鉄の棺桶
目覚めはいつも、窒息寸前の苦悶と共にやってくる。
肺が軋む。肋骨の内側にこびりついた赤錆が、呼吸をするたびにヤスリのように肺胞を削り取っていく感覚。空気を吸うのではない。舞い散る鉄粉と灰を、無理やり臓腑へと押し込む作業だ。
「……ガ、ッ……」
喉の奥から漏れたのは、人の声というよりは、蝶番が錆びついた扉を無理やり開いたような音だった。
重い。瞼を開けることさえ、万力で締め上げられているかのような抵抗がある。
俺はゆっくりと右手を動かした。ガリ、ゴリ、と不快な振動が腕を伝って脳髄を揺らす。
視線を落とす。そこにあるのは、継ぎ接ぎだらけの無骨な甲冑だ。かつては銀色だったのかもしれないが、今はどす黒い油と、何層にも重なった血の汚れでコーティングされている。
だが、問題は甲冑ではない。その内側だ。
左腕を見る。籠手の隙間から見える皮膚が黒ずみ、硬質化していた。感覚がない。石のようだ。
「……限界か」
思考も鈍い。頭の中に灰が詰まっているようだ。
この世界——『鉄鎖の国』の呪いは平等だ。生者からは熱を奪い、死者には安息を与えず鉄塊へと変える。
俺の左腕は、もう半分死んでいる。あと数時間もすれば、この硬化は心臓まで達するだろう。そうなれば、俺は意識のない『錆び人』として、永遠にこの廃墟を彷徨うことになる。
嫌だ。
それだけが、俺を突き動かす唯一の燃料だった。
俺は傍らに突き刺さっていた『墓標剣』の柄を握りしめる。刃渡り二メートル、分厚い鉄の塊のような剣。
引き抜く。ズズ、と地面の石畳が削れる音がした。
立ち上がると、全身の関節が悲鳴を上げた。油が切れている。熱が足りない。
熱が必要だ。
誰かの、まだ脈打っている熱い命が。
俺は兜のバイザーを下ろし、灰色の霧が立ち込める回廊へと足を踏み出した。
***
回廊の先、崩れたアーチの下に「それ」はいた。
かつては城の衛兵だったものだろう。頭部が完全に鉄と一体化し、兜の隙間からは乾燥した苔のようなものが垂れ下がっている。
錆びついた歩兵。
奴はこちらの足音——金属が擦れ合う不協和音——に気づくと、ぎこちなく首を回した。
「……ウ、ウゥ……」
呻き声と共に、奴が手にした直剣を構える。速さはない。だが、迷いもない。ただ「生者を排除する」という機構だけが残った動く屍。
俺は走らない。走れないのだ。
一歩ずつ、地面を踏みしめて間合いを詰める。
敵が踏み込んでくる。錆びた直剣が、俺の左肩を目掛けて振り下ろされた。
避けない。
ガァン!!
甲高い衝撃音が回廊に響く。俺の肩当てが火花を散らし、衝撃が骨に響く。だが、それだけだ。分厚い装甲は、なまくらな刃を通さない。
敵の剣が弾かれ、奴の体勢がわずかに崩れる。
その瞬間を、俺は待っていた。
「ふんッ!」
呼気と共に、墓標剣を横薙ぎに振るう。
斬撃ではない。これは質量による打撃だ。
ドゴォッ!!
