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九十五話 現実


「アルベルト様! いけません!」


 使用人達は血相を変えて、馬を引いて屋敷を後にしようとするアルベルトを必死に止めていた。


「アルベルト様! お待ちください!」

「そのような事をなさってはカーライル家は——」


「今日をもって縁を切る。俺は死んだと思え」


「困りますアルベルト様!」


 追い縋る使用人達を振り切って庭を突き進むアルベルトだったが、目の前にバッと両手を広げて行く手を遮る者があったので足を止めた。


「……何をしている。退けカミル」


 アルベルトは怒りに満ちた釣り上がった目で射殺すようにカミルを睨んで威嚇する。


「退かない。行くのはいけない」


 しかしカミルは怯まず、アルベルトの前に立ち塞がったままだ。


『アルベルト落ち着け、わかってるはずだ。帝国に行ったってどうしようもない。国同士の契約ってやつなんだろ? お前一人が行った所でフェリシアは戻って来ない。それどころか、そんなことしたらお前の身だって——』


『ここにいたって戻っては来ない。この身がどうなろうとフェリシアを取り戻す為に俺は行く。退け』


 フェリシアが自宅に戻ってから数日、何の連絡もなく不審に思っていた所へ届いた突然の知らせ。


 帝国の皇子とフェリシアが婚姻するという、何かの間違いだとしか思えない内容に我が目を疑った。


 だが何度確認してもそれは紛れもない事実であり、そして驚くべき事にフェリシアは既に婚約を承諾し、婚姻準備の為に帝国へと発ったという。


 直前まで婚約式とその先の結婚を共に待ち遠しく思っていた恋人の、突如下した決断が本人の意志とは信じられない。

 何かおかしな陰謀めいたものに巻き込まれたとしか考えられない性急過ぎる話に、アルベルトの理性は焼き切れた。


 この身も、継ぐべき物もどうなっても構わない。ただ一つフェリシアさえこの手に戻れば、後はもう何も要らない。


『だめだ退かない!』


 しかしカミルの意志も固い。

 尚も退かないカミルを前に、激情を漲らせた赤い瞳を光らせて、アルベルトは静かに剣を抜いた。


『——ならば斬る』 


 向けられた切っ先には一分の迷いも情けもなく、言葉通り斬り捨てられるものと感じ取ってカミルの歯が鳴り出した。

 噴き出た汗は異様に冷たく身体は強張って意志とは別に震え出すが、それでもカミルは退かなかった。


 仕える主人はアルベルトが帝国へ単身乗り込む事を良しとするはずがないからだ。

 望まれない事をさせるわけにはいかない。


 例えこの身を挺しても止める。

 その思いでぎゅっと目を閉じ、剣先が風を切る音を聞いた所で、屋敷の方からアルベルトの母である奥方の叫ぶ声が聞こえた。


「アルベルト! 旦那様が階段から——」

 



「大した事はない、ただの打ち身だ」


「ですが脚の事もありますし、きちんと医者に見せた方が——」

「問題ない」


 階段から落ちたと知らされ逡巡した後に屋敷に取って返したアルベルトは、父をベッドに寝かせながらそう聞いた。

 縁を切るなどと強く出たが、父を放っては行けなかった自分に苦い思いをする。


「……ご無理なさらないでください」


「そう思うならお前も無茶をしないでほしい。カミルに剣を向けているのを見て慌てた」


 階段を踏み外したのはそれが原因だと言われて、アルベルトはばつが悪くなり下を向いた。

 父はそんなアルベルトへ諭すように語りかける。


「……アルベルト。お前がフェリシア嬢を大切に思っているのはよくわかっている。どれだけ婚約式を楽しみにして、結婚するその日を待ち望んでいたのかも。我々とて、お前たちの結婚を心から祝福していた。だがな……頭を冷やして冷静に考えろ。今帝国に乗り込む事が最善なのかどうか」


 言われずとも最善でないことくらい初めからわかっている。しかしこれしかないのだ。

 

 王命も国家間の契約も、施政に関わる要職者でもない辺境の騎士がどうこう出来るものではない。

 フェリシアを帝国から取り戻すには、何もかもをかなぐり捨てて二人で逃げる以外に他はない。


「行ってどうする。フェリシア嬢を攫って二人で逃げるのか」


 心を見透かしたように、父は俯いたままの息子にさらに問うた。


「お前は身体も丈夫でレイフォード公によく鍛えてもらった。身一つあればきっと何処ででもやって行ける。だが、フェリシア嬢はどうだ? 落ち着ける場が見つかるまで長旅になるかもしれない。その後の生活にも耐えられると思うか?」


