揺りかごの守り手、錆びついた子守唄
梯子を降りるにつれ、空気の質が変わっていくのが分かった。
屋根裏の埃っぽさと、外気の冷たさが消え、代わりに湿度を含んだ、甘ったるい匂いが漂い始める。
焚き染められた高価な香木。そして、古びたミルクと血が混ざったような、生理的な嫌悪感を催す匂い。
俺は音もなく床に降り立った。
そこは、高い天井を持つドーム状の広間だった。
壁には分厚いビロードのカーテンが引かれ、外光を完全に遮断している。照明は、壁の窪みに置かれた無数の蝋燭だけ。揺らめく火影が、部屋の中央に置かれた無数の「揺りかご」を照らし出していた。
揺りかご。
それらは木や藤で編まれたものではなく、精巧な銀細工で作られていた。
だが、中身は空っぽではない。
俺は近くの一つを覗き込んだ。
中にいたのは赤子ではなかった。赤子の形をした、冷たい鉄の塊。
服を着せられ、ガラガラを持たされたまま、永遠に成長を止めた鉄の赤子たち。
一つだけではない。部屋中にある数十の揺りかご全てに、同じような鉄塊が眠っている。
ここは『静止した保育室』。
あるいは、王家の墓所か。
「……陛下?」
部屋の奥から、かすれ切った声が聞こえた。
俺は墓標剣の柄に手をかけ、気配を殺してカーテンの影に身を隠した。
静寂の指輪が、俺の足音と鎧の擦れる音を完全に消している。
声の主が現れた。
白いエプロンドレスを着た、小柄な老女。
顔全体を包帯で覆い、その上から鉄の拘束具を嵌められている。
『盲目の乳母』。
彼女は両手で大切そうに、豪奢な天蓋付きの揺りかご——この部屋で最も大きなもの——を揺らしていた。
「陛下でございましょう? お足音が聞こえませんもの……ああ、また『音消し』の悪戯をなさって」
乳母は空虚な壁に向かって微笑みかけた。
彼女は狂っている。あるいは、時間感覚が呪いが始まる前で止まっているのか。
「王子様は、今日もご機嫌麗しゅうございますよ。ええ、ええ……少しも、お変わりなく」
乳母が揺りかごの中の何かを愛おしげに撫でる。
「腐りもせず、老いもせず、泣きもせず……永遠に、清らかなまま」
永遠。
大書庫で見た手記を思い出す。『魂の停滞』。
王はこの子を死なせたくなかったのだ。病か、あるいは死産だったのか。だから、時を止めた。
その結果が、この鉄の国だ。
この部屋こそが、呪いの爆心地に近い。
俺は乳母の背後を通って、出口へ向かおうとした。
戦う理由はない。彼女はただの壊れた装置だ。
だが、俺が揺りかごの横を通り過ぎた瞬間。
ピタリ。
乳母の手が止まった。
包帯の下の鼻が、ひくりと動く。
「……違う」
声色が凍りつく。
「お花の匂いがしない。お香の匂いもしない」
彼女がゆっくりとこちらを向く。見えていないはずの目が、俺を射抜く。
「鉄と……油と……古い血の臭い」
「泥棒猫ッ!!!」
裂帛の悲鳴。
乳母が懐から鈴を取り出し、狂ったように振り鳴らした。
チリン、チリン、チリン!!
空気が震える。
ギギギ……ガシャン。
部屋の隅、玩具箱のような巨大なチェストが開き、中から「それ」が這い出してきた。
ガチャガチャと不快な駆動音。
現れたのは、身長二メートルほどの球体関節人形だった。
だが、そのボディは美しい陶器ではなく、武骨な真鍮と鉄のギアで作られている。
手足は異常に長く、関節が本来曲がらない方向へと捻じれている。
右腕には、身の丈ほどもある巨大な縫い針。左腕には、布を裁つための大鋏。
『機巧の騎士』。
王子をあやし、守るために作られた、殺戮の玩具。
「やっておしまい! その不潔なネズミを、端切れにしておしまい!」
乳母の絶叫と共に、機巧の騎士がバネ仕掛けのように跳躍した。
速い。生物的な予備動作がない。
いきなりトップスピードで、俺の目の前に着地する。
ヒュン!