剣の腹が、歩兵の脇腹に直撃する。板金鎧が紙のようにひしゃげ、中で骨と内臓が潰れる嫌な感触が手に伝わる。
敵が دمる(だまる)間もなく吹き飛び、壁に激突した。
だが、まだ動く。鉄の呪いはしぶとい。頭を潰さぬ限り、奴らは止まらない。
俺は這いずろうとする歩兵の上に馬乗りになった。
左手で奴の兜を掴み、地面に押し付ける。
「寄越せ」
右手の剣を捨て、腰のナイフを抜く。
装甲の隙間、首元の継ぎ目に刃をねじ込む。こじ開ける。
プシュッ、と蒸気のような音がして、赤黒い液体が噴き出した。
血だ。まだ温かい、生の証。
俺はその傷口に、獣のように覆いかぶさった。
鉄臭いマスク越しに、熱い液体が流れ込んでくる。食道を焼き、胃袋に落ちるその熱量。
ドクン、と俺の心臓が強く跳ねた。
全身に行き渡る熱。錆びついていた関節に油が差されたように、痛みが引いていく。
視界にかかっていた霧が晴れる。
左腕の硬化が、数ミリだけ後退した気がした。
(……足りない。まだ、これだけじゃ……)
足元の死体は、急速に灰色に変色し、ただの鉄塊へと変わっていく。
俺は口元を拭い、再び大剣を拾い上げた。
***
廃城の入り口付近。崩れかけた礼拝堂の中に、微かな灯りが見えた。
俺は重い足取りでそこへ向かう。
礼拝堂の中央、瓦礫に埋もれるようにして、一人の女性が座り込んでいた。
いや、それはもう人間ではない。
全身が灰白色の石になり、顔の半分が欠け落ちた「聖女」の石像だ。だが、彼女の胸元、抱きしめられた手のひらの内側で、小さな炎が揺らめいている。
この国で唯一、呪鉄の進行を止める聖なる残り火。
俺はその前にドサリと腰を下ろした。
炎の近くは、空気が澄んでいる。鉄の匂いが薄れ、呼吸が楽になる。
つかの間の休息。
俺は懐から、先ほどの歩兵が落とした「遺品」を取り出した。
潰れた銀のロケット。
泥と血を親指で拭う。中には、下手くそな絵が入っていた。
金色の髪の女と、青い何か。おそらく、空だ。
この鉛色の雲に覆われた国に来てから、一度も見たことのない青色。
「……空とは、こんな色だったか」
独り言が漏れる。
この歩兵も、かつては誰かを守るために剣を握り、この空の下で笑っていたのだろうか。今はもう、ただの鉄屑だ。
俺もいつか、そうなる。
ロケットを懐にしまう。感傷に浸る時間はない。火が小さくなっている。
ジャリ、と入り口で石が鳴った。
休息の終わりだ。
***
礼拝堂を出て、次のエリアへと続く大扉の前。
そこには、明らかに今までの雑兵とは違う「気配」があった。
ズゥーン……ズゥーン……。
地面を揺らす足音。
扉を守るように立っていたのは、身の丈三メートルはある巨漢だった。全身に棘のついた鉄板を溶接し、右手には自身の身長ほどもある処刑用の大斧を引きずっている。
門番。
奴の兜には覗き穴すらない。ただ殺意だけがそこにある。
「……行くぞ」
俺は墓標剣を構える。
巨漢が咆哮を上げた。声帯などとうに失われているのか、それは蒸気機関が暴走したような轟音だった。
ブンッ!!
大斧が横薙ぎに振るわれる。
速い。あの巨体で、この速度か。
俺は背中から地面に倒れ込み、滑り込むようにして回避した。
頭上数センチを、死の風が通り抜ける。石柱がバターのように切断され、轟音と共に崩れ落ちた。
まともに受ければ、鎧ごと両断される。
俺は起き上がりざま、巨漢の膝裏を狙って剣を叩きつける。
ガギィン!!
硬い。刃が通らない。逆にこちらの手首が痺れる。
巨漢が振り返り、大斧を振り上げる。
来る。振り下ろしだ。
左右に避ける余裕はない。俺は覚悟を決め、一歩「前」に出た。
大斧の柄の部分に向かって、身体ごとタックルを仕掛ける。
ドォン!
衝撃で全身の骨がきしむ。だが、刃の直撃は避けた。
密着状態。ここなら大斧は振るえない。
俺は剣を捨て、硬質化した左手で、巨漢の腹部の装甲板を掴んだ。
「おおおぉぉぉッ!!」
雄叫びと共に、指に力を込める。鉄と化した指は、人間の握力を遥かに超えている。
メリメリメリッ!
溶接された鉄板を、無理やり引き剥がす。
巨漢が暴れる。裏拳が俺の兜を殴り飛ばす。
視界が揺れる。口の中が切れて血の味がする。意識が飛びそうだ。
だが、手は離さない。
剥がれた装甲の下、どす黒く脈打つ筋肉が露出した。
「そこだッ!!」
俺は右手のナイフを逆手に持ち、全体重をかけてその肉に突き立てた。
根本まで。
さらに柄をねじり、傷口を広げる。
ブシャァァァッ!!
滝のような血が俺の全身を濡らす。
巨漢が絶叫し、膝をついた。
その巨大な身体が崩れ落ちる前に、俺は奴の首元へ這い上がり、食らいつく。
大量の、圧倒的な熱量。
雑兵とは比べ物にならない生命力が、俺の中に雪崩れ込んでくる。
巨漢が完全に動かなくなるまで、俺は貪り続けた。
やがて、静寂が戻る。
俺は血塗れのまま立ち上がった。左腕を見る。
硬質化していた皮膚が剥がれ落ち、その下から、傷だらけだが生身の肌が覗いていた。
延命成功。
だが、これは始まりに過ぎない。
俺は鉄屑と化した門番の死体を乗り越え、大扉を押し開けた。
その先には、果てしない闇と、さらに深い絶望が広がっていた。
「……進むぞ」
誰にともなく呟き、俺はまた一歩、地獄の底へと足を踏み入れる。




