19 ”た す け て”
自室に戻った私は有言実行、すぐに靴を乾かしにかかった。
革靴の扱いには慣れているのであっという間に終了だ。
最後の仕上げに新聞紙をちぎって丸め、中に捻りこませた。
左右ともにきゅうきゅうに押し込んだ後、使わなかった新聞を折り畳む。
日本の新聞紙は英国やアメリカと趣が違うので、なかなか面白いな……そう思いながら何となく目をやった先に、私はあるものを見つけたのだ。
「………け、……て?」
テレビの番組表の中に、奇妙な〇印。
違う局の異なる時間帯の番組説明の中の文字、(け)と(て)に〇が付けられていた。
それはアクシデント的にペン先が触れたというものでもなさそうで、つい、他にもないかと探してみたりした。
すると、その二つよりも上の方にある(す)、更にその上の番組タイトルの(た)、が〇で囲われていたのである。
その四文字に何の関連性があるのだろう?
私は片付けの手を完全に止めて、不思議な〇印を眺めた。
各番組に共通点は見当たらない。
出演者についても手がかりはなしだ。
では番組ではなく、単に文字として考えてみればどうだろう。
上から読むと、た、す、け、て……
「――助けて?」
浮かび上がってきた不穏なメッセージに、私は顔を強張らせていた。
急いで他にも〇の付いた文字がないかもう一度入念に探すも、上の端はちぎれてしまっていて番組表の全てを確認する事はできない。
だが欠けてる面積はごく狭く、そこに〇印があった可能性は低そうだ。
「たすけて……、足す、他、透けて……」
何か他の意味も見つけようと考えを巡らせても、単語が思い浮かばない。
やはりこれが何らかのメッセージならば、それは―――― ”助けて”
これはどういうことだろう?
誰かが誰かに宛てたものなのか、ただのいたずら、もしくはクイズの類?
わからない。
だいたいこの新聞の日付は5月2日、もう三か月以上も前だ。しかもその日は日本では大型連休中のはず。
おそらくここの生徒も多くは帰省していたに違いない。
そんな日の朝刊にいたずらやクイズを仕組むだろうか?
それに、この新聞は管理棟の図書室にあったものだ。
あそこはラウンジ同様あまり人の出入りはないと聞いた。
ならば、なぜ?
―――いや、そうじゃない。
人の出入りがないなら、人に見つからずにメッセージをやり取りするのにこの新聞は絶好のアイテムではないだろうか?。
だったら、やはりその意味する事は――――助けて?
「―――っ!」
私は自分の立てた仮説に自分で驚愕してしまう。
だって、もしそれが正しいのなら、この学院内に助けを求めている人物がいるのだ。
それも、人目のつかないところでSOSを送らねばならないような状況で。
私はどうすべきなのだろう?