縫い針による突き。
俺は首を逸らす。
風圧が頬を切り裂く。
ただの突きではない。針の先端が高速回転し、ドリルになっている。装甲など紙同然に貫くだろう。
俺はバックステップで距離を取る。
だが、騎士は止まらない。
カカカカッ!
奇怪な足音を立てて追撃してくる。
左の大鋏が横薙ぎに振るわれる。
俺は墓標剣で受け止める。
ガギィン!
重い。玩具のくせに、出力はプレス機のようだ。
押し込まれる。背後には鉄の赤子が入った揺りかご。
邪魔だ。
俺は揺りかごを蹴り飛ばし、退路を作った。
ガシャーン!
揺りかごが転がり、中から鉄の塊が転げ落ちる。
「ああっ!? 王子様ッ!!」
乳母が悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。
機巧の騎士が反応した。
守るべき対象が粗末に扱われたことで、攻撃優先度が切り替わる。
奴の頭部——のっぺらぼうの鉄仮面——が、ギチギチと回転し、蒸気を噴き出した。
暴走モード。
シュババババッ!
騎士がコマのように高速回転を始めた。
両手の針と鋏を振り回し、無差別に周囲を切り刻む旋風となる。
俺は床に伏せた。
頭上を死の嵐が通過する。
カーテンがズタズタに裂け、蝋燭がなぎ倒される。
火が燃え移る。ビロードが焦げる匂い。
近づけない。あんな回転体に触れれば肉片になる。
だが、この部屋には遮蔽物が少ない。
俺は転がりながら、倒れた揺りかごの銀の枠を掴んだ。
そして、回転して迫ってくる騎士の足元へ、それを滑らせた。
ガツッ!!
高速回転する騎士の脚に、硬い銀のフレームが絡まる。
物理的な干渉。
「ギ、ガガガガ……ッ!?」
バランスを崩した騎士が、独楽が倒れるように盛大に転倒した。
壁に激突し、自身の回転力で手足を壁に打ち付ける。
チャンスだ。
俺は起き上がり、よろめく騎士へと走った。
奴はまだ動こうとしている。歯車が軋む音。
俺は墓標剣を振りかぶる。狙うのは頭部でも胴体でもない。
背中だ。
あそこに見える、巨大なゼンマイの巻き鍵。あれが動力源だ。
「止まれッ!!」
俺は剣を、背中の鍵穴付近に叩きつけた。
斬撃ではない。粉砕の一撃。
バキィィィン!!
真鍮の鍵が折れ飛び、内部のメインスプリングが弾ける音が響いた。
ビヨン、と巨大なバネが背中から飛び出し、騎士の動きが完全に停止する。
瞳のない仮面が、ガクリと下を向いた。
部屋は静まり返った。
燃え始めたカーテンの爆ぜる音と、乳母の嗚咽だけが響く。
乳母は床に落ちた「鉄の王子」を抱きしめ、蹲っていた。
俺は彼女を無視し、破壊した騎士の残骸を探った。
動力炉の近くから、一滴だけ、虹色に光る液体が漏れ出している。
『精製された機巧油』。
最高級の潤滑油であり、同時に高密度のエネルギー源でもある。
俺はそれを指ですくい、舐めた。
甘い。蜂蜜のように濃厚で、脳が溶けそうな快楽がある。
疲労困憊の筋肉に、活力が漲る。
俺は立ち上がった。
乳母はまだ泣いている。俺に気づいているのか、いないのか。
殺す必要はない。彼女はもう、この部屋から出ることはないだろう。
燃え広がる炎が、永遠の保育室を焦がしていく。
部屋の奥、隠し扉のようなタペストリーが焼け落ち、通路が現れた。
その先からは、冷たく澄んだ風が吹き込んでくる。
城の本丸。王の玉座へと続く回廊。
俺は背後の炎と慟哭を置き去りにして、暗い通路へと踏み出した。
呪いの源流は見えた。
あとは、その元凶を断つだけだ。




