最強スライム、帰り道を探す
「直せる?」
同じことを、もう一度聞きそうになった。
セレスさんは、壊れた門の前に膝をついていた。
輪の欠片。
焼けた文字。
何も映らなくなった、黒い空間。
その一つ一つを確かめている。
私は返事を待っていた。
三千年も待ったことがあるのに、いまの数秒は、やけに長かった。
「……まだ、分かりません」
セレスさんが言った。
胸のあたりが、冷たくなった。
そんな器官はないはずなのに。
「ただ、調べる前に、不可能だとは言いません。記録を探します」
彼女は私を見た。
「ですから、今は触らないでください。残っている情報まで壊してしまうかもしれません」
伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「分かった」
ちゃんと聞こえただろうか。
声が、自分でも驚くほど小さかった。
◇
後ろで、咳き込む音がした。
相沢くんだった。
ミナが水筒を差し出している。
彼は受け取るまでに、少し迷った。
ミナが何かを言う。
相沢くんは、困った顔で私を見た。
「……何て?」
そこで、やっと気づいた。
彼は、この世界の言葉を知らない。
目を覚ましたら、知らない場所だった。
知らない人たちに囲まれていた。
死んだはずの同級生が、スライムになっていた。
私ばかり、帰りたいと思っていた。
「少しずつ飲んで、って」
日本語で伝える。
彼は頷き、水を飲んだ。
両手で水筒を持っていた。
指が、震えていた。
「相沢くん。ほかに痛いところ、ある?」
「腕。あと、足が変な感じする」
「立たなくていいよ」
「……ここ、どこなんだ」
私は、すぐには答えられなかった。
何から言えばいいのか分からない。
異世界。
魔法。
竜。
三千年。
どれから言っても、ひどい説明になる。
「日本じゃない」
結局、そこから始めた。
「でも、いま一緒にいる人たちは、助けてくれる人。怖いことはしない」
相沢くんは、ミナを見た。
それから、ぎこちなく頭を下げた。
「……ありがとう」
言葉は通じなくても、それは伝わったらしい。
ミナも、小さく頷いた。
◇
エレオノーラが、調査員たちを連れて出口へ向かった。
途中で私を振り返る。
「この方たちは、先に外へ運びます。戻るまで、無茶はしませんように」
「しないよ」
「今のあなたは、少し信用できません」
何も言い返せなかった。
昨日より、友達らしいことを言う。
ミナは相沢くんのそばに残った。
私はセレスさんと、壊れた門を調べた。
「こういうの、何を探せばいい?」
「まず、文字が刻まれた板を。細かな破片も捨てずに集めてください」
「食べない方がいいよね」
「絶対に」
念を押された。
私は床へ、薄く体を広げた。
砂と石を分ける。
金属片を拾う。
文字のある面を傷つけないよう、一枚ずつ並べる。
さっきまでなら、邪魔な残骸だった。
いまは、どれも捨てられなかった。
これを一つなくしたせいで帰れなくなったら、と考えると、動くのが怖かった。
「ひまりさん」
セレスさんが呼んだ。
「いま拾っている小石には、文字はありません」
「……でも」
「大丈夫。分からないものは、私が見ます」
私は小石を置いた。
代わりに、次の板を渡した。
◇
記録は、柱の中に残っていた。
セレスさんが細い蓋を外すと、黒い札のようなものが何枚も出てきた。
彼女は一枚を光に透かした。
「起動履歴です」
「いつから動いてたか、分かる?」
「少し待ってください」
読む。
別の札と比べる。
もう一度、読む。
セレスさんの眉が寄った。
「この施設は、遠くにある別の装置から命令を受けて動きます。ここだけで、呼ぶ相手を決めたわけではありません」
「じゃあ、相沢くんを呼んだ人は、別のところに?」
「その可能性があります。ただ、古い命令が残っていたのか、今回新しく送られたのかは、まだ」
私は、床に座る相沢くんを見た。
彼は自分の手首を見つめていた。
勝手に連れてこられた。
家にも、学校にも、何も言えないまま。
「帰す方の命令は?」
セレスさんは、次の札を持った。
目が止まった。
私は動かなかった。
期待していいのかも、分からなかった。
「あります」
彼女が言った。
「送還、という項目はあります」
私は一瞬、体の形を忘れた。
丸い輪郭が崩れて、すぐに戻る。
「あるの?」
「ただし」
セレスさんが、はっきり続けた。
「ここにあるのは、項目の名前だけです。方法も、成功した記録もありません。これで帰れると約束することはできません」
「……うん」
「それでも、調べる先はできました」
私は、もう一度頷いた。
なかったものが、一つできた。
それだけでも、さっきとは違った。
◇
相沢くんに、見つかったことを伝えた。
