黒い油雨、嗤う鉄犬
大扉の向こう側には、夜があった。
いや、この国に太陽は昇らない。常に鉛色の空が垂れ込めているが、ここはとりわけ暗い。
そして、雨が降っていた。
頬を打つ雫に冷たさはない。ぬるりと粘りつく、不快な感触。
俺は指先でそれを拭い、鼻に近づける。
「……油か」
水ではない。空から降っているのは、黒く酸化した機械油だ。
ここは『煤の街』。かつて鉄鎖の国の心臓部である大溶鉱炉に仕える労働者たちが住んでいた下層居住区。
降り注ぐ油雨が、石畳を黒く染め上げ、視界を滲ませている。
俺は慎重に足を運ぶ。
足元が悪い。油に濡れた石畳は氷のように滑る。数十キロの甲冑を纏う俺にとって、転倒は命取りになりかねない。
カツン、と金属のブーツが石を噛む音だけが、死に絶えた街に響く。
道の両脇には、崩れかけた煉瓦造りの家々が並んでいる。
扉も窓も失われた家屋の中を、横目で覗き見る。
いた。
食卓を囲むように座る、四体の人影。
父親、母親、そして二人の子供だろうか。彼らはスープ皿に顔を突っ込んだまま、あるいはパンを手に持ったまま、完全に鉄化していた。
逃げる暇さえなかったのだ。ある日突然、大気中の錆の濃度が臨界点を超え、この街の住人を一瞬で彫像に変えた。
彼らは襲ってはこない。中身の魂ごと、完全に物質になっているからだ。
俺は視線を切る。
羨ましいとは思わない。だが、あのように静かに固まることが許されなかった者たちもいる。
チャリ……。
雨音に混じって、鎖を引きずるような微かな音が耳を掠めた。
止まる。
気配は一つではない。三、いや四。
建物の影、崩れた屋根の上。闇の中に、赤く発光する眼が浮かび上がった。
「グルルル……」
喉の奥で鉄片を擦り合わせたような唸り声。
野犬だ。だが、ただの犬ではない。
皮膚は硬い皮革と鉄板のパッチワークと化し、あごの骨は鋭利な鉄のトラバサミのように変形している。『鉄顎の猟犬』。
街に残されたペットや野良犬が、生き延びるために死体を喰らい、呪いを取り込んだ成れの果て。
ダンッ!
号令もなく、一匹が屋根から飛びかかってきた。
速い。
俺は反射的に墓標剣を盾にする。
ガィィィン!!
強烈な衝撃。犬とは思えない質量だ。剣の腹に噛みついた猟犬の牙が、火花を散らす。
俺は腕力に任せて剣を振り払い、犬を壁に叩きつけた。
だが、休む間はない。
左右から同時に二匹が迫る。
足元は油で滑る。大剣を振り回せば、遠心力で体勢を崩すだろう。
「チッ!」
俺は剣を振るうのを諦め、あえて左腕——まだ感覚の鈍い籠手——を前に突き出した。
ガブリ。
右側の犬が、俺の前腕に噛みつく。
鋭い痛みが走るが、鉄化した骨は砕けない。
俺は噛みつかせたまま左腕を振り上げ、犬ごと地面に叩きつけた。
グシャッ。
油と泥が跳ねる。犬が怯んだ隙に、右足でその頭部を踏み抜く。
頭蓋が砕ける感触。一匹処理。
残りの二匹が背後に回る気配。
俺は前転し、距離を取ろうとするが、油に足を取られて膝をつく。
不味い。
背中の装甲に衝撃。爪が鉄板を削る音が耳元で響く。
体勢が低い。大剣は取り回せない。
俺は腰のダガーを抜き、背後も見ずに逆手で突き出した。
肉を裂く感触。
だが、浅い。
猟犬たちは執拗だ。集団で獲物をいたぶり、弱らせ、確実に殺しに来る。
俺の呼吸が荒くなる。
肺が熱い。戦闘による興奮と、周囲に充満する油の臭気で、喉が焼けるようだ。
その時だった。
通りの奥から、チリチリという異音が近づいてきた。
猟犬たちが動きを止める。奴らが怯えている?
俺は顔を上げる。
雨の向こうから、ふらふらと歩いてくる人影があった。
肥大化した腹部、全身に巻き付いた鎖。そして右手には、自身の頭ほどもある巨大なランタンを提げている。
いや、ランタンではない。あれは——。
「……焼却夫」
かつて疫病が流行った際、汚染された死体を焼却処分していた係員だ。
奴の腹部は赤熱し、皮膚の裂け目からは漏れ出した火の粉が舞っている。
焼却夫が俺たちに気づく。
「オ、オォ……熱、イ……」
奴がランタン——火種が入った鉄籠——を振り回した。
ボウッ!!
籠から炎が撒き散らされる。
地面の油に引火した。
一瞬で、路地が炎の海と化す。
猟犬の一匹が火に巻かれ、悲痛な鳴き声を上げてのたうち回る。
俺は熱風に顔を背けながら、後退した。
油雨は火を消すどころか、燃料となって火勢を強める。
ここは地獄の釜だ。
猟犬たちは逃げ去った。残るは、炎の中を平然と歩いてくる焼却夫のみ。
奴は俺を「焼くべきゴミ」と認識したようだ。
距離、五メートル。
奴が再び鉄籠を構える。
逃げ場はない。左右は燃える家屋。後ろに下がれば、袋小路に追い詰められる。
ならば。
俺は炎の壁に向かって走った。
熱い。鎧が熱せられ、皮膚を焦がす。
だが、錆びついて動かなくなるよりはマシだ。
焼却夫が鉄籠を振り下ろす。
俺はその軌道を読み、スライディングで奴の足元へ滑り込んだ。
油で滑る地面が、今だけは味方する。
奴の股下を潜り抜け、背後へ。
立ち上がりざま、墓標剣を逆手に持ち、奴の背中——赤熱して柔らかくなっている脊椎付近——に切っ先をあてがう。
「燃え尽きろ」
体重を乗せて、突き刺す。
ズブブブブッ!!
焼けた肉に冷たい鉄が沈む音。
焼却夫が絶叫し、腹部の内圧が高まる。
爆発する。
俺は剣を突き刺したまま、奴の身体を蹴り飛ばし、瓦礫の陰に飛び込んだ。
ドォォォン!!
鈍い爆発音と共に、焼却夫の上半身が弾け飛んだ。
撒き散らされた内臓——それは燃え盛る石炭のような塊だった——が、雨の中に散らばる。
静寂が戻る。炎が雨に打たれて、ジュー、ジューと音を立てている。
俺はふらつく足で、焼却夫の下半身が残る場所へ歩み寄る。
断面からは、ドロドロとした黒い体液が流れている。煮えたぎるアスファルトのような血だ。
普通なら飲めたものではない。
だが、今の俺には選り好みしている余裕はない。
俺は手ですくったそれを、口に運ぶ。
苦い。そして、喉が焼けるほど熱い。
味覚が拒絶するが、身体は歓喜していた。高熱のエネルギーが胃袋で爆ぜ、四肢に力がみなぎる。
「……不味いな」
吐き捨て、俺は顔を拭う。
炎が消えかけた路地の向こうに、下り階段が見えた。
この街のさらに下、地下水路へと続く道だ。
雨は止まない。
俺は軋む身体を引きずり、暗い穴の底へと降りていく。
休息はまだ、遠い。




