赤錆の獅子、沈黙の狩り場
重い鉄の扉が、錆びついた悲鳴を上げて開いた。
『王城中庭の鍵』。
その先には、白く濃い霧が立ち込めていた。
視界は悪い。五メートル先も見えない乳白色の闇。
だが、空気は凍りつくように冷たく、そして鼻を曲げるような獣臭さが漂っている。
俺は足を踏み入れた。
静寂の指輪のおかげで、足音はしない。俺は幽霊のように霧の中を進む。
中庭。かつては王族が宴を楽しんだ場所なのだろう。
霧の切れ間から、朽ち果てた長テーブルや、倒れた彫像が見え隠れする。
だが、宴の客はもういない。
代わりに、食事を求めて徘徊する者たちがいる。
フシュッ……フシュッ……。
濡れた鼻息の音。
近い。
俺は崩れた石壁の影に身を隠した。
霧の中から現れたのは、巨大な獅子だった。
だが、その鬣は鋭利なワイヤーの束のように硬質化し、皮膚は鉄板のように黒光りしている。
『鉄鬣の獅子』。
眼球はすでに錆びて脱落し、空洞になった眼窩から赤い光が漏れている。
奴らは目が見えない。
だが、嗅覚と聴覚は異常に発達している。
獅子が鼻を鳴らし、俺が隠れている石壁の方へ顔を向けた。
足音は消しているはずだ。
なぜバレる?
俺は自分の太腿を見た。
先ほどの近衛騎士に刺された傷。焼いて塞いだが、激しい動きで傷口が開き、僅かに血が滲んでいる。
匂いだ。
鉄の匂いが充満するこの国で、生者の血の甘い香りは、闇夜の篝火のように目立つのだ。
「グルゥ……ッ!」
獅子が低く唸り、跳躍の構えを取った。
バレているなら、隠密は無意味だ。
俺は壁から飛び出し、墓標剣を構えた。
ダンッ!
獅子が飛びかかってくる。
速い。数百キロはある巨体が、砲弾のように迫る。
俺は左手のバックラーを構える——が、やめた。歪んだ小盾では、この質量を受け止めきれない。
俺は地面を転がり、獅子の股下を潜り抜けた。
ズシャァッ!
獅子の爪が、俺がいた場所の石畳を豆腐のように切り裂く。
俺は振り返りざま、獅子の後ろ足、アキレス腱にあたる部分を薙ぎ払った。
ガギッ!
硬い。刃が肉に食い込まず、鉄の皮膚に弾かれる。
獅子が振り向き、鉄の鞭のような尻尾で俺を打つ。
バチンッ!
右腕に直撃。骨に響く衝撃。
硬すぎる。まともに斬り合えば刃こぼれするだけだ。
弱点を探せ。
奴が再び迫る。大きく口を開け、俺の頭を噛み砕こうとする。
口の中。そこだけは赤い肉が見える。
俺は賭けに出た。
左手のバックラーを外す。
獅子が飛びかかる瞬間、俺はその歪んだ盾を、奴の口の中へと放り投げた。
ガブッ!!
獅子が反射的に盾を噛む。
鉄の味がする異物に、奴が一瞬だけ混乱して動きを止める。
その刹那。
俺は墓標剣を逆手に持ち、噛みついている獅子の顎の下から、脳天へ向けて突き上げた。
「死ねッ!」
ズドォォォン!!
切っ先のパイルが、顎の柔らかい皮膚を貫き、脳髄を破壊する。
獅子が痙攣し、どうと倒れ伏した。
静寂が戻る……いや、まだだ。
霧の奥から、複数の唸り声が聞こえる。
血の匂いが増したせいで、群れが集まってきている。
ここで戦い続ければ、いずれ物量で圧殺される。
俺は走った。
匂いを消さなければならない。
中庭の中央、水音が聞こえる方角へ。
そこには、巨大な噴水があった。
女神像が瓶から水を注いでいるが、その水は透明で、どこか油っぽい。
『聖女の涙』と呼ばれる、不凍の聖水。
俺はためらわず、噴水の溜池に飛び込んだ。
ジャボン。
冷たい液体が全身を包む。
俺は血の滲む太腿を洗い、鎧についた返り血を洗い流した。
冷気が傷口を麻痺させ、匂いを封じ込める。
獅子の群れが噴水の周りに集まってくる。
三体、四体。
奴らは鼻をヒクつかせ、獲物を探している。
俺は噴水の縁に背を預け、息を潜めた。
心臓の音さえ消えてくれと願う。
指輪の力と、聖水の消臭効果。
獅子たちはしばらく周囲を彷徨っていたが、やがて興味を失い、霧の中へと散っていった。
助かった。
俺は大きく息を吐き、震える手で濡れた髪をかき上げた。
噴水の女神像の足元に、光るものが沈んでいた。
俺は手を伸ばし、それを拾い上げる。
ガラス瓶に入った、金色の粉末。
『雷光の松脂』。
武器に塗れば、一時的に雷を帯びさせることができる消耗品。
鉄の鎧や、濡れた敵には絶大な効果を発揮するはずだ。
俺は水から上がった。
寒さで身体が重いが、血の匂いは消えた。
霧の向こうに、城の本館へと続く巨大なアーチが見える。
その入り口には、獅子たちさえ近づかない異様な気配が漂っていた。
俺は松脂をポーチにしまい、濡れたブーツで音もなく歩き出した。
バックラーは失った。
また防御の手段が減ったが、荷物は軽くなった。
前へ進むしかない。




