第1話
私には前世の記憶がある。
そして、ここが前世で遊んでいた乙女ゲームの世界だということも知っている。
タイトルは「ときめきファンタジー」。
略して「ときファン」。
剣と魔法の国、エルディア王国。
そこにある王立ルミエール学院を舞台にした乙女ゲームだ。
貴族の令嬢たちが通う由緒正しき学園で、主人公は四人の美男子と出会い、友情を育み、困難を乗り越え、最終的にはそのうちの一人と結ばれる。
攻略対象は、第一王子のアルベルトと、騎士のクラウスと、魔術師のエリオットと、神官のセシル。
我ながら、ずいぶん都合のいい転生をしたものだと思う。
しかも転生先は悪役令嬢でもモブでもない。
正真正銘の主人公。
元平民ながら神聖力に目覚め、特別にルミエール学院に入学を許された特待生エステル。
ならばやることは一つだった。
「今日から私の乙女ゲーム人生が始まる……!」
私は学園の寮の自室で拳を握った。
ゲーム開始日は学院入学初日。
そして最初に発生するのが、アルベルトとの出会いイベントだ。
場所は正門近くの花壇。
そこでアルベルトは怪我をした猫を見つけ、保健室へ連れて行こうとしている。
主人公が声をかけ、治癒魔法で猫の傷を治す。
そこで動物好きという共通点が判明し、好感度が上がる。
ベタ。
実にベタ。
だが、それがいい。
私は前世でこのイベントを何度見たことか。
アルベルトは第一王子という立場ゆえに常に完璧を求められ、人前では尊大に振る舞っている。
でも本当は小動物に弱い。
猫に話しかける時だけ口調がやわらかくなる。
そのギャップに全国の乙女たちが何人倒れたことか。
もちろん私もその一人だった。
「よし」
鏡の前で、制服の襟を正す。
今日もエステルはかわいい。
ピンクがかったボブがふわふわと揺れ、大きな目と少し困ったように下がった眉が庇護欲をそそる、正真正銘の美少女。
この姿になってから、鏡を見るのが楽しくて仕方ない。
SNSのアカウントを作って自撮りを載せれば、フォロワーが爆増してインフルエンサー間違いなしだっただろう。
(もう少し見ていたいけど……そろそろ行かないと)
今から花壇へ向かえば、アルベルトが猫を見つけた直後に立ち会えるはず。
私は浮き立つ足取りで寮を出た。
朝の学院は美しかった。
白亜の校舎に青い空。
キラキラとした水を吹き出す噴水。
そして花壇で咲き乱れる色とりどりの花。
画面越しに何度も見た光景が、目の前にある。
(素敵……!)
私は感動した。
前世ではCG一枚だった背景にも、奥行きがあり、風があり、花の匂いがある。
夢みたいだ。
いや、転生している時点で夢よりすごい。
そして、花壇の前に見覚えのある人影を見つけた。
金色の髪に、白を基調とした制服。
肩には王族だけが許された深紅のマントが掛かっている。
第一王子アルベルトだ。
(あの後ろ姿は、間違いない)
彼は花壇の前にしゃがみ込み、足元にいる何かを覗き込んでいた。
イベント通りだ。
思わず頬が緩む。
ここからだ。
ここから、私の乙女ゲーム人生が始まる。
私は浮き立つ気持ちを抑えながら彼の背後まで近づき、できるだけ自然な声を作った。
「どうしましたか?」
エステルは声もかわいい。
自分の喉から発せられたとは思えないほどの美声。
ゲームのエステルの声優さんと同じ声だ。
この声で話しかけられて振り返らない男はいないだろう。
私は鼻高々になりながら王子が振り返るのを待った。
けれど、しばらく待っても王子から反応がない。
おかしい。
ゲームでは、この声にアルベルトが即振り返るはずだった。
「殿下?」
もう一度呼んでみる。
それでも彼は振り向かない。
その代わり、静かな花壇に妙な音が響いた。
くちゃ、くちゃ、くちゃ、くちゃ……。
何か柔らかいものを咀嚼しているような、湿った音だった。
(猫に餌でもあげているのかな? ううん、そんな場面じゃなかったはず)
(何をしているの……?)
不審に思い数歩近づいたところで、音がぴたりと止まった。
私も思わず足を止める。
(もしかして、ようやく気づいてくれた?)
「アルベルト殿下?」
三度目の声掛け。
彼はようやく、ゆっくりとこちらへ振り返った。
「――え?」
最初に目に入ったのは、口元だった。
赤い。
唇だけではない。
頬にも、顎にも、べっとりと血がついている。
異様なものを感じて一歩下がる。
アルベルトの手には、小さな猫がぶら下がっていた。
ぐったりとして、動かない。
腹部は大きく裂け、そこから赤黒いものが覗いている。
さっきまで聞こえていた咀嚼音の意味を理解した。
「ひっ……」
喉の奥から、情けない息が漏れた。
アルベルトが立ち上がる。
その動きも、私の知っている彼とは違っていた。
どこかぎこちなく、首が不自然に傾いている。
白く濁った目には焦点が合っていない。
猫が彼の手からずるりとすべり落ちる。
床に転がり、べちゃり、と嫌な音がした。
私は反射的に後ずさった。
すると、アルベルトは私を掴もうとするかのように腕を上げ、こちらへ向かってきた。
「……き……み……」
血に濡れた口がゆっくりと開き、掠れた声が絞り出される。
「え……?」
「きみ、に……」
『君には借りができたな』
主人公が猫を助けたあと、彼が少し照れながら口にする台詞が脳裏をよぎる。
(――まさか)
「……きみ、に……か……あ……」
「いやあああああっ!」
私は悲鳴を上げ、その場から全力で駆け出した。




