鉄格子、あるいは壁の中の呻き
手に入れた鍵は、湿って冷たかった。
主の血で濡れているせいではない。この鍵そのものが、長い年月、誰にも触れられずに冷え切っていたからだ。
大空洞の奥にある重厚な鉄扉の鍵穴に、それを差し込む。
回らない。錆びついている。
俺は体重をかけて無理やり捻った。
ガキン、という硬質な音が響き、扉のロックが外れる。
重い扉を押し開けると、そこには奈落へと続く螺旋階段が口を開けていた。
空気が変わる。
崖の上の乾いた風は消え、地下特有の、カビと排泄物と古血が混ざったような澱んだ空気が漂ってくる。
『城壁下層』。
かつて罪人や、鉄化の進行が早すぎた者たちを隔離し、廃棄していた場所。
カツン……カツン……。
階段を下りる。足音が螺旋構造の壁に反響し、どこまでも落ちていく。
俺は兜のバイザーを下ろした。ここでは視覚よりも、反響音による空間把握が命綱になる。
階段を降りきると、狭い石造りの廊下に出た。
幅は二メートルもない。
俺は舌打ちした。これでは墓標剣を横に振れない。壁に弾かれる。
突きか、あるいは垂直の叩きつけか。攻撃手段が制限される。
廊下の両脇には鉄格子が並んでいた。
独房だ。
中を覗くつもりはないが、気配がある。
ガシャン、ジャララ……。
鎖の音。
右側の牢の中から、痩せ細った腕が伸びてきた。
俺は立ち止まらず、歩きながらその腕を鉄の籠手で払いのける。
枯れ木のような腕が折れる音がした。
だが、呻き声は一つではない。
前方、暗闇の奥から、ズルズルと何かを引きずる音が近づいてくる。
松明はない。壁の発光苔だけが頼りだ。
現れたのは、人間ではなかった。
五、いや六人の人間が、錆びた鎖で互いの身体を縛り合い、あるいは熱で皮膚が融着し、一つの塊となって動く肉団子だ。
『結合した囚人』。
個我を失い、ただ「苦痛」という共通項だけで繋がった亡者。
「アァ……ア、ア……」
複数の口から同時に漏れる悲鳴のような呼気。
肉塊から無数の腕が伸び、俺を掴もうとする。
俺は剣を短く持ち直した。
突く。
ズブッ。
先頭の一人の腹を貫く。だが、止まらない。後ろの死体たちが、前の死体を押して進んでくる。
質量による圧殺。
狭い通路でこれは厄介だ。
俺は剣を引き抜き、後ろへ下がった。
奴らは遅い。だが、通路を完全に塞いでいる。
俺は腰のポーチから、火炎瓶——油を詰めた壺——を取り出した。
貴重品だが、惜しんではいられない。
足元の石畳に叩きつける。
パリーン!
油が広がる。
俺は剣の切っ先を石床に擦り付け、火花を散らした。
ボッ!!
炎の壁が上がる。
「ギャアアアアアア!!」
囚人たちの塊が炎に包まれる。乾燥した皮膚と、ぼろ布がよく燃える。
火だるまになった肉塊がのたうち回り、やがて動かなくなる。
鼻を突く焦げ臭さ。
俺は炎が小さくなるのを待ち、炭化した死体の山を踏み砕いて進んだ。
***
通路は迷路のように入り組んでいる。
角を曲がるたびに神経をすり減らす。
不意に、天井からポタリと冷たいものが首筋に落ちた。
水か?
