鉄羽の主、墜落する祈り
風が止んだ。
いや、違う。ここには風の通り道がないのだ。
巨大な岩山をくり抜いて作られたドーム状の空洞。天井は見えず、ただどこか高い場所から、ポタ、ポタと粘着質の液体が滴り落ちる音が反響している。
腐った油と、乾いた獣のフンの臭気が鼻をつく。
俺は墓標剣を引きずり、暗闇の中央へと歩み出た。
剣先が地面を削る音だけが、静寂を冒涜する。
俺の足元には、無数の骨が散乱していた。人の骨、獣の骨、そして錆びついた鉄屑。ここはゴミ捨て場であり、餌場だ。
ズゥ……。
頭上の闇が蠢いた。
空気が軋むような重圧。
直感よりも早く、俺は横へと飛び退いた。
ドォォォォンッ!!
俺が立っていた場所に、巨大な質量が落下してきた。
地面が波のように隆起し、衝撃波が俺の身体を壁まで吹き飛ばす。
砂煙の向こうで、「それ」がゆっくりと身体を起こした。
巨鳥だ。
だが、生物としての美しさはない。
翼幅十メートルはあろうかという巨体だが、その翼に生えているのは羽毛ではない。錆びた刃物、鉄板、千切れた鎖が、肉に直接突き刺さり、無理やり「翼」の形を成している。
頭部は兜と嘴が癒着し、王冠のように歪な鉄の突起が生えていた。
『鉄羽の主』。
空を飛ぶことを許されず、しかし空を諦めきれずに、鉄を纏って堕ちた天空の成れの果て。
「キシャァァァァァッ!!」
主が咆哮する。金属が引きちぎれるような叫び声。
それだけで鼓膜が破れそうになる。
俺は無言で剣を構えた。
言葉は要らない。やることは一つだ。
主が左の翼を大きく薙ぎ払った。
風圧の塊が襲ってくる。
俺は刃の嵐を掻い潜るように前転し、懐へ飛び込む。
硬い羽——いや、刃の集合体に剣を叩きつける。
ガギィン!
硬い。分厚い鉄板を何層にも重ねた装甲だ。俺の手首が痺れる。
主が不快そうに身をよじり、巨大な鍵爪がついた足で踏みつけを放つ。
俺はバックステップでかわす。
爪が地面を抉り、岩盤を粉砕する。掠っただけでミンチになる威力だ。
距離を取る。
主が羽ばたいた。
飛ぶ気か? いや、重すぎる。
奴の羽ばたきは、上昇気流を生む代わりに、凶悪な突風となって俺を襲った。
混じり合う鉄片の礫。
「……ッ」
俺は顔を腕で覆い、耐える。
皮膚が切れる。鎧が削れる。
だが、見えた。
奴が羽ばたく瞬間、重すぎる鉄の翼を支える「付け根」の肉が、悲鳴を上げて伸びきっているのが。
あそこだ。
弱点は装甲の内側ではない。自らの重さを支える関節だ。
主が再び跳躍した。
今度は滑空による押しつぶし攻撃だ。
俺は逃げない。
剣を構え、切っ先を天に向ける。
鍛冶師が埋め込んだ、あの「鉄杭」が鈍く光る。
奴の巨体が迫る。死の影が俺を覆う。
衝撃の瞬間、俺は合わせる。
「……墜ちろ」
ドォン!!
俺は主の胸板めがけて、カウンターの刺突を放った。
だが、重すぎる。俺の身体ごと地面にめり込む。
骨が軋む音が体内から響く。
しかし、剣は刺さった。
主が苦痛にのたうち回る。胸に突き立った剣を振り払おうと暴れる。
俺は剣の柄から手を離さない。離せば死ぬ。
振り回される。遠心力で視界が歪む。
主が壁に激突した衝撃で、俺の手が離れた。
俺は地面を転がり、壁際で止まる。
咳き込むと、血の塊が出た。肋骨が何本か逝ったかもしれない。
だが、主も無事ではない。
胸に突き刺さった墓標剣が、奴の動きを阻害している。
主は狂ったように壁に胸を打ち付け、剣を抜こうとしている。
その隙を、見逃す道理はない。
俺は走った。
武器はない。腰のナイフだけだ。
だが、十分だ。
俺は暴れる主の背後から、垂れ下がった尾羽根——錆びた鎖の束——に飛びついた。
よじ登る。
動く山を登攀するが如く。
主が気づいて背中を震わせる。鉄の羽が俺の背中を切り刻む。
構うものか。
俺は肩まで這い上がり、右側の翼の付け根、筋肉と機械が癒着した一点に、ナイフを突き立てた。
ザクリ。
それだけでは浅い。
俺はナイフの柄を拳で殴り、さらに奥へ、骨の継ぎ目へと打ち込む。
主が絶叫し、翼を大きく広げた。
その拍子に、胸の墓標剣が抜け落ちる音が聞こえた。
だが、遅い。
翼の制御を失った主は、バランスを崩して横倒しに転倒した。
俺は主の背中から飛び降りる。
目の前には、地面に落ちた墓標剣。
そして、無様に地に伏し、首をもたげて威嚇する主の顔。
俺は剣を拾い上げた。
重い。だが、今の俺にはこの重さが必要だ。
主が最後の抵抗に、嘴を開いて噛み付こうとする。
「……黙れ」
俺は全身全霊の力で、剣を振り下ろした。
ゴシャァッ!!
硬質な破壊音が空洞に響き渡る。
兜ごと、主の頭蓋が砕け散った。
痙攣する巨体。
あふれ出るのは、黒い油と、赫々(かくかく)とした大量の熱い血。
俺はその血の海に膝をついた。
兜のバイザーを上げ、直接、主の傷口に口をつける。
熱い。
業火のような熱量が喉を通り、内臓を焦がす。
雑兵の血とは比較にならない純度。
折れた肋骨が、音を立てて繋がっていく。
鉄化しかけていた左手の指先まで、鮮烈な感覚が戻る。
脳髄が痺れるほどの生の実感。
俺はむせ返るような鉄の匂いの中で、しばらく荒い息を吐き続けた。
やがて、主の死体が完全に冷たい鉄の塊へと変わる。
俺は立ち上がった。
傷は癒えた。だが、渇きはすぐにまた訪れるだろう。
空洞の奥、主が守っていた場所に、小さな祭壇があった。
そこには、古びた鍵が一つ、置かれていた。
『城壁下層の鍵』。
この先へ進むための道標。
俺は鍵を掴み取り、主の骸に一瞥もくれず、暗闇の出口へと歩き出した。
休息は終わりだ。




