錆びた翼、断崖の舞踏
目が覚めると、炉の火はまだ赤々と燃えていた。
泥のように深い眠りだった。何時間、あるいは何日眠っていたのか定かではない。だが、体内の鉛のような重さは少し和らぎ、思考はクリアになっていた。
「起きたか、灰被り」
鍛冶師が、金床の上に置かれた俺の装備を顎でしゃくった。
俺は無言で立ち上がり、それを手に取る。
甲冑。酸で溶けた右肩部分は、別の騎士の鎧——おそらく俺が殺した誰かのもの——を加工した鉄板で補強されていた。継ぎ接ぎだらけで不格好だが、強度は以前より増している。
そして、墓標剣。
ズシリと手に馴染む重量感。
亀裂は塞がれ、刃こぼれしていた刀身は研ぎ澄まされている。何より目を引くのは、切っ先だ。
あの狙撃手が撃ち込んできた「鉄の杭」が溶接され、鋭利なスパイク状に加工されている。
叩き潰すだけの鉄塊から、硬い装甲をも貫く「牙」を持つ武器へ。
「礼は言わんぞ。……死にたくなければ、その牙を折るな」
鍛冶師は背を向け、また別の鉄屑を叩き始めた。
俺は小さく頭を下げ、暖かな炉の前を後にした。
外へ出る。
轟音と共に、冷酷な灰の風が俺を殴りつけた。
***
横穴を出てからの道は、まさに死の細道だった。
左手は垂直に切り立った岩壁。右手は底の見えない雲海への断崖絶壁。道幅は人が二人並べるかどうか。
風が強い。気を抜けば、数十キロの装備ごと谷底へ吹き飛ばされそうだ。
キィィィッ……!
風切り音に混じって、硝子を爪で引っ掻いたような甲高い鳴き声が聞こえた。
上か。
見上げると、岩壁に張り付く「影」が三つ。
翼を持つ異形。だが、その翼は羽毛ではなく、薄く伸ばされた鉄の薄板が何層にも重なってできている。
『錆び翼のハーピー』。
かつてこの国で伝令を務めていた急使たちが、空への執着と呪いで変質した姿。
ジャリッ。
岩壁から一匹が剥がれ落ちるように急降下してきた。
速い。重力を味方につけた特攻。
足場が悪いここで大振りの攻撃はできない。振り抜いた勢いで俺自身が落ちてしまう。
俺は重心を低く落とし、新しくなった墓標剣を「槍」のように構えた。
来る。
ハーピーの足、鋭利な鉤爪が俺の顔面を狙う。
俺は一歩も引かず、タイミングを合わせて剣を突き出した。
ドンッ!!
鈍い衝突音。
ハーピーの突進エネルギーと、俺の突きが正面衝突する。
今までの鈍器のような剣なら弾かれていただろう。だが、切っ先に埋め込まれた「ボルトの牙」は違った。
ズブゥッ!
ハーピーの硬い胸骨を、スパイクが貫通した。
「ギャッ、ギィィ……!?」
串刺しになったハーピーが驚愕に羽ばたく。
重い。暴れるな。
俺はそのまま剣を振り上げ、岩壁に向かって獲物ごと叩きつけた。
グシャァッ!
鉄の羽が散乱し、ハーピーが動かなくなる。
切れ味ではない。貫通力。鍛冶師の仕事は完璧だ。
残りの二匹が同時に襲ってくる。
一匹は正面から。もう一匹は旋回して背後、崖側から俺を突き落とそうと狙っている。
連携か。
俺は串刺しにした死体を剣から振り払うと、正面の奴に向かって投げつけた。
死体同士が空中で衝突し、もつれ合って谷底へ落ちていく。
あと一匹。背後。
風圧を感じる。
振り返る暇はない。俺は崖に背を向けたまま、自身の背中の装甲でタックルを受け止めた。
ガァン!
