灰の風、あるいは鉄の音
梯子を登りきると、そこは「崖」だった。
視界が一気に開ける。だが、そこに広がる光景は、希望とは程遠いものだった。
頭上を覆う分厚い鉛色の雲。眼下には、先ほどまでいた『煤の街』が黒い染みのように広がっている。
そして、地平線の彼方には、天と地を繋ぐ巨大な赤錆びた鎖——『天の楔』が何本も突き刺さっているのが見えた。この世界が崩れ落ちないよう、神々が無理やり繋ぎ止めているという伝説の鎖だ。
ヒュオオオオ……。
乾いた風が吹き抜ける。
地下の湿気とは真逆の、水分を奪う灰の風。
俺は大きく息を吸い込んだ。喉がザラつく。
酸でボロボロになった右肩の装甲が、風を受けてカタカタと頼りない音を立てた。
限界だ。武器も防具も、これ以上の戦闘には耐えられない。
その時だった。
風切り音とは違う、鋭い飛翔音が鼓膜を震わせた。
ドスッ!!
俺の足元、わずか数センチの石畳に、太い鉄の杭が突き刺さった。
狙撃。
「……ッ!」
俺は反射的に、近くの崩れた石壁の裏へ飛び込んだ。
カァン! カァン!
続けて二発、隠れた壁に杭が弾かれる音が響く。
どこだ?
俺は兜のバイザーの隙間から、慎重に射線を探る。
百メートルほど先。監視塔の残骸の上に、人影が見えた。
身の丈ほどもある長大なバリスタ(攻城弓)を構えた兵士。
『風読みの射手』。
彼らは動かない。その代わり、何キロ先だろうと正確に獲物の眉間を射抜く、動く砲台だ。
厄介な場所にいる。
一本道だ。あそこを通らなければ先へは進めないが、遮蔽物は少ない。
こちらの武器は近接用の大剣のみ。盾はない。
走って抜けるか?
無理だ。数十キロの鎧を着て、あの杭の速度より速く走ることはできない。
俺は足元の石ころを拾い、放り投げてみた。
ヒュン、ドスッ!
石が地面に落ちる前に、正確に撃ち落とされた。
機械的な反応速度。
だが、装填には時間がかかるはずだ。
一発撃たせて、その隙に走る。それしかない。
俺は酸で溶けかけた右肩のアーマーパーツ——もう役には立たない鉄屑——を引きちぎり、囮として左側へ放り投げた。
ドォン!
狙い通り、射手は囮に反応して引き金を引いた。
今だ。
俺は右側の岩陰から飛び出した。
全速力。肺が焼けつくように痛む。
距離を詰める。あと五十メートル。
塔の上の射手が、ハンドルを回して弦を引く動作が見える。
速い。もう次弾が来る。
遮蔽物はない。
「……うぉぉぉッ!!」
俺は止まらず、墓標剣を正面に構えた。
斬るためではない。弾くためでもない。
ただ、心臓を守る「盾」として。
ガギィィィン!!
凄まじい衝撃が腕を襲う。
飛来した杭が、剣の刀身に直撃した。
剣が手から弾き飛ばされる。手首が捻挫するほどの威力。
だが、貫通はしていない。俺はまだ生きている。
武器を失った。
しかし、距離は詰めた。あと十メートル。
射手が三発目を装填しようと焦る気配が伝わる。
俺は懐のナイフを抜く暇も惜しみ、塔の壁を蹴って跳躍した。
射手の目の前へ。
奴がバリスタを鈍器として振り回そうとする。
遅い。
俺は鉄塊と化した左の拳を握りしめ、全体重を乗せて射手の顔面——兜のバイザー部分——を殴りつけた。
ゴシャッ!!
兜がひしゃげ、中からグチュリと何かが潰れる音がした。
射手は糸が切れた人形のように塔から転落し、地面に叩きつけられた。
静寂。
俺は荒い息を吐きながら、吹き飛ばされた墓標剣を拾いに行く。
刀身の中央に、深い亀裂が入っていた。
もう限界だ。次の一撃で、この剣は折れるだろう。
そうなれば俺は終わりだ。爪楊枝でドラゴンに挑むようなものだ。
途方に暮れかけた時、風の音に混じって、リズミカルな音が聞こえてきた。
カン、カン、カン……。
鉄を打つ音。
戦いの音ではない。創造の音だ。
塔の裏手、崖のくぼみに、小さな横穴があった。入り口にはボロボロの旗が掲げられている。
『安息』を示すルーン文字。
俺はその穴へと吸い込まれるように入っていった。
***
横穴の奥は、驚くほど暖かかった。
巨大な炉が燃えている。
その前で、一人の老人が金床に向かっていた。
老人、と呼ぶべきか。その身体は半分以上が機械仕掛けの義体になっており、頭部には溶接用のマスクが癒着している。
『墓守の鍛冶師』。
彼は俺が入ってきても、手を止めなかった。
赤熱した鉄を打ち、火花を散らしている。
「……ひどい有り様じゃな」
しゃがれた声。彼はこちらを見ずに言った。
「鉄の匂いが腐っておる。薬師の酸か? それとも、己の血の錆か」
俺は何も言わず、亀裂の入った墓標剣と、酸で溶けた肩当てを彼の前に置いた。
鍛冶師が手を止める。
マスクの奥の目が、じろりと俺の装備を値踏みした。
「直せと言うか。このガラクタを」
俺は無言で頷き、腰袋から取り出したものを差し出した。
これまでに倒した敵の装甲片。門番の棘付き鉄板、薬師の歪んだナイフ、射手のボルト。
この世界では、質の良い鉄こそが通貨だ。
鍛冶師はそれを手に取り、鼻を鳴らした。
「……悪くない鉄だ。怨念が染み付いておる。これなら、前の持ち主よりはマシな形に打てるだろう」
カンッ、と鍛冶師が金床を叩く。
「座れ、灰被り。仕事にかかる。……その間、死ぬんじゃないぞ」
俺は炉の近く、煤けた壁にもたれて座り込んだ。
温かい。
この国で初めて感じる、殺意のない熱源。
緊張の糸が切れ、泥のような疲労が押し寄せてくる。
カン、カン、カン……。
鍛冶師の槌音が、子守唄のように響く。
俺の剣が、防具が、炎の中で再生されていく。
鉄が叩かれるたびに、俺自身の魂の歪みも矯正されているような錯覚を覚える。
瞼が重い。
少しだけ、眠ろう。
夢を見ない眠りを。
目が覚めれば、また殺戮の旅が始まる。
だが今は、この火の暖かさだけを信じていたい。




