九十三話 掴めない
朝食のパンを千切ったきり口には運ばず、フェリシアはスープカップの上を揺蕩う湯気にぼんやりと焦点を合わせている。
昨晩のサフィールの話しが気になって、今日も睡眠は不足気味だ。
王宮から隠されるようにして建つこの邸宅で、ずっと不思議だった一人離れて暮らす理由を知って、サフィールのこれまでの境遇や心情を慮るとフェリシアも苦しくなってくる。
いつ頃ここに迎えられたのかはわからないが、あれだけ菜園が充実していたのだから決して短くはない期間冷遇され続けたのだとわかる。
昨日護衛に扮した男に連れて行かれかけたが、あれもサフィールを陥れる目的であったのだろう。
仮にも他国の代表として、国家間の契約を履行する為に来ている婚約者をも狙うのだから、サフィールはこれまでどれだけの悪意を向けられて来たのだろうか。
就寝時にすら帯剣しているくらいだから、命すら危ういこともあったのかもしれない。想像すると息が詰まって胸が痛んだ。
朝食が喉を通らず、フェリシアは冷めゆくスープをじっと見つめて思案し続ける。
そうして湯気も立たなくなった頃、給仕係の声が聞こえてやっと意識が引き戻された。
「おはようございます」
自分に向けられた言葉ではなかったため給仕を見ると、食堂の入り口へ向かって礼をしている。
フェリシアもそちらへ倣って目を移すと入り口にはサフィールが立っていた。昨日と違い、今日は着替えている。
「ご朝食はいかが致しますか」
サフィールは答えず、不機嫌そうな顔で気怠く手を払って不要と伝えると席に着いた。
「ではお茶をご用意いたします」
そう言って給仕が下がってしまった為、こぢんまりとした食堂で早くも二人になってしまったから気まずい。
「……おはようございます」
一応挨拶をしてみるが返事はない。
サフィールは椅子に深く寄りかかり、額を押さえている。やはり朝に弱いようだ。
ならば構うのも悪いし、昨日の話しからどう接すれば良いか困っていたので丁度良いかと黙ると、しんとした沈黙が降りてより気まずくなった。
さらに、たまに聞こえる苛つきを含んだ溜め息が空気を緊張させ重くしていく。
いよいよ耐え難くなって席を立とうかと思った所でサフィールが口を開いた。
「食わんのか」
「あ……」
「口に合わないのなら作り直させればいい」
「いえ、そんなことは……今朝はあまりお腹が空いていなくて、その……」
「昨晩も同じことを言っていたと思ったが。だがあの時は確か——」
「——! 忘れてください!」
フェリシアが慌てた声を出すと、サフィールがククッと声を漏らして笑った。
昨晩の腹の虫の鳴き声を思い出されてフェリシアは恥ずかしさで顔を赤くする。
「今日は本当に空いてないんです……」
「……なんだ、具合でも悪いのか」
「そういうわけではありませんが……」
サフィールの境遇を思うと喉を通らないとは言えず、フェリシアは目を伏せた。
視線を落とした皿の上には千切ったパンがずっと同じ姿勢で座ったままだ。
「……昨日頂いた実を食べ過ぎてしまったので、お腹がいっぱいで」
「あの程度の量で足りるとは胃袋まで小鳥のようだな」
「両手にいっぱい頂きましたので。どれも美味しかったです。特につぶつぶした木の実の、ほんのり甘酸っぱいところが——」
思い出の詰まったあの実の味に似ていて。
鮮烈な赤色を思い出しかけてフェリシアはその言葉を飲み込んだ。
「……お気遣いありがとうございました。美味しかったです」
「今期は手入れ不足でどれも熟しきっていないかと思っていたが、そうか食えたか」
どこか満足気に聞こえる口調でサフィールはそう言った。
止むを得ずは事実なのだろうし、否定もしていたが、土いじりが本当は好きなのだろうと思える話し方だった。
「作物をお育てになるのがお上手でらっしゃいますね。あんなにたくさんの種類を同時に育てられるんですもの、素晴らしい技術です」
「技術などと特別なことはない。ここに連れられて来て間もなく……七、八才だったか。手間のかからない苗木一鉢から始めて——」
つい軽い気持ちで話題にしてしまったが、そんな時分から気の休まらない日々に晒されていたと知ってフェリシアの胸がまた痛みだす。
菜園を作った理由を知っていたのに余計な話しをしてしまったかと反省したが、サフィールは存外と饒舌で機嫌は良さそうだった。