いや、動いた。
俺は反射的に首筋を掴み、引き剥がして床に叩きつけた。
ミミズのような、だが金属光沢を持つ蟲。
『鉄食いヒル』。
床に落ちたヒルが、俺のブーツの隙間に入り込もうと跳ねる。
俺はそれを踏み潰した。プチッ、と硬い音がして銀色の体液が出る。
見上げると、天井にびっしりと奴らが張り付いていた。
「……クソが」
俺は走った。
ポタポタと雨のようにヒルが降ってくる。
肩に、兜に、背中に張り付く。
奴らは肉ではなく、装備を食う。
接合部の革紐を溶かし、蝶番の隙間に入り込んで錆を撒き散らす。
背中の留め具が緩む感覚。
立ち止まって払っている暇はない。止まれば鎧ごと食い尽くされる。
俺は通路を駆け抜け、扉を見つけて飛び込んだ。
背後で扉を閉め、鍵をかける。
すぐに装備の点検だ。
兜を脱ぎ、籠手を外す。
鎧の隙間に入り込んでいた数匹をつまみ出し、ナイフで両断する。
危ないところだった。肘の関節部の革が半分ほど溶かされている。動きに支障が出るかもしれない。
俺は息を整え、周囲を見渡した。
逃げ込んだ先は、少し広い部屋だった。
拷問室だ。
万力、鉄の処女、棘のついた椅子。
そして、部屋の中央に、背を向けて立っている男がいた。
看守の制服を着ているが、背中が異様に盛り上がっている。
いや、背負っているのではない。
彼の背中には、顔のついた巨大な腫瘍——おそらく「双子の兄弟」が融合したもの——があり、その腫瘍が周囲を監視していた。
『双頭の看守』。
背中の「弟」が俺を見て、叫び声を上げた。
「侵入者! 侵入者ァ!」
甲高い声。
前の「兄」が振り返る。その顔は目隠しで覆われているが、手には赤熱した焼きごてを持っていた。
「どこだ、ネズミめ!」
兄が焼きごてを振り回す。
弟が指示を出す。
「右ダ! 足元ダ!」
視覚を持つ弟と、腕力を持つ兄。
連携されると厄介だ。
俺は部屋の隅にある拷問具の影に隠れた。
兄が焼きごてを振るい、近くの木製机を粉砕する。
弟が叫ぶ。「隠レタ! 机ノ裏!」
位置がバレている。
ならば、弟を潰すのが先決だ。
俺は飛び出した。
兄が反応して焼きごてを突き出す。
熱気が顔を焼く。
俺はそれを紙一重でかわし、回り込む。
弟が俺と目を合わせる。「来ルゾ! 後ろダ!」
兄が裏拳を放ってくる。
俺はあえてそれを受けた。
ガゴォッ!
左肩に重い衝撃。骨がきしむ。だが、これで距離はゼロだ。
俺は兄の背中にしがみついた。
目の前には、醜く腫れ上がった弟の顔。
「ヒッ……!」
弟が怯える。
俺は兜ごとその顔面に頭突きを見舞った。
ゴツッ!
弟の鼻が潰れ、悲鳴が上がる。
さらに俺は、弟の口の中にナイフをねじ込んだ。
「喋るな」
抉る。
弟が絶命し、ぐらりと首を垂れる。
「おい! どうした! どこだ!」
兄が狼狽する。視界を失い、闇雲に暴れ始める。
ただの狂った大男になれば、恐るるに足らない。
俺は静かに背後へ回る。
兄が虚空に向かって焼きごてを振るった、その直後。
俺は墓標剣を、奴の膝裏に叩き込んだ。
バキッ。
膝が砕け、巨体が崩れ落ちる。
俺はその首を後ろから羽交い絞めにし、喉元をナイフで掻っ切った。
噴き出す血。
俺はその場に座り込み、看守の首から流れる熱を啜った。
鉄臭い味の中に、少しだけ脂の甘みがある。
看守たちは、囚人よりもいいものを食べていたようだ。
血を飲み干し、俺は立ち上がった。
左肩の関節が少し緩い。ヒルのせいか、看守の一撃のせいか。
応急処置で革紐を締め直す。
拷問室の奥に、下層のさらに奥深くへと続く扉がある。
だが、その横に、奇妙なものが落ちていた。
古びた手記だ。
誰かが書き残したものだろう。
『下層の底、下水道のさらに下には、王の失敗作が捨てられている。誰も近づいてはならない』
俺は手記を破り捨てた。
警告など意味はない。道があるなら進むだけだ。
俺は重い扉を押し開けた。




