21.地獄と書いて……? ぱーと1
「ただいまー」
「おかえり、マスター」
レインが家に帰ると、アンナは作業の手を止めて駆け寄ってきた。
わざわざ律儀なことである。
「頼んだもの、買えた?」
「そりゃ、勿論。お前じゃないんだから」
「私でも買い物はできるんだけど……?」
アンナはレインの軽口に苦笑し、レインから籠を受け取る。
中身を確認し、問題ない、と頷く。
キッチンまで籠を持っていき、邪魔にならないように隅に置いた。
そして、流しの前に立って作業を再開する。
「……なぁ、アンナ」
「なに?」
「お前、まだ皿洗ってんの?」
「……」
「おい」
帰ってきた時からおかしいと思っていたのだ。
材料もないのに、アンナがキッチンですることなど無いはずなのに、アンナは流しの前で何事か忙しなく手を動かしていた。
レインの角度からは何をしているのか見ることは叶わず、疑問に思っていたのだが。
レインの言葉にアンナはぴたと動きを止めた。
図星のようで、レインの追求から逃れようと目を泳がせる。
(アンナの尋常じゃないほど遅い皿洗いのペースなら、帰ってきたら丁度いいぐらいだと思ってたのに……少し侮ったか)
「あと、あと一つだからっ。もう直ぐ終わるから」
「もう直ぐってどれくらい?言い訳と同時に皿を取り替えたの見たし、しかもそれ、うちの食卓のエース、寸胴鍋様なんですけど?お前の場合、3時間はかかるよなぁ?」
「……黙秘権を行使する」
「却下。正直に答えろ」
「………終わりますん」
往生際悪く、何処で身につけたのか、変な会話スキルで応戦してくる。
しかし、この態度でわかった。
というか、初めから分かってはいたのだが。
「はぁ、どうせ終わらないだろ?手伝うよ」
「……ありがとう。でもその気があるなら初めっからそう言ってくれると嬉しいな」
「変な会話スキルを使わなくて済むから?」
マスター?と腰に手を当てて、怒ってる風のアンナを適当にあしらい、レインは寸胴鍋の中を水に浸す。
アンナは放置だ。
居てもあまり意味はない。
ちらりと、洗い終わった皿を見る。
「……今回は洗えてるのか」
前は、一枚20分近く掛けたくせに、全く汚れが落ちていなかったのだが……。
少しは上達したようで何よりだ。
水を止め、浮いた脂を排水口に流す。
ちなみに、魔道具の蛇口を捻ると普通に浄水が出てくる。
お風呂やトイレも魔道具で出来ており、実は中世異世界に似合わない現代的な暮らしが出来るというのがこの世界の実態だ。
しかし流石に限度があり、食洗機だとかは無いので、皿は全部手洗いとなる。
まあ、食洗機があったところでこの寸胴鍋は洗えないだろう。
石鹸をヘチマたわしに擦り付け、泡だらけにする。
それで大雑把に鍋全体を洗い、一度水で流す。
もう一度たわしに石鹸の泡を付け、仕上げに丁寧に汚れを落として終わりだ。
「はい、マスター。布巾」
「どうも。……もう、皿洗いは諦めたのか………。いや、いいんだけど」
「だって、苦手だし……」
アンナは不貞腐れたように頬を膨らませる。
可愛らしいが、せめて水を拭くことぐらいは出来て欲しいと思うレインだった。
ーー翌日ーー
「………眠い」
レインは朝日に照らされ、むくりと上体を起こした。
そう。
遂に久し振りのベッドでの睡眠を成し遂げたのだ。
しかし、レインの表情は冴えない。
起きて第一声が先の一言。
目の下にはくっきりと隈が出来ており、寝不足であることが伺える。
「ふぁあ」
隣にレインと同じように上体を起こして座り、大きく欠伸をする少女をレインは恨めしそうに睨む。
「ん、マスターおはよう」
「……あぁ、おはよう」
「よく寝れた?」
「寝れたと思うのか?」
◆◆◆◆◆
昨日の寸胴鍋の一件の後。
風呂に入り、あとは寝るだけとなったので、レインはいつも通りコートに包まって寝ようとした、その時に事件は起きた。
先に布団に入っていたアンナが、「まって」と声をかけ、コートの端を掴んでひっぺがしたのだ。
一体何のつもりだ、とレインがアンナに困惑の目を向けるが、アンナはそれに取り合わずベッドから降り、レインの前に座った。
本当に何なんだとレインが怪訝そうな顔をすると、アンナはレインのコートを奪い取り、
「マスターが床で寝るなんてだめ。マスターはマスターなんだから、ベッドを使うべきだよ」
「今更だし、何言ってんのか分かんねぇ」
マスターがマスターで、何だっていうのか。
早く寝たいところに頭がこんがらがる様なことを言われ、レインは非常に困る。
「だから、私は弟子で、マスターは師匠なんだから、マスターはベッドを使って」
「あ、そゆこと。……だが、断る!」
「え、何で?」
「俺は上下関係何て気にしない男だし、それに俺がベッドを使うなら、アンナは何処で寝るんだよ。床にアンナを寝かせて俺はベッドとか、やめろよ?」
女の子を真冬の冷たい床に寝かせたりなど、人道的に出来ない。
コートがあるから凍えることは無いとか、そういう話ではなく、レインがやりたく無いのだ。
そんなレインの言葉を聞きながら、アンナはコートをハンガーに掛ける。
(あれ?てっきり、そのコートで寝る、とか言い出すと思ったんだけどー?)