彼は私を見ていた。
「帰れるかもしれないのか」
「まだ、かもしれない」
「そっか」
膝の上の手が、少しだけ緩んだ。
しばらくして、彼が言った。
「小日向は、ずっとここにいたの?」
私は迷った。
嘘をつく理由はなかった。
「三千年くらい」
相沢くんは、何も言わなかった。
冗談かどうか、判断しようとしている顔だった。
私だって、同級生がそんなことを言ったら、熱を測る。
「竜に拾われて、山で暮らしてた」
「竜」
「外にいる。大きいけど、悪い竜じゃないよ」
「……情報、ちょっと待って」
「うん」
待った。
彼は顔を両手で覆った。
そのまま、小さく息を吐いた。
「俺、今日、小テストだった」
私は彼を見た。
「英語。単語の」
「うん」
「電車に乗って、鞄からプリント出そうとして……気づいたら、手が変な光に入ってた」
声が途切れる。
「逃げようとしたんだけど。引っ張られて」
私は、近くへ寄った。
触ってもいいのか迷ったので、その場にいた。
相沢くんは、顔を上げた。
「小日向、どうやって平気になったんだ」
私は、少し考えた。
「最初は全然、平気じゃなかったよ」
「……そっか」
「いまも、平気じゃないことはある」
彼は私の、小さな手を見た。
まだ、少し震えていた。
◇
遺跡の外へ出ると、日が傾き始めていた。
アルジェントが入口を支えたまま、首を下げた。
相沢くんが固まった。
「……でか」
『新しい友か』
「同じ学校の人」
『がっこう』
「前に話したでしょ。勉強するところ」
『ああ。寝ると叱られる場所か』
「間違ってはない」
相沢くんが、私と竜を交互に見た。
「何て言ってる」
「学校の説明、ちょっと失敗したみたい」
アルジェントは、私をしばらく見ていた。
私がいつもの調子ではないことに、気づいていたらしい。
でも、みんなの前では何も聞かなかった。
その代わり、地面へ顎を伏せた。
鼻先が、私のすぐ横に来る。
私は少しだけ、そこへ寄りかかった。
◇
調査員たちを休ませている間に、エレオノーラが話を聞き終えていた。
「調査隊は、五人で全員です。未確認の命令符を装置に差し込んだところ、門が作動したそうです」
セレスさんが顔を上げる。
「命令符は、どこから?」
「王都の研究室から届いた荷物に入っていた、と。ただし、本人たちも内容を正しく読めていませんでした」
エレオノーラの手には、泥のついた書状があった。
「紹介状と発送元は確認が必要です。これだけで学院の誰かが命じたとは決められません」
昨日、命令書を確かめず動いた人の言葉だった。
私は頷いた。
「王都に行けば、分かる?」
セレスさんが、回収した札を箱へしまった。
「古代術式の原本も、旧帝国の施設図も、王立学院にあります。少なくとも、ここにいるより多くを調べられます」
「じゃあ、行きたい」
言ってから、みんなの顔を見た。
自分だけで決めていいことではなかった。
「私は、行きたい」
言い直した。
エレオノーラが頷く。
「父への報告も含めて、手配します。今度は、あなたたちの希望を聞いたうえで」
◇
ミナが、少し離れた場所で包帯を片づけていた。
私は隣へ行った。
さっきから、日本語で話してばかりだった。
彼女には、何も分からなかったはずだ。
「ミナ」
「うん」
「ちゃんと説明してなかったね」
私は話した。
前に、人間だったこと。
別の世界で暮らしていたこと。
死んだあと、ここでスライムになったこと。
相沢くんは、その頃の同級生であること。
そして、向こうにはまだ家族がいること。
ミナは最後まで聞いた。
驚いていた。
でも、途中で質問を挟まず、包帯を持つ手を止めて聞いてくれた。
「お母さんに、会いたいんだね」
「うん」
そう答えると、急に申し訳なくなった。
「でも、ミナと暮らすのが嫌になったとか、そういうんじゃなくて——」
「分かるよ」
彼女が言った。
それから、少しだけ視線を落とした。
「ただ、急にいなくならないでね」
私は黙った。
返事が遅くなったのは、迷ったからではない。
約束が、どれほど重いものか分かったからだった。
「うん。勝手にいなくならない」
ミナが、小さく息を吐いた。
「私も、王都まで一緒に行っていい?」
「お仕事は?」
「お店の人に相談する。まだ、行けるって決まったわけじゃないけど」
彼女は包帯を鞄へ戻した。
「ひまり、さっきから、相沢さん以外のけが人まで何度も運ぼうとしてた」
「……もう運んだ人?」
「うん」
そうだったのか。
自分では、ちゃんと動いているつもりだった。
「誰か、横にいた方がいいと思う」
私は、小さな手を伸ばした。
ミナが握った。
「いてほしい」
「うん」
◇
帰る前、アルジェントに事情を話した。
