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笑顔の味、心のレシピ 〜不器用なバツイチシェフは恋心に気づかないフリをする〜  作者: タルトタタン
東京本大会パティシエコンクール編

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106/106

106 心臓の鼓動

 マナの呼吸が、乱れていた。

視界の端で、隣の作業台が目に入る。


 安藤のケーキは、すでに完成していた。

 飴細工も、寸分の狂いなく組み上がっている。

 完璧だった。

 その光景が、胸を締めつける。



「……あと15分」


 誰かの声が、遠くで響く。


 ——15分。

 頭の中で、その数字だけがぐるぐると回る。

(どうしよう……)

(どうしよう……)

 心臓が、大きく跳ねる。


 ——ドクン、ドクン、ドクン。

 音が、やけにうるさい。


 視界が、少しずつ狭くなっていく。

 周りの音が遠のいて、代わりに自分の鼓動だけが強くなる。


 呼吸が浅い。

 うまく、息が吸えない。


 手のひらには、じっとりと汗が滲んでいた。

(松永さん……)

 無意識に、その名前が浮かぶ。


(私……だめかもしれない)

 喉の奥が、ひりつく。

(今まで……松永さんに甘えすぎていたんだ)

(やっぱり……私は……)


 一瞬、言葉が途切れる。


(才能なんて、ない……)

 その考えが、すとん、と胸の奥に落ちた。


 ——そのとき。

 ふと、視界の端に入る。


 作業台の上に置かれた、ひとつのパレット。

 松永のもの。



 使い込まれたそれは、どこか静かに、そこにあった。



 視線が、引き寄せられる。

『一緒に、厨房の道具の手入れするか?』

 ——あの日の声。


 松永の厨房に始めて入ったあの日。

緊張していた自分に、向けられた言葉。

 はっと、息が止まる。


(あっ……)

 胸の奥で、何かが溢れ出す。


『いちばん大事なことだから。最初に、ちゃんと教える』

 優しく、けれど真っ直ぐな声。


 まるで、すぐ後ろにいるかのように、鮮明に蘇る。

 その意味を、今になって思い出す。


(……そうだ)

(道具……)

 マナはゆっくりと手を伸ばした。


 震える指で、そっと松永のパレットに触れる。

 少し冷たい感触。


 けれど——

 その奥に、確かな重みがあった。

 ぎゅっと、握る。


 力を込める。


 指先の震えが、ほんのわずかに収まっていく。

 


 (道具は……ずっと、私を支えてくれていた)

 もう一度、パレットを見つめる。

 木製の柄には、深い傷と亀裂。

 長年使い込まれた跡が、はっきりと残っている。

 はたから見れば、もう役目を終えた道具かもしれない。


 それでも——

 マナは、もう一度、強く握りしめた。


(松永さんがずっと大事にしてきた)

(ずっと、支えてきた道具だから)


 胸の奥に、静かに火が灯る。

(松永さんのパレット……持ってきて、良かった)


 呼吸を、ひとつ。

 ゆっくりと吸って——吐く。

(ありがとう……)


 さっきまでとは違う空気が、胸の奥に満ちていく。

 視界が、ゆっくりと戻ってくる。

 音も、光も、現実も。


 そして——

 マナは、ゆっくりと目を開けた。


 その瞳には、確かな光が宿っていた。

 顔を上げる。


 もう、迷いはなかった。




続く


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