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鏡の中の餓獣、赤き鉄の共食い

保育室からの熱気が遠ざかると、再び冷ややかな静寂が戻ってきた。

 だが、この回廊の静けさは、今までのどの場所とも違っていた。

 張り詰めている。

 壁の両側には、かつて王族たちが自らの姿を映したであろう、巨大な銀の鏡がずらりと並んでいる。

 鏡面は曇り、黒い染みが浮いているが、それでもそこを通る俺の姿をぼんやりと映し出していた。

 俺は足を止めた。

 鏡の中の自分を見る。

 ひどい有様だ。

 左肩の装甲はなく、ボロボロの下着と痩せた腕が露出している。右脛の当て金も砕け、ブーツは血と泥と油で元の色がわからない。

 英雄の姿ではない。墓を荒らす盗掘者の成れの果てだ。

 だが、鏡に映っているのは、俺一人ではなかった。

 回廊の奥。

 鏡の世界から染み出してきたかのように、一人の男が立っていた。

 俺と同じく、全身を重厚な甲冑で覆った戦士。

 だが、その鎧は異様だった。

 色は鮮血のように赤く錆びついている。そして、肩や胸の装甲が、明らかに「他人の鎧」を無理やり溶接して継ぎ足したものだった。

 誰かの兜の一部が膝当てになり、誰かの剣の破片が籠手のスパイクになっている。

 『同族喰らいのヴェルガン』。

 鉄鎖の国を救うためではなく、ただ他の騎士を狩り、その装備と血を奪い続けることで延命してきた、最悪の古参兵。

 ヴェルガンが、ゆっくりと兜のバイザーを上げる。

 中身の顔は見えない。ただ、闇の奥から、品定めをするような濁った視線を感じる。

「……いい鉄だ」

 しゃがれた、鉄ヤスリを擦り合わせたような声。

「鍛冶師の仕事だな。……そして、随分と上等な熱を持っている」

 彼は背中の大剣を引き抜いた。

 刀身が波打つフランベルジュ(波刃剣)。のこぎりのように肉を引き裂き、出血を強いる処刑の道具。

 刀身には、べっとりと乾いた血が層になってこびりついている。

 俺は何も言わず、墓標剣を構えた。

 言葉は通じない。奴にとって俺は「人間」ではない。「燃料」であり「素材」だ。

 ザッ。

 ヴェルガンが踏み込む。

 速い。重装備とは思えない瞬発力。

 波刃剣が唸りを上げて迫る。

 俺は剣で受け止める。

 ガギィィィン!!

 火花が散る。

 重い。だが、今までの巨大生物やゴーレムのような圧倒的な質量ではない。

 技術スキルの重さだ。

 奴は剣の腹を滑らせ、俺の鍔迫り合いを無効化しつつ、切っ先を俺の喉元へねじ込んでくる。

 俺は首を捻って避ける。

 ジャリッ。

 波刃が兜の側面を削る。

 ヴェルガンは止まらない。流れるような動作で剣を返し、今度は下段から斬り上げてくる。

 狙いは、俺の無防備な左側——装甲のない左肩と脇腹だ。

 「そこだろ?」

 奴は弱点を見抜いている。

 俺はバックステップで距離を取るが、波刃の先端が左腕を掠める。

 プシュッ。

 鮮血が舞う。

 浅い。だが、痛みが思考を鈍らせる。

 「逃げるなよ」

 ヴェルガンが笑う。

 「その左肩、俺のコレクションに丁度いい」

 奴が再び間合いを詰める。

 正面からの打ち合いでは分が悪い。奴は対人戦のプロだ。俺の動きを熟知している。

 ならば、奴が知らない手を使うしかない。

 俺は『静寂の指輪』をはめた左手を握りしめた。

 奴が大剣を振り上げる。

 俺は右手の墓標剣を投げる——フリをして、足元の石片を蹴り上げた。

 カツンッ!

 石が右側の鏡に当たる音。

 ヴェルガンの視線が、一瞬だけ音の方へ向く。

 戦士の習性。音への反応。

 だが、俺の足音はしない。

 俺はその隙に、左側の死角へと踏み込んだ。

 音もなく。影のように。

 ヴェルガンが視線を戻した時には、俺は奴の懐に入っていた。

 大剣の間合いの内側。

 俺は墓標剣を短く持ち、奴の腹部へタックルをかました。

 

 ドォォン!