 父の静かな問いかけに、アルベルトは膝の上で握りしめた拳に力を込めた。


 言われずともわかっている。わかっているのだ。


「一方的に婚約を破棄したとなれば外交問題となり国賊と等しき扱いになるかもしれない。その身に危険が及ぶこともあるやもしれん。お前は良い。きっと負けることはないしフェリシア嬢だって守りきれるだろう。だが逃げ続ける生活を彼女に送らせてお前は満足か?」


 あまりに強く握りしめた拳が震えだす。

 そんな生活を望むわけがない。

 望んだのはもうすれ違うことなく平穏に、二人で歩いて行くそれだけだ。

 もう離れたりしない。ただそれだけだったのに。


「上手く逃げて身を落ち着かせたとしても、彼女は私欲を優先して他を顧みることをしない人ではないだろう? 自分の行いで祖国が、故郷が窮地に追いやられることに一片も憂えることが——」



「わかってます!」



 父の問いかけに堪らずアルベルトは大きな声をあげた。


「……わかっています。自分の考えが現実的でないことくらい。上手く行くとは一つも思っていません。ただ……何一つ、言葉も交わさないまま……突然……現実だと思いたくない——」


 これが今この身に起こっていることなのだと信じたくない。


 だが本当はわかっている。

 これが現実で、フェリシアがどうしてこの話しを承諾し何も言わずに去ったのか。


 どんな陰謀が仮にあったのだとしても、これは王命であり国政に関わる国家間の重要な約定であることに変わりはない。断れようはずもない。


 何も言わずに去ったのも、発つ前にもしも知らせがあったなら、アルベルトは迷わずフェリシアの下へ行ったからだ。


 大義を捨てて罪を犯しフェリシアを連れて国を出る。

 大罪を犯しても国賊と呼ばれても、絶対にフェリシアを誰の下にも行かせはしなかった。


 だから彼女は手紙の一つ、たった一言の別れもよこさず発ったのだ。

 報せてしまえばアルベルトがどう行動するかきっとわかっていたから。

 そしてそれが、どれほど罪深い行いであるかも。


 全部わかっている。

 フェリシアがどう考えたが故の結果であるのか。

 国を生家を、アルベルトを守る為に受け入れた今なのだと。


「……わかっています」


 アルベルトは目元を手で覆った。

 引き結んだ唇はそれ以上の言葉を紡げない。


 やっと、やっとこの手にフェリシアをいだけて、もう離すことなくずっと守っていくと思っていたのに。

 

 掴んだはずのこの手には、いま何もない。



 失意に沈む息子に、父は静かに声をかけた。


「……辛いな、アルベルト。だが……現実を、受け入れなさい」

 


 *

 


「んっふっふふーん」


 ひと時の馬車旅を終え港街に降り立った女は、甚く上機嫌で長く艶やかな黒髪とひらひらしたロングスカートを海風にたなびかせた。

 

 海辺は潮でベタベタするのであまり好きでは無かったが、今日ばかりは潮騒も喝采に聞こえるしベタつく風も爽やかに感じる。


 夏も間近に迫り、強まっている陽射しを反射してキラキラとしている水面は、普段よりもその輝きが目に眩しい。

 絶え間なく煌めき続けるそれはまるで、感喜の瞬間を収めようとシャッターを切り続けるカメラのフラッシュだ。


 今この瞬間、五感で捉える何もかもが自身を祝福してくれていると思えて笑みが溢れる。



 なんて晴れやかな気持ちだろう、努力の結実を摘み取る日を迎えた朝というのは。



 賛美に満ちる空気を胸いっぱいに吸い込んで、女は出向間近の汽船を見やって言った。


「さ、参りましょ。アルベルト様をお慰めして差し上げに」


 新たな門出を祝うかの如く汽笛が一つ鳴らされた。


 黒髪の女は、ほくろが色っぽい位置にある口の端を満足げに持ち上げると、従者を連れて汽船へ向かって軽やかに歩いて行った。


お読みいただきありがとうございます!

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