衝撃で足が浮く。
身体が宙に投げ出される——寸前、俺は片手で岩の突起にしがみついた。
足元は虚空。
ハーピーが俺の頭上で旋回し、トドメを刺そうと急降下してくる。勝ち誇ったような鳴き声。
俺はしがみついていない方の手、右手一本で墓標剣を握りしめた。
腕の筋繊維がブチブチと悲鳴を上げる。重すぎる。片手で振れる代物ではない。
だが、一撃だけなら。
「……墜ちろッ!!」
俺は咆哮と共に、剣を真上へ振り上げた。
死角からのアッパーカット。
ハーピーの顎を、剣の腹が直撃する。
ゴギョッ。
砕ける音。脳震盪を起こしたハーピーが、ふらふらと空中へ弾き飛ばされ、そのまま羽ばたくこともできずに雲海へと消えていった。
俺は懸垂して崖上の道へ戻った。
息が切れる。心臓が早鐘を打っている。
血は手に入らなかった。死体はすべて落ちてしまったからだ。
徒労だ。だが、生きている。
俺は震える手で剣を握り直し、先へ進んだ。
***
細道を抜けると、巨大な吊り橋が現れた。
赤錆びた極太の鎖を編んで作られた橋。風に煽られ、ギシギシと不気味な音を立てて揺れている。
その向こう岸には、断崖をくり抜いて作られた巨大な石造りの神殿が見える。
目的地だ。
俺は揺れる橋に足をかけた。
一歩、二歩。
鎖の隙間から下を見れば、目がくらむ高さだ。
橋の中腹まで来た時、対岸から「それ」が歩いてきた。
カシャン……カシャン……。
全身を灰色のマントで覆った長身の騎士。
手には、先端がフック状になった長いポールアーム(鉤鎌槍)を持っている。
『葬送の橋守』。
橋を渡ろうとする亡者を、その鉤爪で引っ掛け、奈落へと投げ捨てることだけに特化した処刑人。
逃げ場のない一本橋。
橋守が無言で鎌を構える。
風が強まる。橋が大きく右へ傾いた。
俺は体勢を低くし、鎖を掴んで耐える。
橋守は動じない。まるで足の裏が橋と一体化しているかのように、傾斜に合わせて平然と歩いてくる。
ヒュッ!
鎌が伸びてくる。突くのではない。「引っ掛ける」動きだ。
俺の足首を狙った一撃。
ジャンプして避ける——のは自殺行為だ。着地でバランスを崩せば終わりだ。
俺は剣を地面(鎖)に突き立て、それを支点にして身体を横へずらした。
カチンッ。
鎌のフックが俺の横を通り過ぎ、鎖に引っかかる。
チャンスか? いや、罠だ。
橋守が鎌を引く。鎖ごと橋が激しく揺さぶられる。
俺はたまらず膝をついた。
その隙に、橋守が接近してくる。今度は鎌の「刃」の方で、俺の首を刈り取るつもりだ。
間合いに入られた。
こちらの剣は大振りすぎて、揺れる足場では振れない。
なら、道連れだ。
俺は迫りくる鎌を左腕の籠手で受け止めた。
ガリガリガリッ!
鉄が削れる火花が目の前で散る。装甲が裂け、生身に刃が食い込む。痛い。熱い。
だが、掴んだ。
俺は鎌の柄を掴んだまま、橋の縁に向かって全力で身体を投げ出した。
「一緒に来い!」
俺の体重+装備重量。
予期せぬ荷重に、さしもの橋守も体勢を崩す。
二人もろとも、橋から転落——。
ガシャァァン!!
俺たちは落ちなかった。
俺は右手一本で、橋の縁の鎖にしがみついていた。
そして左手には、まだ橋守の鎌が握られている。
橋守は、その鎌の柄にしがみつき、俺の下でぶら下がっていた。
人間梯子の状態。
俺が手を離せば、奴は落ちる。だが、俺の左手には奴の鎌が食い込んでいる。離せない。
橋守が俺を見上げる。その兜の奥に、底知れぬ恐怖を見た気がした。
奴が這い上がろうと暴れる。そのたびに俺の左腕の傷口が広がる。
限界だ。
俺は右足で、ぶら下がっている橋守の顔面を蹴りつけた。
一度、二度。
泥のついたブーツで、鉄仮面を何度も踏みつける。
「離せ、落ちろ、死ね!」
三度目。
橋守の指が鎌の柄から滑った。
奴は音もなく、灰色の霧の中へと吸い込まれていった。
数秒後、微かな着地音すら聞こえなかった。
俺は鎖にへばりつき、這い上がった。
左腕からは血が滴り、鎖を赤く染めている。
痛い。だが、心地よい痛みだ。生の実感だ。
俺は左腕に食い込んでいた橋守の鎌——いまや俺の戦利品だ——を引き抜き、放り捨てた。
そして懐から、前回薬師から奪ってとっておいた小瓶を取り出す。中身は空だが、底にへばりついた生命の残滓を舐める。
気休め程度だが、出血による目眩は収まった。
橋を渡りきる。
目の前には、岩山を穿って作られた巨大な空洞。
『風鳴りの大空洞』。
ここが、このエリアの最深部だ。
奥から、地響きのような、あるいは巨大な何かが呼吸をするような音が聞こえてくる。
俺は墓標剣を握り直し、暗闇へと歩を進めた。




