九十四話 ここにいる理由
お茶の時間も近くなりやっと妃教育から解放されたフェリシアは、ふぅと一つ息を吐いた。
昨日こなさなかった分も今日に詰め込まれた為、次から次へと流しこまれる情報に溺れかけている。
だがやはり忙しいくらいが丁度良かったかもしれない。
めまぐるしさから解放されると、すぐに脳内を押し込めていたものが巡り出す。
祖国のこと、置いてきたつもりの気持ち、そしてサフィールのあの言葉。
大事にしているとわかる温室を任せていた側近。それは多分信頼できる者だったはずだ。
それを、比喩の類いでなく言葉どおり殺したというのなら、何故そうする必要があったのだろうか。
考えたところでわからないが、朝からずっと思考に隙間が生まれる度に何故だろうと浮かんでしまう。
フェリシアは再度溜め息を吐いて、お茶が用意されるのを待つあいだ温室に向かってみた。
昼間でも翳ってしまうのかどこも採光に乏しい邸内において、温室だけは比較的明るい。
室内を進み、昨晩入らせてもらった仕切り扉の前まで来る。
ガラスの向こうには、昨日は暗くて見えなかったカラフルな実をつけた植物が何種類も栽培されているのが見えた。
手をかけていないと言っていたが、枯れた葉も無ければ萎びた実も無い。
きちんと手入れされている印象だ。
話し口から感じたとおり、大切にしているのだとわかる。
だからこそ、世話を任せるほど信頼していた者を殺したというのなら、一体何があったのかと思わずにはいられない。
詮索する真似はいけないのだろうが、突然祖国を離れることとなり一人この地に来た身のフェリシアは、サフィールの境遇にどこか気持ちを重ねてしまっている。
無論、彼の方が何十倍、何百倍と辛い経験をしてきたのだろうが。
それでもきっとどこかしら似た気持ちを抱える者同士、理解しあえるのではと思ってしまうのだ。
初対面で臆面もなくフェリシアを道具だと言い放ったサフィールは、冷酷で傲慢そうな怖い人という印象だったがここ数日話しをしてみて少し印象が変わった。
最初こそ酷いことをされかけたものの、その後は不機嫌そうではあるが笑顔も見せるし、どこか気遣う素振りも見せてくれる。
ここへだって食事をしなかったと聞いて連れてきてくれたのだし、あの時、灯りを置いたまま去ったのだってきっとわざとだ。
今朝だって食事に気を配ってくれた。
それらは全て彼がよく口にする帝位に就く為の一環で、特段意味を持たない振る舞いなのかもしれない。
けれどフェリシアには一連の行動から、サフィールが本当は優しい人なのではと思えてならない。
冷遇されてきた生い立ちを聞いた為にそう思っている可能性は否めないが、それでも向けてくれる気遣いは確かに感じる。
だから本当は優しい人ならば、殺したと言うのも何かの表現で、帝位に固執し戦争を望むのも本心ではないのではと思えてしまう。
例えお飾りでも、サフィールとはこれから先を共にする間柄になる。
少しでも心の内を理解し歩み寄って行ける関係になれたなら、今の強硬な考えを和平へと傾けてもらえるよう働きかけられるかもしれない。
そうなれば、失くしかけたここにいる理由をフェリシアも見つけられる気がする。
現実を受け入れて自分を納得させる為の、理由を。
「……なんて、理想と夢を見過ぎなのかしら」
「そんなに気に入ったのか」
菜園を見つめて物思いに耽り呟いたフェリシアの背後から、突然ハスキーな声がした。
不意をつかれたフェリシアが非常に驚き短く悲鳴をあげて振り向くと、声の主サフィールが温室の中央に立っていた。
「——っ、お、お帰りなさいませ……すみません、勝手に……」
「別に咎めていない。好きにしていいと言った」
サフィールはフェリシアの側まで来ると菜園の扉を開けた。
「ここで糊口を凌ぐことももうない。付いた実は落ちるのを待つだけだ。好きにして問題ない」
「あ……ありがとうございます……」
入る気はなかったが促されてしまったので、サフィールの急な登場に驚きつつもフェリシアは菜園内に足を踏み入れた。
改めて見ると本当に種類が豊富だ。
鉢植えの小ぶりな物から花壇の低木、小さな畑。狭い空間を無駄なく使って栽培されている。
「すごいですね、こんなにたくさん。故郷の温室でも食用の栽培は多少していましたが、こんなに種類はなかったです」
「……途中から集めるのに精を出し始めたからな」
「……今朝仰っていた方達と……ですか?」
さりげなさを装い恐るおそる訊いたフェリシアにサフィールは答えなかった。
