共鳴する祈り、砕ける沈黙
リフトの前、円形の広場には、奇妙な静寂が満ちていた。
風もない。刃の葉擦れの音もしない。
ただ、広場の中央に浮かぶ「それ」が発する、耳鳴りのような高周波だけが鼓膜を刺していた。
地面から数十センチ浮遊しているのは、豪華な法衣をまとった骸骨だった。
頭部には、目隠しのように黄金の輪が嵌められている。手には武器の代わりに、複雑な装飾が施された銀の聖鈴。
『詠唱する司教』。
かつて王家に仕え、鉄化の呪いを鎮めるために祈り続け、やがてその声自体が呪いへと変質した高位聖職者の成れの果て。
俺が広場に足を踏み入れると、司教がゆっくりと聖鈴を振った。
チリーン……。
澄んだ音が響く。
その直後、俺の身体に異変が起きた。
ガガガガッ!!
「……ぐッ!?」
全身の甲冑が、勝手に振動を始めたのだ。
いや、甲冑だけではない。俺の体内、肺にこびりついた錆、血液の中の鉄分、そして硬化した左腕の骨が、鈴の音に呼応して暴れ出した。
共鳴。
物理的な衝撃ではない。身体の内側からミキサーにかけられるような激痛。
俺は膝をついた。
視界が揺れる。鼻からツーと血が垂れる。
「アァァァ……オォォォ……」
司教が歌い始めた。
声帯などないはずの喉から響くのは、ガラスを鉄の爪で引っ掻いたような、神経を逆撫でする賛美歌。
歌声が波紋となって広がる。
周囲に立っていた鉄の彫像たちが、その波を受けてビビリと震え、増幅器となって俺に音波を浴びせかける。
頭が割れそうだ。
墓標剣を握る手が痙攣して力が入らない。
この鎧が悪い。全身を覆う鉄の板が、音を反響させる檻になっている。
だが、脱ぐ時間はない。
司教が再び鈴を掲げる。
音の圧力が増す。
目に見えない巨大なハンマーで、全方向から叩かれている感覚。
俺は地面を這った。
近づかなければ。奴の喉を潰さなければ、この頭痛は終わらない。
だが、一歩進むたびに内臓が破裂しそうだ。
嘔吐する。胃液に赤錆が混じっている。
その時、ふと気づいた。
痛みが「偏っている」。
右半身は、装甲が音を拾って激しく振動し、筋肉をずたずたに引き裂いている。
だが、左半身——特に肩当てを失い、生身が露出している左肩周辺——は、痛みが鋭いだけで、振動の籠もり方が弱い。
皮肉なことだ。
防御を失った欠陥が、ここでは唯一の救いになっている。
鉄がない場所には、共鳴は留まらない。音は突き抜けていく。
俺は決断した。
剣を地面に突き立て、それを支えに立ち上がる。
真正面からは行けない。音が強すぎる。
俺は身体を右に傾け、装甲のある右側を「盾」にして音波を受け流し、左半身を前へ突き出した。
走る。
司教が歌のテンポを上げる。
音の障壁が俺を弾き飛ばそうとする。
右腕の血管が切れ、鎧の隙間から血が霧のように噴き出す。
構うものか。
痛みで意識が飛びそうだ。だが、殺意だけが足を動かす。
距離、あと五メートル。
司教が詠唱を止め、トドメの一撃——極大の共鳴波を放とうと息を吸い込む動作に入った。
静寂の一瞬。
ここだ。
俺は懐のナイフを抜いた。
投げるのではない。
俺は墓標剣の柄頭を、ナイフの柄尻で叩いた。
カァン!!
鋭い金属音が、静寂に割り込んだ。
それは司教の歌とは違う、無骨で汚い鉄の音。
だが、完璧な共鳴の準備をしていた空間に、異質な周波数が混ざった。
「ギ……!?」
司教の詠唱が乱れる。
音波が衝突し合い、奴の周囲で空気が爆ぜた。
自爆。
司教がバランスを崩し、地上へ落下する。
俺はその隙を逃さない。
一気に間合いを詰める。
墓標剣を両手で握りしめ、下から掬い上げるように振り抜いた。
ズバァンッ!!
重い剣撃が、司教の下半身を捉え、カチ上げ空中に浮かす。
続けて、落下してくるところを、水平に薙ぎ払う。
ホームランのような一撃。
司教の細い身体がくの字に折れ、脊椎が粉砕される音が響く。
奴はボロ雑巾のように吹き飛び、広場の石柱に叩きつけられた。
まだ動くか。
俺は倒れた司教に歩み寄る。
奴は震える手で聖鈴を握り、最期の呪歌を紡ごうとしている。
「……黙れ」
俺はブーツの踵で、その聖鈴を踏み砕いた。
グシャ。
美しい銀細工が鉄屑に変わる。
そして、司教の喉元——音の源泉——に、剣の切っ先を突き立てた。
プスッ。
音もなく貫通する。
司教の身体から、青白い光の粒子が漏れ出し、霧散していく。
血肉ではない。純粋な魔力の塊。
俺はその光を肺いっぱいに吸い込んだ。
冷たい。
血の熱さとは違う、氷水を飲んだような清涼感が全身を駆け巡る。
音波で傷ついた内臓が、冷やされ、鎮静化していく感覚。
耳鳴りが止んだ。
俺は司教の死体——ただの骨——を探る。
懐から、装飾された指輪が出てきた。
『静寂の指輪』。
微かに魔力を帯びている。おそらく、装着者の足音を消す効果がある。
俺はそれを小指にはめた。
鉄の籠手の上からではきついが、無理やり押し込む。
広場の奥、巨大なリフトのレバーが見える。
俺はそれを引いた。
ゴゴゴゴゴ……。
地響きと共に、床が上昇を始める。
視界が上がる。
鉄の庭園が、汚泥の廃棄場が、そして遠くに煤の街が小さくなっていく。
風が強くなる。
目指すは雲の上。
王城の外壁、天空に近い場所へ。
俺は手すりにもたれかかり、眼下に広がる灰色の世界を見下ろした。
ここまで登ってきた。
だが、空はまだ鉛色だ。
リフトの鎖が巻き上げられる音だけが、俺の耳に心地よく響いていた。




