95 ただの審査員として
マナは、淡々と桃のケーキの計量を進めていく。
秤に視線を落とし、数値を確認し、指差しで復唱する。 一つひとつの動作が、迷いなく、速い。
(……かなり早くなったな)
松永は腕を組み、その手元だけを追っていた。
(しかも、必ず指差し確認をしている。ミスをなくすための癖が、完全に身についている)
だが――。
(審査員は、出場者の努力や過去なんて知らない)
(目の前の技術と結果だけを、淡々と評価する)
松永の手元には、評価シート。
1から10までの数値で、項目ごとに点を入れていく。
・作業の丁寧さ
・衛生面
・ケーキの仕上げ
・テーマ性
・味、食感
・将来性
・オリジナル性
過去の大会で使われていた評価表を参考にしながら、松永が独自に手を加えたものだった。
(……頑張れよ、マナ)
土台となる桃のケーキの仕込みが終わる。 マナは一度、作業台をきれいに片付け、アルコールで丁寧に拭き上げた。
そして、飴細工用のパラチニットを鍋に入れ、加熱を始める。
その横顔に、ほんの一瞬だけ疲労の色が浮かんだ。
──二日前。
「マナ、通し練習は休みの日にするか?」
「いえ……仕事が終わった後でお願いします」
「いいのか? かなり疲れるぞ」
「きっと……大会当日、緊張して、いつもよりコンディションが良くないと思うんです」
一瞬、言葉を選んでから、マナは続けた。
「だから、仕事終わりの一番きつい状態で、やっておきたいです」
「……わかった」
松永は短く答えた。
「俺も、真剣に向き合う」
マナは、飴細工とマジパンのパーツをすべて仕上げ、組み立てに入った。
しかし――。
大樹の葉のパーツが、うまく定まらない。
カツン、と音を立てて落ちる。
一度……二度。
それでも、マナは表情を変えなかった。
呼吸を整え、もう一度、位置を確認する。
(大丈夫……出来る)
集中を切らさず、丁寧に、確実に。
やがて、全体のバランスが整った。
最後に、残った力を振り絞るように、アイシングで繊細な模様を描き上げる。
時計を見る。
21時10分。
「……できました」
「お疲れ様です」
松永は、淡々と答え、評価シートに目を落とす。
完成した作品を撮影し、そのまま、実食に入った。
表情は変えない。一口ずつ、噛み締めるように味を確かめながら、ペンを走らせる。
カリ、と紙を押す音だけが、静かな厨房に響いていた。
沈黙が続く。
十分ほど経ってから、松永はマナをまっすぐ見つめ、静かに口を開く。
「……これが俺の評価だ」
差し出された評価シートに視線を落とす。
100点満点中――92点。
「……えっ……」
「マナ、よくやったな」
張りつめていた空気が、ふっと緩む。
松永は、ようやくいつもの優しい表情に戻り、微かに笑った。
「松永さん……」
「ちゃんと第三者として評価した。素晴らしかった。特にケーキの食感、味、全体のバランスもよく出来ていた」
その言葉に、胸の奥で張り詰めていたものが一気にほどける。
気づいた時には、マナは松永に抱きついていた。
「マナ……」
「私……ずっと自信がなかったんです……でも……」
声が震える。
「……本当に、パティシエを続けていてよかったって、思えました」
(私……松永さんが、好きです……)
込み上げる感情が、喉元までせり上がる。
今なら言えてしまいそうだった。
――でも。
(三日後。大会が終わったら……その時に)
マナは、そっと松永から離れる。
「……すみません。嬉しくて、つい……ハグしてしまって……」
「……いや……大丈夫だ」
少し間を置いて、松永は言った。
「マナ、今日はもう遅い。早く休め。
明日の仕込みも……今の状態なら、間に合っている」
「松永さん……」
「俺は、当日会場について行くくらいしか出来ないからな」
そう言ってマナの頭に、ぽん、と手を置く。
「少しでも休める時に、休んでおけ」
「……はい」
二人は並んで厨房を後にした。
照明の落ちた、静かな厨房。
誰もいなくなったその空間で――
作業台の隅に置かれた、松永のパレット。
その柄の部分に、
ぱきりと、小さな音を立てて、ヒビが入った。
続く




