第4R デビュー戦
6月の最終週を迎え、空梅雨と相まって早々に夏の気配である。
広道はレースを終えた翌日に北野グループのトレーニング施設へ出発した。大志と桜は夏の北海道開催に参戦するため函館競走場にしばらく滞在することとなっている。
夏を迎えると暑さを避けるため、北海道開催に参戦したり休養にあてたりするのが一般的で、岡田厩舎でも大方その方針の競人が多い。そのため、トレーニンググループのメンバーが減ってしまったり居なくなってしまうため、他のグループと合同でトレーニングを行うこととなる。
涼風は手ごたえを感じていた。大志達とトレーニングを行っていた時よりも走りに余裕があることに気が付いたのだ。どのグループもしっかりと前運動や後運動をこなしてはいるものの、やはり各競人の能力に依存する部分は大きく、大志や桜と一緒にトレーニングを行っていた涼風は他のグループのメンバーよりも普段から厳しいトレーニングを積んでいたのである。
「涼風。前売りオッズで1番人気だぞ。」
トレーニングを終えた涼風に岡田調教師が発破をかける。
「やめてくださいよ。緊張するじゃないですか。」
「ははは。心配するなしっかりと走り切れば負けることはないだろう。」
確かに、広道のデビュー戦の結果や桜の活躍から一緒にトレーニングを積んでいる涼風にも注目が集まるのは自然なことだ。
「例年この時期の福島競走場に出走してくるメンバーはレベルが高くない。オーナーの目標である新潟2歳競走を目指すために勝ち上がりやすいレースを選んだからな。」
岡田の言葉に少しむすっとする涼風であったが、勝ち上がらない事には何も始まらないのであるから、戦略としては合理的なのである。
涼風はストレッチを終え、タケさんのマッサージを受けるためにマッサージルームへ移動した。
「涼風君。かなり良い仕上がりのようだね。」
「ありがとうございます。タケさんはレースどうなると思いますか?」
「そうだねぇ。正直なところ、涼風君以外の出走メンバーは調教タイムからいってレベルが高いとは言えないね。いつも通り走れば結果はついてくるよ。それでも、レースになって真価を発揮するタイプの人も多くいるから油断は禁物だよ。」
タケさんも岡田調教師と同じように感じているようであった。
「大志君と一緒にトレーニングを行っているんだから当然といえるのかもしれないね。」
「大志さんはやっぱりすごい人なんですか?」
「2歳や3歳の若い子が大志君と走るっていうのは相当に大変なことなんだよ。大志君は今年で5歳、人間年齢で19歳だから身体も出来上がっている。それに比べると16歳で成長期の涼風君は筋肉の付き方もまだ幼さがあるね。」
「そうですよね。大志さんの筋肉を見てると圧倒されてしまいます。」
「それにね。大志君は2勝クラスで燻って良い競人ではないはずなんだよ。」
タケさんの言葉に涼風は息をのんだ。
「広道もそんなことを言ってました。」
「競人にはそれぞれオーナーから求められることがあるよね。広道君は北野グループだから勝つことが求められるし、桜ちゃんはオーナーの財政難をしのぐために走る。そして、大志君もまたオーナーのために走っているんだね。」
広道や桜のことについては納得がいかない点もあるが理解はできた。しかし、大志のことに関してはいまいちピンとこない涼風であった。
「涼風君。重賞を含めたオープンクラスと2勝クラスではどちらの方がレース数が多いかわかるかい?」
「2勝クラスだと思います。」
「そうだね。2勝クラスのほうがレース数が多いね。レースの数が多いってことはその競人に合った距離のレースも多くなるね。」
競走には1200メートルから3600メートルまでの競走がある。競走能力に特化して交配を続けてきた競人にとっては、たとえ200メートルの差でも適正に大きな差が出るのだ。
「確かに、適正距離のレースを選ぶのは大切ですけど3勝クラスやオープンクラスでも色々な距離のレースはありますよね?」
「確かにそうだね。でも、もう一つ大切なことがあるんだよ。競走には優先出走順というのがあってね、3勝クラスとオープンクラスは前走3着以内の場合に次のレースへの優先出走が認められるんだ。それが、2勝クラスでは5着以内に優先出走権が与えられる。」
「大志さんなら上のクラスでも3着以内に入ることはできるのではないですか?」
「もちろん私も大志にその能力があるとは信じている。でもね、3勝クラスはそもそものレース数が少ないし、オープンクラスにいたっては体力の消耗が激しいから、通常は多くは桜ちゃんの様には多くは走らないんだ。」
「大志さんはわざと勝たないってことですか⁉」
G1競走に勝つことだけを考えて過ごしてきた涼風にとっては思いもしない事実だった。
「レースでは5着以内に入ると貰える本賞金の他にも様々な手当てがあるから、上のクラスで走るよりコンスタントに出走できるクラスにいる方が稼げる場合があるんだよ。それに、身体への負担が少ない分、競走寿命を延ばすことにも繋がるから、大志君にとっても悪いことではないのかもしれないね。」