 

 金属同士がぶつかる鈍い音。

 ヴェルガンがよろめく。

 俺は追撃する。剣のグリップで、奴の兜の顎部分を殴り上げる。

 ゴツッ!

 奴の頭が跳ね上がる。

 だが、ヴェルガンも歴戦の猛者だ。体勢を崩しながらも、裏拳で俺を殴り飛ばす。

 俺は床を転がり、距離を取る。

 互いに荒い息。

 ヴェルガンが兜の位置を直す。

「……小賢しい指輪だ」

 奴の殺気が膨れ上がる。

 「だが、音などなくても、肉の焼ける匂いは隠せないぞ!」

 奴が波刃剣を床に擦り付けた。

 摩擦熱で刀身が赤熱する。

 エンチャント(武器強化)。

 奴は自分の武器を熱し、傷口を焼き斬るつもりだ。

 来る。

 赤熱した刃の乱舞。

 俺は防戦一方になる。

 受けるたびに剣が熱を持つ。左腕の傷が開く。

 鏡が割れる。破片が飛び散る。

 追い詰められる。背後は壁だ。

 

 ヴェルガンがトドメの突きを放つ。

 「頂きだッ!」

 俺は逃げ場がない。

 

 ——ここだ。

 

 俺は左腕を前に出した。

 防御ではない。あえて「刺させた」のだ。

 ズプッ!!

 赤熱した波刃が、俺の左前腕、装甲のない生身を貫通する。

 ジュッという音。肉が焼ける激痛。

 「捕まえたぞ」

 俺は叫びを噛み殺し、貫通した剣が抜けないように、筋肉に力を込めて締め付けた。

 骨でロックする。

 ヴェルガンの動きが止まる。

 「なッ!?」

 俺は右手の墓標剣を捨てた。

 そして、腰のナイフを引き抜き、奴の首元の継ぎ目——唯一の隙間——に両手で突き立てた。

 

 「食らえッ!!」

 

 ザクリッ!

 ナイフが深々と突き刺さる。

 俺はさらに体重を乗せ、傷口を抉る。

 ヴェルガンが絶叫し、俺を振り払おうと暴れる。

 左腕が千切れそうだ。焼けるような熱さが全身を駆け巡る。

 だが、離さない。

 俺は奴の兜に頭突きを見舞い、さらにナイフを押し込む。

 

 ブシャァァァッ!!

 

 奴の頸動脈から、どす黒い血が噴水のように溢れ出した。

 熱い。

 これまでのどの敵よりも濃厚で、鉄臭く、そして生命力に満ちた血。

 何百人もの騎士を喰らってきた奴の血は、高純度の燃料だ。

 

 ヴェルガンの力が抜ける。

 赤錆びた巨体が、俺に覆いかぶさるように崩れ落ちた。

 

 俺は左腕から波刃剣を引き抜いた。

 激痛。だが、傷口はすでに焼かれて塞がっている。

 そして、浴びた大量の返り血が、急速に俺の体力を回復させていく。

 心地よい酩酊感。

 俺はしばらく、死体の上で呼吸を整えた。

 やがて、俺は立ち上がる。

 ヴェルガンの死体を見下ろす。

 奴の左肩。

 そこには、以前奴が誰かから奪ったであろう、頑丈な「赤錆びた肩当て」が付いていた。

 皮肉なことだ。

 

 俺はナイフで革紐を切り、その肩当てを剥ぎ取った。

 自分の左肩にあてがう。

 サイズは合う。少し重いが、防御力は申し分ない。

 俺はそれをベルトで固定した。

 

 カチン、と留め具が鳴る。

 これで俺も「同族喰らい」の仲間入りか。

 自嘲気味に笑おうとしたが、顔の筋肉が強張って動かなかった。

 

 鏡を見る。

 そこには、左肩だけ赤い鎧をまとった、新しい怪物が映っていた。

 だが、目はまだ死んでいない。

 

 回廊の突き当たり。

 巨大な両開きの扉がある。

 『王の間』。

 すべての始まりであり、終わりの場所。

 

 俺は墓標剣を拾い上げ、血を振るい落とした。

 行くぞ。

 俺は扉に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。


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