第4話
「本日からメイリン様の宮の担当になります、コウ・イェンと申します。メイリン様と皇帝陛下のために尽力させていただきますので、何かございましたらお申し付けください」
わたくしの目の前には、そう言って手を顔の前で組み合わせ、跪いて挨拶をする想い人が……イェン兄様がいた。
突然の出来事に、わたくしは目を見開いて固まっていることしかできなかった。
お、落ち着いて……状況を整理しましょう。
確か皇帝陛下とお話させていただいた翌日、つまり今日……わたくしの宮の担当宦官を変更する旨の報告を受け、その宦官が昼頃に挨拶に来るということだった。
そう、それで今がお昼時で……イェン兄様がわたくしの宮の担当になったと仰っていて……それで……。
困惑しながらも頭を懸命に動かすが、ぐるぐると同じ場所を回っているような感覚がして、うまくまとめ上げることができずにいた。
「突然の担当変更に困惑や不安があるかと思いますが、メイリン様の生活に影響がないよう引き継いでおりますので、どうかご安心ください」
頭ばかり動かして声を出すことができず黙り込んでいると、イェン兄様の淡々とした声が、わたくしのぐるぐると巡る思考を止めてくれた。
そんなことを不安に思っているわけではないのだけれど……そう思いながらも、ずっと黙り込んでいるわけにもいかないので、懸命に口を開く。
「あ、ありがとうございます……」
ただ、お礼を伝えるだけで精一杯だった。
困惑し続けているわたくしとは対照的に、イェン兄様の声は淡々と落ち着き払っていた。
「皇帝陛下から直々に、メイリン様の宮を担当するようにとのご命令を頂戴いたしましたので、皇帝陛下のご意向に添えるようにも精一杯務めさせていただきます」
その言葉に、わたくしはまた目を見開いた。
なぜわたくしの想い人の名前を聞いたのかと思ったら、わたくしの宮の担当に変えるためだったのかと。
思いがけない心遣いに戸惑いつつも、内心、喜んでいた。
「そうなのですね。その……どうか、顔を上げてくださいませんか?」
戸惑いが喜びに変わったら、イェン兄様のことをもっと見たいという欲が出てきて、未だ顔の前で手を組み合わせている彼に、思わずそう言ってしまっていた。
はしたなかっただろうか、突然の要求に困っているだろうかと、口に出してから不安を感じていた。
「はい。かしこまりました」
けれどイェン兄様の声は動揺一つなく、淡々としていた。
そして恋焦がれてやまない、わたくしが後宮に嫁いできた目的……どうしてももう一度見たかったイェン兄様の顔が、姿が、わたくしの目に映る。
長めの黒髪を後ろでまとめて結び、涼し気な細い目元からはこちらをまっすぐに見つめる黒い瞳が見える。
顔立ちは他の人から見れば、平凡なのかもしれない。
おそらくは世の女性たちの前で皇帝陛下とイェン兄様を並べ、どちらが好みか尋ねれば、ほとんどの人が皇帝陛下の方を選ぶだろう。
けれどわたくしには、優しく穏やかな顔が、全てを平等に見つめる瞳が、誰よりも輝いて見えた。
わたくしが最後にお会いしたのは一年ほど前だったけれど、イェン兄様は変わっていなくて、安心して緩んだ口から息を漏らしながら、思わず見とれてしまった。
「……イェン兄様。わたくし――」
「メイリン様。確かに自分とあなた様は従兄妹ですが、今は皇帝陛下のお妃様と、ただの宦官の関係です。どうか、そのようにお呼びになるのはお止めくださいませ」
懐かしさから名前を呼び、会えた喜びを伝えようとした時、遮られるようにしてイェン兄様から注意を受けた。
その声は怒っている風ではなく、困惑しているわけでもなく……ただ、淡々としていた。
宦官として、妃が間違ったことをしているから、冷静に指摘しただけのように感じられた。
わたくしは彼の淡々とした口調と、冷静な言葉と、動かない表情が、記憶の中で優しく微笑んでくれているイェン兄様と結びつかず、困惑と衝撃を受ける。
……見た目は変わっていないけれど、内面はすっかり宦官になってしまっている。
そしてわたくしも、もうただ可愛がってもらっていた従兄妹の娘ではなく、皇帝陛下の妃になってしまっていた。
だからこそ、わたくしたちの関係も変わってしまっていた。
わたくしとイェン兄様の間には、深く、大きな溝ができてしまっていた。
分かっていたことではあるけれど、実際に目の当たりにすると心がズキッと傷んだ。
しかし真面目なイェン兄様らしいと懐かしさも感じられて、わたくしの口元には薄く笑みが浮かんだ。
――イェン兄様との懐かしくも寂しい再会を果たした後、しばらくすると皇帝陛下が宮にいらっしゃった。
連日の訪問に驚きながらも、昼間に寝室というのもおかしいかと思い、茶の間でお会いした。
昨夜ぶりの皇帝陛下は、昨夜と違って威厳のある佇まいをしていたが、わたくしが出迎えると少しだけ口角を上げていた。
「時間があったのでな、様子を見に来た。担当の宦官に会ったと聞いたが……」
そう言われて、素直に喜び切れないイェン兄様との再会を思い出してしまい、少しだけ顔を伏せてしまった。
すると皇帝陛下は何かを察したのか、黙り込んでいた。
かと思うと、優しく明るい声色で提案する。
「今日は天気が良いから庭園を散策でもするか。二人で行く故、お前たちは宮で待機していろ」
そうして侍女も宦官も置いて、わたくしを優しく庭園へと連れ出してくださった。
――後宮の庭園は整備されていて美しく、花々が咲き乱れているけれど華美過ぎず、切り揃えられた木々と共に、傷ついた心を癒やしてくれるようだった。
「……私の贈り物は失敗だったか」
庭園を二人で連れ立って歩いていると、皇帝陛下が空を見上げながらそう仰った。
宮を出る前の発言を思うに、贈り物とはイェン様との再会のことを指すのだろうと、すぐに察しがついた。
なので、俯きながらではあるが、薄く笑みを浮かべて答える。
「いえ……皇帝陛下のお心遣い、とても嬉しかったです。ただ、わたくしが浅慮だったために、贈り物との距離感を見誤り、少しだけ指先に傷を作ってしまっただけです」
二人きりとは言え、誰が見聞きしているか分からない。
なので、あくまでも贈り物についてという体で話した。
皇帝陛下にも詳細は分からずとも意図していることは伝わったのか、「なるほど」と声を漏らし、また空を見上げていた。
庭園を歩いている今も、イェン兄様の微笑みのない淡々とした表情が思い起こされて、胸が痛む。
けれど、わたくしは勢い良く顔を上げて、まっすぐに前を見据えて言葉を続けた。
「ですが、こうなることも承知の上で欲し続けたのです。わたくしは頂戴した贈り物を傷つけないように、大切に傍に置かせていただきます」
わたくしが口を開く直前、陛下が口を開こうとしていたように見えたけれど、わたくしがそう決意を伝えると、口は閉じられ、代わりに笑みを浮かべていらした。
「……それでこそ、私の惚れた後宮一の美姫だな。良い良い。贈り物を大切にしてやってくれ」
「はい。皇帝陛下、本当に、素敵な贈り物をありがとうございました」
イェン兄様と再会できたこと自体は、素直に嬉しいと思っていたからこそ、心からの感謝だった。
にこりと微笑んで感謝を伝えると、皇帝陛下がじーっとこちらを見つめていた。
不思議に思っていると、皇帝低下はクックックと声を押さえながら笑っていて、「そなたを振り向かせる道は険しそうだ」とこぼしていた。
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