「大志さんは何か言っていないのですか?」
タケさんは静かに首を横に振った。
「我々、厩務員は、君たち競人に1レースでも多く、1日でも長く現役を続けてもらうことを一番に考えているんだ。だから、大志君の競走生活のためにも全力でサポートするんだよ。もちろん、大きなレースで勝ってくれることも嬉しいことだけどね。」
涼風には寂しさの混ざった声に聞こえたが、タケさんはいつも通りの丁寧なマッサージを施してくれた。
そして、最終調整を終えた涼風はデビュー戦当日を迎る。
正午の福島競走場。
発走の時間が近づき涼風はゲート裏で、関東トレーニングセンターからの移動中にタケさんから聞いたアドバイスを思い返していた。
「出遅れても焦らない。道中はリラックス。周りの仕掛けに惑わされない。えっと・・・。」
出走メンバー全員が初出走であるため、皆辺りをキョロキョロと眺めたり他の競人の動きにつられるように動いたりと、初出走クラスではよく見る光景となっていた。もちろん、涼風も例外ではない。
「出遅れても焦らない。道中はリラックス。周りの仕掛けに惑わされない。あとは・・・いつも通りに走る。だったかな。」
涼風の頭の中は混乱していた。いつも通りと言われても競走場と競走メンバーを前にしては平静を保つのは難しいものだ、ましてや初出走ともなればなおさらである。
「涼風君落ち着いて。飲み物を飲んで深呼吸をするんだよ。」
コースの内側で待機していたタケさんが声をかける。涼風はゲート裏に移動してからというもの飲み物を口にすることを忘れていたのだ。
「いっけない。緊張してすっかり飲み物を飲むのを忘れてた。」
涼風はタケさんの方を見返してバツの悪い笑みを返すのであった。
そうこうしていると、ファンファーレとともにゲート入りが始まった。出走人数は8人。一人また一人とゲートに収まっていく。涼風もゲートへ誘導されゆっくりとゲートに収まった。
心拍数がみるみるうちに上昇し呼吸が激しくなる。腋や背筋に汗がにじむ。
スターターの合図とともにゲートが開かれた。涼風のレースが始まったのである。
・・・
ドーピングのチェックを終えた涼風はタケさんと検査室にいた。
「ひとまず、おめでとう。」
「ありがとうございます。」
レースは涼風が序盤から先頭を引っ張り、そのまま後続の追撃を抑えて優勝した。
「ずいぶんと力んで走っていたね。それでも勝つのだから大したものだよ。」
「頭が真っ白になって、必死で走っていました。」
「ははは。観てるだけで肩がこりそうだったよ。」
正直、もう少し平常心を保って走れると思っていた涼風であったが、場内のアナウンスや歓声などの独特の空気にすっかりのまれてしまっていた。
「すぐに慣れるから何も心配いらないよ。」
タケさんが優しく声を掛けてくれた。
「厩舎に帰ったら岡田調教師にこっぴどく言われそうです。」
「ははは。そうだね。こっぴどく言われるね。」
一通り検査を終えた涼風は、タケさんと関東トレーニングセンターへ向け出発した。
「広道のレースと比べたら雲泥の差ですね。」
「今日のところは広道君の方が上だったね。」
「やっぱりそうですよねぇ・・・。」
「何も心配はいらないよ。過去に3歳三冠を達成した選手の中にも、デビュー戦を勝てなかったり暴走したりして高い評価を受けていなかった人もいるんだ。少しずつレースを覚えていけば良いんよ。」
帰りの道中、タケさんは様々なアドバイスをしてくれた。そのおかげもあって、涼風の気持ちは前向きになりつつあった。
「ばっかもーん。」
厩舎に到着して岡田調教師から涼風へ発せられた最初の一言である。
「すっ。すいませんでした。」
「しっかり反省は済ませたのか?」
「はい。タケさんに映像を見せてもらいながらアドバイスを貰いました。」
「よし。今日、明日はしっかりと身体をケアしておけよ。」
そう言うと岡田は去って行った。
「やっぱり怒られました・・・。」
タケさんにすがりつく涼風。
「岡田調教師の顔、嬉しそうだったよ。」
「そうなんですか?すごく怒っていたようにしか見えなかったですけど。」
「ははは。その内、わかるようになるよ。」
涼風を幼少のころからみてきた岡田にとって、涼風がデビュー戦を勝つことは間違いなく嬉しいことだろう。しかし、そういった素振りを直接には見せないのが岡田という人間なのだ。
帰厩した涼風はタケさんによる身体検査とマッサージを終えて自室のベッドに横たわっていた。
―まずはレースに勝てて良かった。思った以上に緊張をしてしまったけど、それでも勝てたことは多少の収穫だったかな。しっかりと反省点を克服しておかないと。―
レースの内容を冷静に振り返り返ろうとする涼風であったが、やはり勝利の喜びで頭の中は冷静ではいられなかった。12月に行われる2歳G1レースへの参戦を思い浮かべてみたり、次走に予定されるであろう新潟2歳競走G3に優勝することを思い浮かべてみたりと、16歳の青年らしい妄想で期待に胸を膨らませているのであった。