竜は、私の話を黙って聞いていた。
最後まで聞いてから、一つだけ尋ねた。
『帰れるのか』
「分からない」
『そうか』
「でも、探したい」
竜の金色の目が、ゆっくり閉じた。
開いた。
『ならば、探せ』
私は鼻先を見上げた。
「……行っていいの?」
『なぜ、余に許しを求める』
「だって」
うまく続かなかった。
三千年、ここにいた。
この竜と暮らした。
山を下りたときは、また帰ってくるつもりだった。
でも、今度は。
『ひまり』
アルジェントが呼んだ。
『おぬしを守ったのは、ここへ閉じ込めておくためではない』
私は何も言えなかった。
竜は少しだけ首を曲げ、私の頭の花を見た。
『もっとも、便所からは出し忘れたが』
「いま言う?」
『あれは詫びた』
「一回じゃ足りないからね」
やっと、少し笑えた。
アルジェントも、喉の奥を鳴らした。
◇
帰りの座席は、また一つ増えた。
調査員たちはエレオノーラの護衛に迎えを頼み、私たちは相沢くんを乗せて先に町へ戻る。
彼は座席を指で押した。
「これ、全部、小日向?」
「うん」
「どこ座ればいい?」
「座るところ作ってあるでしょ」
「いや、何か、踏んでる気がして」
「慣れて」
ミナが、隣で笑った。
言葉は分からなくても、何に戸惑っているかは伝わるらしい。
山道を下り始めると、相沢くんは胸ポケットを探った。
「あった」
小さな黒い板を取り出す。
スマホだった。
画面がついた。
私は、思わず動きを止めた。
後ろでセレスさんが前の座席にぶつかった。
「どうしました?」
「ごめん」
私はスマホを見ていた。
電池、四十二パーセント。
圏外。
時刻。
見慣れていたはずの数字。
相沢くんは画面を何度か触った。
「さすがに、つながんないか」
その言い方が、妙に普通だった。
電波の悪い駅で、いつもより少し困っているみたいだった。
「写真、ある?」
気づけば聞いていた。
「何の?」
「学校とか」
「あると思う」
彼が画面を動かす。
黒板。
教室。
机の上のプリント。
誰かがふざけて撮った、廊下の写真。
私はゆっくり走りながら、それを見た。
あった。
全部、まだあった。
◇
夕方、町へ戻ったあと。
相沢くんに部屋を用意して、医者にも見てもらった。
その間に、セレスさんは回収したものをもう一度調べた。
私は廊下で待った。
今度は、ミナが隣にいた。
やがて扉が開き、セレスさんが顔を出した。
「一つだけ、先にお伝えします」
彼女は札を一枚、持っていた。
「召喚門には、接続した先を記録する仕組みがありました。相沢さんを呼んだときの記録は、残っています」
「それって」
「もう一度同じ世界を探すための、手がかりになります」
私は、札を見た。
小さな黒い板だった。
それだけで帰れるわけではない。
セレスさんも、そうは言わなかった。
でも、どこを探せばいいのか分からなかった道に、最初の印がついた。
「ありがとう」
今度は、ちゃんと声が出た。
◇
夜、相沢くんの部屋へ行った。
彼はベッドの上で、スマホを見ていた。
「電池、もったいないから切ろうと思って」
「うん」
「でも、何か。切ったら、本当にこっちだけになる気がして」
分かった。
壁に名前を刻んでいた私には、よく分かった。
私は机の上へ乗った。
「ちょっとだけ、使わせてもらっていい?」
「いいけど、打てる?」
小さな手を作って、画面へ触れた。
反応した。
よかった。
三千年ぶりのタッチパネル。
セレスさんには、まだ見せない方がいい気がした。
メモを開いてもらった。
文字を打つ。
一文字ずつ。
変換候補が出る。
懐かしくて、少し笑いそうになった。
『お母さんへ』
そのあとで、手が止まった。
何を書けばいいのだろう。
死んだのは、本当だ。
お葬式もした。
なのに、生きていると言っていいのだろうか。
いまの私を見たら、怖がるだろうか。
相沢くんは何も言わなかった。
急かさずに待ってくれた。
私は続きを打った。
『ひまりです。びっくりさせると思うけど、いま、別の世界にいます。』
少し迷って、足した。
『助けてくれる人がいます。』
ミナ。
セレスさん。
エレオノーラ。
アルジェント。
一人ずつ思い浮かべてから、次の行へ進んだ。
『会いたいです。帰る方法を探しています。』
そこまで打って、相沢くんへ返した。
「送れないけど、消さないでおいてくれる?」
「消さないよ」
彼はメモを保存した。
それから、私を見た。
「帰ろうな、小日向」
私は頷いた。
「うん」
帰りたい。
それは、三千年前から変わらなかった。
でも、いまはもう一つ、叶えたいことがある。
お母さんに会って。
ちゃんと話して。
この世界でできた友達を、紹介したい。
そのための道を、探しに行く。