勿論そんなことはさせないが、レインからコートを取り上げたのは、意見を主張しつつ自分が使うという意思表示だと思っていたのだが……どうやら違ったらしい。
アンナはレインに向き直り、こてん。と首を傾げる。
「うん。寒いから、床で寝たりなんてしないよ」
「じゃあ、お前は何処で寝るんだよ」
「……マスターの横?」
アンナは、レインがしつこく指摘する問題点を、簡単に解決できる道を示した。
ベッドが一つしかないなら、二人で一緒に使えばいいじゃない、と。
なるほど、何処ぞのアントワネット様を彷彿とさせる。
まさかの発言にレインは驚き、口をぽかんと開けた。
「……いやいや、それは駄目だろう。そもそも、親父に家を造れって言われたのは、俺とアンナが健全な生活を送る為なんだぞ?俺とアンナが一緒に寝たら本末顛倒だろうが」
「大丈夫。超健全。私はマスターの横であったかくて幸せ。マスターも私の体温分あったかくて幸せ。みんな幸せ」
「不健全にもほどがあるだろ。何でくっついて寝ること前提なんだ」
「……嫌、なの?」
「う……」
アンナの潤んだ瞳を上目遣いに向けられ、レインは思わず呻き声を出す。
こういう態度を取られるとレインは弱いのだ。
ここでアンナと寝ることを断ったら、アンナは悲しむのではないか、と思ってしまうのだ。
結局、レインは程なくして音をあげた。
「分かったよ、分かったって。一緒に寝ればいいんだろ!?」
「うん。一緒に、寝よ?」
ヤケクソ気味に叫ぶレインに嬉しそうに微笑み、布団に戻るとアンナは「おいでおいで」と手招きする。
子供をあやすような態度だが、それをやるならもう少し奥に詰めて欲しい。
出ないとレインはアンナの気遣いも虚しく床で寝ることになる。
はぁ、と諦めたようにレインはため息を吐いて、仕方なく布団をめくり、手で奥に行けと合図する。
「?……あ、マスターが入れないね。ごめんなさい」
「……正直、今のジェスチャーが通じたことに俺は驚きを隠せない」
「『じぇすちゃあ』が何かは知らないけど、今私は不当な評価を受けた気がするよ?」
「じゃあ、言われる前に気付くべきだったな」
レインはそんな軽口とともにベッドに入る。
先程までアンナがここに横たわっていたからか、妙に暖かくて落ち着かない。
レインはアンナが横に無防備に寝ているのを出来るだけ意識しないよう、アンナに背を向ける。
「マスター、おやすみなさい」
「……おやすみ」
そんな背中にかけられた「おやすみ」の一言は、アンナにとっては何気無い一言だったのだろう。
しかし、レインはそれすらも何処か甘い空気を感じてしまう。
挨拶一つでこんな調子なのに、果たして眠れるのだろうか、とレインは煩悩を押し退けようと苦心しながら頭の片隅で考える。
まさか、本当の地獄は此処から始まるとは、この時のレインは思ってもいなかった。




