凍てつく回廊、音なき暗殺者
ガコン、と重い音を立ててリフトが停止した。
鉄柵を開く。
瞬間、肌を刺すような冷気が吹き込んできた。
寒い。地下の湿った冷気とは違う。生物の体温を根こそぎ奪い去る、高高度特有の凍てつく風だ。
吐く息が白く凍り、兜のバイザーに霜が降りる。
俺は足を踏み出した。
そこは、王城の外壁にへばりつくように作られた、頼りない石造りの回廊だった。
手すりはない。一歩踏み外せば、雲の下まで真っ逆さまだ。
見上げれば、天を貫く巨大な「鉄鎖」が、城の塔に直接突き刺さっているのが見える。神々がこの国を地上に繋ぎ止めるために打ち込んだ楔。その巨大さに、自分が蟻になったような錯覚を覚える。
ザッ、ザッ。
歩き出して、違和感を覚えた。
音がしない。
数十キロの鉄塊である甲冑が擦れ合う音も、ブーツが石を踏む音も、極端に小さい。まるで遠くで鳴っているようだ。
『静寂の指輪』。
司教から奪った指輪が機能している。
俺は自分の身体が幽霊になったような不気味さを感じつつも、これを最大限に利用することにした。
回廊の角。
俺は壁に背を預け、そっと様子を伺う。
いた。
十メートル先、回廊の中ほどに、石像のように動かない影が二つ。
背中に蝙蝠のような翼を持ち、石槍を手にした衛兵。
『城壁のガーゴイル』。
彼らは本来は石像だが、侵入者を感知すると擬態を解き、その石の皮膚と怪力で襲いかかってくる。
視界は悪いが、聴覚は鋭い厄介な相手だ。
だが、今の俺に「音」はない。
俺は呼吸を殺し、忍び寄る。
風の音が俺の気配を消してくれる。
距離、五メートル。まだ気づかない。
三メートル。石の皮膚のひび割れが見える。
一メートル。
俺は墓標剣を構え、後ろから手前のガーゴイルの首筋に狙いを定めた。
「……崩れろ」
ドゴッ!!
剣の質量が、無防備な石の首を直撃した。
甲高い破砕音。
ガーゴイルの首が胴体からへし折れ、ゴロリと床に落ちる。
奴は悲鳴を上げる暇もなく、ただの瓦礫となって崩れ落ちた。
もう一体が反応する。
「ギシャァッ!?」
相棒が突然砕けたことに驚愕し、石槍を構えて振り返る。
だが、遅い。
俺はすでに踏み込んでいる。
突き出された石槍を、左手の甲で外側へ弾く。装甲のない左肩を晒す形になるが、懐に入れば槍は死に体だ。
俺はガーゴイルの胴体にタックルし、そのまま回廊の縁へと押し込んだ。
奴が翼を広げて踏ん張ろうとする。
だが、俺は奴の足元を墓標剣の柄で払った。
バランスを崩したガーゴイルが、背中から虚空へ投げ出される。
奴は俺の腕を掴もうとしたが、指先が空を切った。
ヒュゥゥゥ……。
悲鳴と共に、石塊が雲海へと吸い込まれていく。
数秒待っても、着地音は聞こえなかった。
静寂が戻る。
俺は剣を肩に担ぎ直し、先へ進んだ。
この指輪があれば、無駄な戦闘を避けられるかもしれない。体力は温存したい。
***
回廊を抜けると、城壁内部へと続く尖塔があった。
だが、その入り口へと続く細長い橋の上に、強敵が立ち塞がっていた。
白銀の鎧に身を包み、背中に深紅のマントを羽織った騎士。
手には細身だが長大な「刺突剣」、左手には円盾。
『王城の近衛騎士』。
下層のゾンビや、外壁の石像とは違う。明確な知性と、洗練された剣技を持つエリートだ。
彼は橋の中央で仁王立ちし、微動だにしない。
兜の奥の瞳が、油断なくこちらを見据えている。
隠密は通用しない。一本道だ。
俺は覚悟を決め、橋へと足を踏み入れた。
風が強い。マントが激しくはためいている。
近衛騎士が静かに剣を構えた。
無駄のない、美しい構え。
ジリジリと間合いを詰める。
シュッ!
騎士が踏み込んだ。
速い。目で追うのがやっとの速度で、刺突が繰り出される。
俺は首を捻ってかわす。
頬の装甲を金属音が掠める。
俺は墓標剣を横薙ぎにする。
だが、騎士はバックラーでそれを受け流した(パリィ)。
カァン!
俺の力が逃がされ、体勢が崩れる。
そこへ、鋭い追撃。
騎士のエストックが、俺の装甲の薄い継ぎ目——左脇腹を正確に貫いた。
ズプッ。
「ぐッ……!」
冷たい痛みが走る。
深手ではないが、的確に急所を狙ってくる。
技術では相手が上だ。まともに剣を交えれば、じわじわと削り殺される。
騎士が再び構え直す。余裕すら感じる動作。
俺は息を吐いた。白い霧が舞う。
力比べでもない。技術比べでもない。
ここは殺し合いの場だ。
俺はポーチに手を伸ばした。
騎士が警戒して盾を構える。投げナイフか、火炎瓶かと思ったのだろう。
だが、俺が掴んだのは「ただの石ころ」だった。
俺はそれを、騎士の後ろ、塔の壁面に向かって全力で投げつけた。
指輪の効果で、俺の投擲動作に音はない。
だが、石が壁に当たれば音は出る。
カァン!
騎士の背後で音が響く。
一瞬。ほんのコンマ一秒、騎士の意識が背後の音に引きつけられた。
達人ゆえの、「背後からの奇襲」への過敏な反応。
その刹那が、俺の勝機。
俺は踏み込んだ。剣ではない。
体当たりだ。
ドォン!!
俺の全体重と鎧の重量を、騎士の盾ごしにぶつける。
騎士がよろめく。
橋の幅は狭い。
俺は追撃の手を緩めない。
墓標剣の柄で、騎士の兜を殴りつける。
ガゴッ!
騎士が膝をつく。
俺は騎士のマントを掴み、その身体を橋の手すりに押し付けた。
騎士が抵抗し、エストックで俺の太腿を刺す。
痛い。だが、離さない。
「落ちろ」
俺は騎士の足をすくい上げ、橋の外へ放り投げた。
騎士の手が、橋の縁を掴む。
驚異的な執念。
俺は冷酷に、その白い指を鉄のブーツで踏み砕いた。
グシャ。
騎士は一言も発さず、しかし怨嗟の籠もった瞳で俺を睨みながら、白い霧の中へと消えていった。
勝った。
俺は太腿に刺さったままのエストックを引き抜いた。
鮮血が噴き出す。
傷口を押さえ、騎士が落としたバックラー(小盾)を拾い上げる。
俺の大剣には不釣り合いな小ささだが、左肩の防御を失った今の俺には、貴重な守りになるかもしれない。
俺は足を引きずりながら、尖塔の中へと入った。
中には、枯れた噴水があり、その縁に「篝火」が灯されていた。
久しぶりの安全地帯。
俺は篝火のそばに倒れ込むように座り込んだ。
太腿の傷を焼いて止血する。
ジュッ、という音と肉の焼ける匂い。
痛みで目が覚める。
ここはまだ入り口だ。
塔の上層からは、何やら重々しい鐘の音が聞こえてくる。
俺はバックラーを左腕に装着し、少しだけ目を閉じた。




