硝子の雨、砕け散る美貌
バルコニーに出た瞬間、強烈な風圧が俺を襲った。
眼前の屋根に鎮座していた『結晶の古竜』の眷属が、巨大な翼を広げて飛翔したのだ。
戦うのか?
いや、奴は俺を一瞥もしなかった。
ただの羽虫と認識したのだろう。あるいは、この足場の悪い屋根の上で、じっくりといたぶるつもりか。
竜は優雅に旋回し、遥か頭上、城の尖塔へと飛び去っていった。
残されたのは、銀色の月光を反射して輝く、広大で致命的な屋根の道だけ。
俺は手すりを乗り越え、屋根瓦の上に足を下ろした。
ジャリッ。
足元から微かな音がする。
瓦は凍りついているのではない。薄い結晶の膜でコーティングされているのだ。
極めて滑りやすい。そして、傾斜は急だ。
一歩踏み外せば、数百メートル下の石畳までノンストップで滑落し、赤い染みになるだけ。
俺は重心を低くし、四つん這いに近い姿勢で進み始めた。
静寂の指輪が、俺の甲冑が立てるはずの金属音を消している。
聞こえるのは風の音と、遥か下界から響く亡者たちの呻き声だけ。
屋根の稜線を歩く。
その時、風の音が変わった。
ヒュンッ——パリーン!!
俺の足元、わずか数センチ先の瓦が弾け飛んだ。
破片が頬を掠める。
石ではない。透き通るような青い「結晶の槍」が突き刺さっている。
狙撃。
俺は反射的に近くの煙突の影に身を隠した。
どこだ?
バイザー越しに目を凝らす。
百メートルほど先。屋根と屋根を繋ぐ梁の上に、人影が見えた。
全身が半透明の水晶でできた弓兵。
『結晶の狙撃手』。
彼らが持っているのは弓というより、巨大なバリスタに近い。つがえているのは矢ではなく、自身の身体から生成した結晶の杭だ。
シュッ!
二発目が来る。
煙突に着弾。
ドゴォッ!
隠れていた煉瓦造りの煙突が、一撃で半壊する。
貫通力も凄まじいが、着弾した瞬間に結晶が破裂し、周囲に散弾を撒き散らすのが厄介だ。
じっとしていれば削り殺される。
進むしかない。
だが、道は一本の細い梁の上だ。遮蔽物はない。
走れるか? あの氷のような足場で。
落ちれば死。撃たれれば死。止まれば死。
単純な三択だ。
俺は息を吸い込み、肺の中の錆を焼いた。
煙突から飛び出す。
狙撃手が反応し、弓を引き絞る。
俺は走らない。
あえてゆっくりと、しかし止まらずに歩いた。
走れば滑る。滑れば回避できない。
ヒュッ!
閃光。
俺は首を右に傾けた。
カツン。
結晶の槍が、兜の左側の「角」を掠めて飛び去った。
数ミリの死線。
恐怖で足がすくみそうになるのを、殺意でねじ伏せる。
次弾装填まで数秒。
俺はその隙に距離を詰める。
狙撃手は動かない。奴らに逃げるという概念はない。
距離、十メートル。
奴が弓を構える。
俺は墓標剣を地面(梁)に突き立て、それを軸に身体を回転させた。
遠心力を乗せた、捨て身の跳躍。
空中で矢が鼻先を通過する。
俺は狙撃手の上空から、自身の体重と剣の重量を叩きつけた。
ガシャァァァン!!
美しい音がした。
高級なシャンデリアを床に落としたような、繊細で残酷な破砕音。
結晶の狙撃手が、粉々に砕け散る。
肉も血もない。ただの砕けた鉱石の山が残るだけ。
俺は梁の上に着地し、バランスを崩して片膝をついた。
滑る。
危うく自分も落ちるところだった。
息つく暇はない。
砕けた狙撃手の背後から、新たな敵が現れた。
今度は弓兵ではない。
全身が分厚い結晶の鎧で覆われた、大柄な騎士。
『結晶の重装兵』。
手には、巨大な結晶塊を削り出して作ったハンマーを持っている。
狭い梁の上での接近戦。
最悪のロケーションだ。
騎士がハンマーを振り上げる。
俺はバックステップ……できない。後ろは断崖だ。
受けるしかない。
俺は墓標剣を横にし、両手で支えた。
ガギィンッ!!
