第2話
「何なのよこれぇぇぇぇ!」
学院の廊下を全力疾走する。
後ろから、どたどたと激しい足音が聞こえてきた。
振り返ると、血まみれのアルベルトがこちらを追いかけて来ている。
「走れるの!?」
さっきまで緩慢な動きを見せていたので、簡単にまけるものだと思っていた。
ところが実際は、こちらが全力で走っているというのに一向に距離が開かない。
「出会いイベントが違うじゃない!」
本来なら怪我をした猫を治してアルベルトに感謝され、好感度が上がっているはずだった。
それがどうして猫は食べられ、王子から逃げる羽目になっているのか。
「こんなの知らない!」
しばらく走ると、廊下の先で男子生徒が女子生徒に覆いかぶさっているのが見えた。
(男子生徒が女子生徒を介抱している……?)
一瞬そう思ったが、よくよく見ると男子生徒の口元は血で濡れている。
そして、下の女子生徒は――――
「待って待って待って!」
このまま進めば気付かれる。
挟み撃ちなんて冗談ではない。
私は慌てて進路を変え、別の廊下へ飛び込んだ。
どう考えてもおかしい。
このゲームにだって、人間を襲う敵はいる。
狼型の魔物もいれば、スライムやドラゴンだって登場する。
でも、あれは違う。
猫の肉を食べていた。
白濁した目をしている。
そこまで考えて、ようやく一つの単語に行き着いた。
「……ゾンビじゃない!」
どうして乙女ゲームの世界にゾンビなんているのか。
考えても答えが出るはずもない。
逃げながら廊下の先へ目を向けた私は、そこでさらに奇妙なものを見つけた。
(何あれ……?)
壁に見慣れない金属製の装置が取り付けられている。
その上では赤いランプが忙しなく点滅していた。
この世界に電気はない。
照明には魔石を使っている。
少なくとも私が知る限り、こんな機械はゲームのどこにも登場しなかった。
しかも、装置の下には文字が書かれている。
この世界の文字ではない。
けれど私には読めた。
前世で使っていた言葉だからだ。
《EMERGENCY》
(もしかして、ゲームが違う?)
そんな馬鹿げた考えが頭をよぎる。
いくら転生そのものが馬鹿げているとはいえ、ここは間違いなく私が遊んでいた乙女ゲームの世界だ。
それなのに、存在するはずのないゾンビが徘徊し、存在するはずのない機械まで学院に紛れ込んでいる。
まるで別のゲームの要素が混ざり込んでしまったような――。
「伏せろ!」
突然、男の声が響いた。
反射的に身を屈めた直後、頭上を剣が横切る。
背後まで迫っていたアルベルトが薙ぎ払われ、床へ転がった。
「え?」
「立て! 次が来る!」
腕を掴まれ、強引に引き起こされる。
黒髪に鋭い灰色の目。
騎士科の制服を身につけたその姿を見て、私はすぐに名前を呼んだ。
「クラウス!」
「なぜ俺の名を――いや、今はいい!」
騎士クラウス。
王国騎士団長の息子であり、このゲームの攻略対象の一人だ。
寡黙で真面目。
融通が利かないほど実直な性格で、どのルートでも主人公が危険に陥れば真っ先に剣を抜いてくれる。
そして何より――まだ人間だった。
「クラウス!」
あまりの嬉しさに思わず抱きつきかけると、片手で押し返された。
「いきなりなんだ!」
「よかったぁぁぁ!」
「何がだ!」
「クラウスは人間だぁぁ!」
「当たり前だ!」
今の私には、その当たり前が何よりありがたい。
「話はあとだ。こっちへ来い!」
クラウスに手を引かれ、再び走り出す。
背後からは他の感染者たちが迫っていた。
クラウスは振り返りざまに剣を振るい、先頭の一人を転倒させる。
「殺さないの?」
「生徒だぞ!」
「もうゾンビですよ!」
「『ぞんび』とは何だ!」
この世界にはゾンビがいない。
だからそう言っても伝わるはずがなかった。
私たちは追っ手を振り切るように空き教室へ飛び込み、二人がかりで机を動かして扉を塞いだ。
直後、扉が激しく揺れる。
どん! どん!
感染者たちが外から扉を叩いているのだ。
どうにか逃げ切った安心感から、私はその場にへたり込んだ。
「はあ……はあ……」
荒く息をする私にクラウスが近づく。
「怪我は?」
「ない」
「噛まれていないか」
「うん」
「ならいい」
クラウスが安堵したように息を吐く。
その言い方が気になって、私は顔を上げた。
「噛まれたらまずいって、知ってるの?」
「さっき見た。噛まれた生徒が、しばらくして噛んだ相手と同じようになった」
「やっぱり……」
「感染症の類だと思う」
「感染症というか、ゾンビというか……」
「さっきも言っていたが、その『ぞんび』とは何だ」
「私が前にいた世界では、物語なんかによく出てくるの。死体が動き回って、生きている人間を襲って食べる怪物」
「お前が前にいた世界?」
「あ」
しまった。
転生してから今日まで、前世のことなど誰にも話したことがない。
「説明すると長いから、今は聞かなかったことにして」
「……分かった。なら後だ」
さすがクラウス。
こんな状況で余計なことを追及しないあたり、話が早くて助かる。
「とにかく学院を出るぞ」
「どこから?」
「正門はもう駄目だ。西門へ向かう」
「西門?」
「ああ。普段はほとんど使われていない裏門だ」
それなら私もよく知っている。
ゲーム内で登場するのは、クラウスルートの夜の密会イベントだけ。
人目を避けて学院を抜け出すため、主人公とクラウスがこっそり利用する場所だ。
「そこなら外に出られる!」
思わず声を上げた。
「知っているのか?」
「前世で三回通った」
「……何を言っている?」
「気にしないで」
クラウスは怪訝そうな顔をしたものの、今度も追及はしなかった。
外からは今も感染者たちが扉を叩き続けている。
ここでいつまでも籠城しているわけにはいかない。
私たちは教室の反対側にある扉から廊下の様子を確認し、西門を目指して再び移動を始めた。




