。
——完——
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
「幸せな結末」だけが物語の価値ではないと信じ、この『槍ヶ岳に散る、僕たちの最後の青』を書き終えました。
江戸の告白が報われなかったのは、彼が「善人」すぎたからかもしれません。
読者の皆様の心の中に、この冷たくて青い痛みが、少しでも長く残ることを願っています。
評価やブクマをいただけると、執筆の励みになります。
それでは、またどこか別の物語でお会いしましょう。




