鉄屑の揺りかご、愛なき抱擁
拷問室の奥にあった扉は、意外なほど軽く開いた。
蝶番が壊れているのではない。油が差されているのだ。
誰かが頻繁に出入りしていた証拠。
扉の先には階段はなく、ただ急な斜面になったダストシュートのような穴が続いていた。
鼻を突くのは、甘ったるい腐臭。血と鉄、そして何か薬品のような刺激臭。
俺は躊躇なく、その闇へ滑り降りた。
ズザザザッ……。
背中の装甲が石床を削り、火花を散らす。
数秒の滑走の後、俺は広い空間に放り出された。
着地。ブーツが柔らかい何かに沈み込む。
足元を見る。
泥ではない。それは無数の死体が折り重なり、腐り、圧力でペースト状になった「床」だった。
『廃棄場』。
王の実験によって壊された者、鉄化に失敗してただの肉塊になった者たちが捨てられる場所。
広大な円形の空間。天井は遥か高く、そこから微かな光——地上からの廃棄口だろう——が差し込んでいるが、底までは届かない。
グチョッ、グチョッ。
歩くたびに不快な音が鳴る。
静かだ。先ほどの看守のような怒号はない。
だが、気配がある。
俺の前方、死体の山が小刻みに震えている。
「……ア、アァ……」
赤子の泣き声のような、あるいは老婆のすすり泣きのような声。
山が崩れた。
中から現れたのは、歪な巨人だった。
だが、手足のバランスがおかしい。
右腕は異常に肥大化した筋肉の塊で、鉄板が皮膚に直接ボルト止めされている。左腕は萎縮し、赤子の手のように小さい。
下半身はない。代わりに、四、五人の人間の胴体を無理やり縫い合わせたような「台座」があり、そこから生えた無数の小さな手足が、ムカデのように地面を掻いている。
『廃棄された試作体』。
不死の兵士を作ろうとして、魂の定着に失敗し、肉体だけが増殖したバケモノ。
試作体は、俺の存在に気づくと、泣き声を止めた。
顔がない。頭部らしき場所には、鉄仮面が埋め込まれているが、その隙間から溢れ出ているのは脳漿と肉芽だ。
ズズズズッ……!
猛スピードで這い寄ってくる。
見た目に反して速い。
俺は墓標剣を構える。
試作体が肥大化した右腕を振り上げた。その手には、どこから拾ったのか、折れた石柱が握られている。
ブンッ!!
暴風ごとき一撃。
ガードは危険だ。質量差がありすぎる。
俺は横へ飛んだ。
ドゴォォン!!
石柱が死体の床を叩き潰し、肉片と汚泥を撒き散らす。
衝撃波で足がよろめく。
その隙を、奴は見逃さなかった。
台座となっている下半身から、数本の触手——いや、縫い合わされた人間の腸——が伸びてきた。
ピシッ!
鞭のようにしなり、俺の左足を捉える。
引き倒される。
「……チッ!」
俺は泥の中に背中から倒れ込んだ。
試作体が覆いかぶさってくる。
あの巨大な右腕が、俺をすり潰そうと迫る。
俺は仰向けのまま、墓標剣を両手で持ち上げ、盾のように掲げた。
ガギィィィン!!
重い。
石柱と右腕の重量が、俺の腕をへし折ろうと圧し掛かる。
剣が軋む。骨がきしむ。
顔のすぐ上で、試作体の肉芽が蠢き、涎のような液体がバイザーに垂れる。
「ウゥ……アイ、シテ……」
壊れた言葉。
力比べでは勝てない。
俺の左肩——前回、ヒルの酸で革紐が緩んでいた部分——が悲鳴を上げた。
ブチッ。
留め具が千切れた。
不味いか? いや。
俺は咄嗟に左腕の力を抜いた。
左の肩当て(ポールドロン)が外れ、ゴロリと落ちる。
その瞬間、わずかに生じた隙間。
俺は身体をひねり、圧殺の直下から滑り出した。
外れた肩当てが、俺の身代わりにプレスされ、ぺちゃんこに潰れる。
自由になった。
俺は起き上がりざま、試作体の「脇腹」——縫い目が荒く、肉が露出している部分——に狙いを定めた。
墓標剣を逆手に持ち、全体重を乗せて突き刺す。
ズブリッ!!
分厚い脂肪と筋肉を貫く手応え。
試作体が絶叫し、仰け反る。
だが、まだだ。これだけでは死なない。この肉塊には急所がない。
ならば、切り離すまで。
俺は剣を刺したまま、全力で駆け出した。
剣を鋸のように使い、奴の胴体を走りながら切り裂いていく。
バリバリバリッ!!
縫い目が弾け、内臓がこぼれ落ちる。
試作体がバランスを崩し、自身の重さに耐えきれずに横倒しになった。
肥大化した右腕が、あらぬ方向へねじ曲がる。
俺は足を止め、振り返る。
試作体はまだ動こうとしていた。台座の小さな手足が空を掻いている。
俺は奴の「頭部」——埋め込まれた鉄仮面付近へ歩み寄る。
墓標剣を高く振り上げる。
慈悲はない。あるのは終わらせる義務だけだ。
「……眠れ」
ドォン!!
鉄仮面ごと中枢を粉砕する。
肉塊の痙攣が止まった。
静寂が戻る。
俺は剣を引き抜き、こぼれ出た血溜まりに顔を近づけた。
薬品臭い、冷たい血。
美味くはない。王の実験によって混ぜ物が多い血だ。
だが、消耗した体力を戻すには十分だ。
俺は貪るようにそれを飲み干し、口元を拭った。
左肩が軽い。
肩当てを失ったせいで、左側の防御力が落ちている。その代わり、腕の可動域は広がった。
一長一短だ。
部屋の奥、汚泥の中に半ば埋もれるようにして、小さな鉄の扉があった。
廃棄物を流すための下水路への入り口だろう。
俺はその扉を蹴り開けた。
暗い通路の向こうから、微かに風の音がする。
外へ出られるかもしれない。
あるいは、城のさらに深部へ繋がっているのか。
どちらにせよ、ここに留まる理由はもうない。
俺は片方だけ軽くなった肩を回し、闇へと消えていった。