重い。
腕の骨がきしむ。だが、剣は折れない。
問題は足場だ。
衝撃で足が滑り、梁から身体が半分投げ出される。
俺は片手で梁の縁にしがみついた。
宙ぶらりんの状態。
騎士が見下ろしている。そののっぺらぼうの顔が、無慈悲にハンマーを構え直す。
指を踏み潰す気だ。
絶体絶命。
だが、俺は見た。
騎士の足元。俺がさっき粉砕した狙撃手の破片——小さな結晶の粒が散らばっているのを。
奴らが滑らないのは、足裏がスパイク状になっているからだ。だが、球状の破片の上ではどうだ?
俺はぶら下がったまま、騎士の足首を掴み、手前に引いた。
騎士が踏ん張ろうとする。
ズルッ。
足元の破片がベアリングの役割を果たし、騎士の足が滑った。
巨体がバランスを崩す。
ハンマーの重さに引かれ、騎士が頭から落ちてくる。
俺はその身体を避けるように、懸垂して梁の上に戻った。
入れ替わり。
騎士は無言のまま、スローモーションのように落下していった。
数秒後、遥か下で、小さく煌めく光が弾けたのが見えた。
「……クソみたいな眺めだ」
俺は梁の上に大の字になった。
心臓が早鐘を打っている。
だが、休憩は許されない。
キィィィン……。
空気が共鳴する音。
上空を見上げる。
さっき飛び去ったはずの眷属——結晶の飛竜が戻ってきた。
俺を「脅威」と認識したらしい。
竜が口を大きく開ける。
喉の奥で、まばゆい光が凝縮されていく。
ブレスだ。
俺は跳ね起きた。
梁を走り抜け、向こう側の屋根へ飛び移る。
その背後を、白い閃光が薙ぎ払った。
パキパキパキパキッ!!
ブレスが触れた場所が、一瞬で結晶化していく。
炎ではない。触れるもの全てを鉱物に変える呪いの光。
もし浴びていれば、俺は今頃、永遠に解けない彫像になっていただろう。
竜が旋回し、二撃目の予備動作に入る。
屋根には遮蔽物がない。
だが、屋根の傾斜の下、雨樋の先に、崩れかけたステンドグラスの窓が見えた。
城内への入り口。
あそこへ逃げ込むしかない。
俺は屋根の斜面を滑り降りた。
摩擦で尻の装甲が熱を持つ。
竜がブレスを吐く。
白い光が迫る。結晶化の波が、俺の滑降速度を追いかけてくる。
「間に合えッ!」
俺は雨樋を蹴り、空中に身を投げ出した。
パリーンッ!!
ステンドグラスを突き破り、城内へと転がり込む。
背後で、窓枠ごと壁一面が結晶化し、完全に封鎖される音がした。
着地。
そこは埃っぽい屋根裏部屋だった。
俺は床に転がったまま、天井を見上げた。
塞がれた窓の隙間から、美しいが致命的な光が漏れている。
助かった。
俺は身体を起こし、自身の装備を確認する。
足の装甲の一部が白く変色し、カチカチに固まっていた。
ブレスの余波を食らったか。
俺は剣の柄でその部分を叩いた。
パキン、と音を立てて装甲が砕け落ち、下のボロボロの革と皮膚が露出する。
装備がまた軽くなった。
防御力は下がる一方だが、生存本能だけは研ぎ澄まされていく。
屋根裏部屋の奥に、下へと続く梯子があった。
この下は、おそらく城の礼拝堂、あるいは王の玉座に近い場所だろう。
俺は結晶化した破片を払い落とし、暗い穴へと降りていった。