理解しあえるとの淡い期待につい立ち入り過ぎてしまったと、フェリシアはパッと話題を変えた。
「あ! この実です! 特に美味しいと思ったのは」
花壇の低木に成っていたつぶつぶした黒い実の前まで行き、フェリシアはわざと明るく言った。
「甘みの後からほんのり酸味が広がってくる、あの優しい甘酸っぱさがとっても美味しかったです」
「女はそういった甘ったるいぼんやりした味が好きだな。酸味が足りずメリハリのない味に飽きないのか」
「殿下はお好みではないのですか?」
サフィールもフェリシアの隣までやって来ると低木から実を一つ摘んだ。
「甘い物は好んでは食べない。この実に関しては食べ飽きた。これが最初に始めた一鉢だったからな」
「そうでしたか、それなら……思い出が、きっとたくさん詰まっていますね」
フェリシアがあの赤い実に思い出を詰め込んでいるように。
「摘んでもいいですか?」
「好きにしろ」
フェリシアも低木の黒い実に手を伸ばす。
「故郷の庭にも似た実を付ける木を植えていて、幼少期はよくジャムにする為に摘んでいたんです。実を摘むのが大好きで。この春も久しぶりに摘んでみて……」
「公爵家の子女が手ずから収穫するのか。案外と田舎暮らしだったようだな」
「そうかもしれません。王都からは離れた北部の辺境寄りの地でしたので、市街地以外は長閑でしたし。ジャム作りを手伝わせて——」
そこまで言ってフェリシアは驚いて黙った。
実を摘もうと茎を抓んだ手を、サフィールに急に掴まれたからだ。
ひやっと感じるほど体温の低い手が、フェリシアの手の指先までをもすっぽりと包む。
「枝に細かな棘がある、あまり手を突っ込むな。実はヘタの上を抓んだら、引っ張るんじゃなく捻って取るんだ」
サフィールは説明しながらフェリシアの手を掴んだまま手首を返し、プチンと実を摘み取らせた。
「無理に引っ張ると実が潰れるし、上手く取れずに木が傷つくことがある。潰れた実の色素は一度つくと中々落ちないぞ」
「……な、るほど……すみません」
急に手を握られて何事かと思いドキッとしていたフェリシアは、動揺を隠すようにそう言うと摘んだばかりの実へ目を落とした。
びっくりして力が入り過ぎたのか実は無惨にも潰れてしまい紫の果汁が指を汚していた。
「遅かったか」
サフィールもフェリシアの手の中を覗く。
「……先に注意事項を聞いておくべきでした。殿下は流石ですね、汚れてません。器用でいらっしゃいます」
「器用も不器用もない。ただの慣れだ」
「……慣れていても、指先がどうしようもないくらい汚れてしまう不器用な方も中にはいますもの。殿下は器用です」
フェリシアは紫色の斑模様になった指を見る。
同じように指先を赤く染めた日々が脳裏に一瞬浮かんだ。
「汚れは何度か洗えば落ちる。繰り返し摘めばそのうち慣れもする」
もう帰ってこない日々に一瞬だけ思い馳せてしまったフェリシアを落ち込んでいると思ったのか、サフィールが慰めに聞こえる言葉をかけた。
それに、ほらやっぱりと、フェリシアは顔を綻ばせる。
「……どうした」
「いいえ、なんでも。お気遣いありがとうございます。上手く摘めるように練習します……してもいいですか?」
「……好きにしろ。そういえば、侍女が探していたぞ、ほどほどにして戻ってやれ。俺は先に戻る」
「はい」
フェリシアは微笑んで、去っていくサフィールの背中を見送った。
思っていたとおり、サフィールの本質はきっと優しい。
命令口調で突き放す物言いをするが、決して額面通りの非情な人ではない。
きっと歩み寄れる、そう思えた。
例えお飾りであっても、フェリシアは妻になりサフィールは夫となる。
本当は優しいあの人となら、共に歩む者として理解し合える関係はきっと築けるだろう。
気まぐれに見える彼の本心を理解したい。
それが叶えば、祖国と和平の為に出来ることが見つかるかもしれないし、どこか似た思いを抱える者同士、お互いの寂しさを埋め合える気もする。
いつかきっとあの人を、ここにいる新しい理由にできる日が来る。
夢見た日々を遠い思い出にして、ここで生きていく新しい理由に。
いつか、いつかきっと——
フェリシアはサフィールに掴まれた手へと視線を落とした。
抱いた希望とは裏腹に、潰れた実を乗せたままの手をじっと見つめる瞳には哀情が滲む。
いつか遠い思い出になっていく、今はまだ鮮明に思い出せる記憶を押し込めるように、フェリシアは見慣れない紫色に染まった指先を手の中に折り込むと、ぎゅっと強く握りしめた。
お読みいただきありがとうございます。