「そこから放っておいても育つものばかり集めて、いつの間にかああなった。それらがまだ枯れていない、それだけだ」
こちらが思うよりもあの温室を大事にしているのが言葉の端に感じられる。
不機嫌そうだった表情も幾分か和らいでいるので、フェリシアも締めつけられていた胸がほんの少し緩んだ。
「種類や育て方にまでお詳しいようですね。私の国では口にしたことのない果実もあったので驚きました。あちらは殿下がお一人で世話をなさっているのですか?」
「俺は別に詳しくない。名前を忘れたものも幾つもある。元は農民の出で栽培に詳しい奴がいたんだ。多様な植物を調達できる者も。それが主に世話をして——」
「そうなんですね!」
フェリシアは急に胸のつかえが取れた気がして明るい声を出した。
一人寂しく味方もいない状況なのだと思っていた為、大事にしている場所を任せられるほど信頼する者がいるのだと知って安堵に似た気持ちになる。
サフィールの気持ちを想像し自身の心細さも重ねていたフェリシアは、味方の存在を知って自分のことのように何だか嬉しくもなってくる。
「その方達は従者の方ですか? あ、昨日騎士の方をお二人お連れでしたよね? その方達でしょうか。でも温室に頻繁に出入りされるとなると、こちらのお屋敷内の方ですか? それとも……」
「一人は役目を終えて去った」
それまでとは違い、サフィールが話しを断ち切るように無機質に言った為、フェリシアは続く言葉を継げなくなった。
彼は過去形で「いた」と言ったのだから今はいないことが明白だったと今頃気づき、妙に浮かれてまた余計なことを訊いてしまったと落ち込む。
サフィールの幾分か和らいでいた表情が、また普段通りの不機嫌そうな顔に戻っている。
今はいないかつて信頼していたであろう人を思い出させて、傷を抉るような真似をしたかもしれないと、自分の軽率さを反省してフェリシアは目を伏せる。
「もう一人は」
そこへ、先程よりも硬く冷たいサフィールの声が降って、予想もしなかったことを言った。
「殺してやった」
低くザラつく声がそう言い放った瞬間、フェリシアは時間が止まったかのような感覚に陥った。
「……え——」
驚いて咄嗟に見つめた深緑に浮かぶ金環は、瞬きもせずにまっすぐ碧色を見返してきて心を身体をその場に縫い留めて動けなくさせる。
何と言ったのか。
どういった意味で言ったのか。
あまりに強い言葉に、頭が理解を拒絶して聞き返せずに見つめるしかなくなっている。
ともすれば心臓も止まってしまいそうな空気の只中で、フェリシアは呼吸も忘れてサフィールの瞳を見続けた。
目が合っただけで圧倒される金の瞳が向ける強い眼差し。
その瞳の中に、ほんの少し悲哀が滲む気がした時、カチャカチャと茶器の揺れる音がして給仕がお茶の支度をして戻ってきた。
それをサフィールが横目で確認し視線がフェリシアから逸れたので、やっと呼吸が戻って身体の硬直が解けた。
ただ脳だけが追いつかない。
サフィールは何と言った。
あの温室を任せるほど信頼していた者の話しをしていたと思ったのに。
それが何故、今の言葉に繋がったのだろう。
混乱から心音が大きく鳴り出す。
「もういい。時間だ。出る」
お茶を注ぎ始めた給仕を遮って、サフィールはそう言うと立ち上がった。
真意も理由も語ることなく行こうとするサフィールを、フェリシアは思わず呼び止めてしまった。
「あ——あの!」
が、混乱が続いている頭では何を質すべきか判断できない。
「殿下……ど、どちらに?」
「帝位継承会議がこの夏にも行われる。それに備えた会議へだ。俺は必ず次の皇帝になる。その為にお前と婚約したんだ。来る日に妃らしく振る舞えるよう尽力しておけ」
そう答えると、サフィールはフェリシアを指差し茶器を片付けようとしていた給仕に指示した。
「冷めた物は温め直してやれ。食べにくいようだ、次からは好みも聞いておけ」
それだけ言ってサフィールはふいっと食堂を出て行った。
残されたフェリシアは、下げられていく冷えたスープ皿を眺めながら、一瞬近づけた気がしていた婚約者のより一層の掴めなさに再び困惑する。
千切って置いたままのパンは、やはり喉を通りそうもない。
お読みいただきありがとうございます。