この新聞が印を残したまま私の元に巡ってきたという事は、もしかしたらこの送り主にはまだ助けが届いていないのかもしれない。
それなら早く手を打たなければ。もうだいぶ時間が経っている。
学院内で事件が起こったとは聞かないから、命や身体を脅かすものではないのだろう。
だが心理的精神的な助けを求めているのだとしたら、それも一刻を争う可能性だってある。
私はその新聞紙を他のものと分けてデスクの引き出しにしまい、自分にできる事を考えた。
そしてとにもかくにも情報が必要だと、こういう時最も頼りになりそうな寮長、京極さんにそれとなく訊いてみることにしたのだった。
ただのいたずらであってほしい……そんな願いを持ちながら、けれど心の片隅では、深刻な事態が待っているのかもしれないと、細心の注意を払えという指令を感じ取っていた。
さっき別れたばかりの京極さんは寮長の仕事で校舎に向かうと言っていた。
食事時など、偶然京極さんを見かけた素振りで質問の機会を窺おうとも思ったが、万が一あのメッセージが急を要するものだった場合を考慮して、なるべく早くに動くことにした。
すると、ちょうど校舎とフラットAを結ぶ小径の途中でこちらに戻って来る京極さんを見つけた。彼は一人だったが、すれ違う生徒達に会釈されていた。
雨足は弱まってきたがまだ傘を手放せない天気で、それなのに京極さんはすぐに私に気付いてくれた。
「ミス・フルーガル?」
「京極さん、先ほどはありがとうございました」
「それは構わないけど、どこに行くの?」
「実は、京極さんにお訊きしたい事がありまして、探しておりました」
「俺に?何かな?」
「あの、おかしな事を訊くと思われるかもしれませんが、今年の5月の連休に、寮で何かありませんでしたか?」
その途端、僅かばかりに空気が揺らいだ。
私の質問は、京極さんの穏やかな眼差しを崩すことに成功したのである。
「何か、とは?」
「わかりません。でも、学院内で何か起こったのであれば教えていただきたいのです」
これは賭けだ。
人目のある場所であえて問う。
もし京極さんが何も知らないなら何ら不都合はないはずだ。
だが何かを知っているなら……
「ミス・フルーガル、場所を変えようか」
賭けは正解だった。
どうやら彼は何かに心当たりがあったらしい。
だが、あの京極さんが、こんなにも容易く、ここまで素直な反応を、吹月生になったばかりの私などに見せるだろうか?
彼に対して訝る気持ちは拭いきれない。
京極さんは私を校舎の中に誘い、一番手前にある部屋の引き戸を開いた。
予備室のようだが、彼は入るなりぴしゃんと扉を閉じた。
がらんとした室内に、微妙な距離で対峙する。
「誰かに何かを聞いた?」
冷たい炎を宿したような声だった。
私は「いいえ」と首を振った。
「それなら、どうしてそんな事を訊くのかな?」
例の新聞紙のメッセージを彼に教えてもいいものか迷いに迷う。
だが彼のこの対応はあまりにも不自然で、私はあれは最後の手札に取っておくことにした。
「葛城さんからいただいた新聞がちょうど連休あたりの分だけ抜けていたんです。ですから何かあったのではと思いました。もしそうではなくて、ただ単に私のように新聞紙をリユースしてる方がその分を持っていかれたのでしたら、その方とは感覚が似てるわけですから、是非お会いしたいと思ったのです。吹月学院の生徒さんでわざわざ古新聞を貰い受けてる方は少ないと聞きましたので、もしかしたら親しくなれるのではないかと思いまして」
口から出まかせだが、連休近辺の古新聞は私が所持しているのだから、例え京極さんが不審に思っても確かめようがないはずだ。
咄嗟に浮かんだ言い訳にしては上出来だと自負する。
すると京極さんはしばし考えるように、または記憶を辿るように押し黙り、「新聞の再利用については、把握していないな」と答えた。
だがそのあとすぐ
「ただ、もし何かがあったとしても、それをぺらぺら吹聴するのは品位に欠ける行いだと思うよ?もちろん、興味本位であれこれ調べまわるのもね」
思いきり正面から釘を刺されてしまう。
つまり、京極さんは例え何かを知っていたとしても私に教えるつもりはないし、
私にも、あれこれ調べるなということだろう。
どう振舞うべきかを逡巡した私は、無難に「心得てまいります」とだけ返した。
「ここは名門とされる全寮制学校なんだ。一般家庭の生徒も少なくないとはいえ、それなりの家の者も多い。ミス・フルーガル、君も承知してるだろうけど、そういう環境では不文律もある。そしてそれは、外国暮らしの長い君の思ってるものとは少し違うかもしれないね。もしわからない事があれば他の誰に訊くよりもまず今みたいに先に俺を訪ねてほしい。いいね?」
「わかりました。その際は宜しくお願いいたします」
「きつい言い方に聞こえたら申し訳なかったね」
フォローのように付け加えながら、京極さんは自分の手首を逆の手で握っていた。
これは心理学的には不満の表れというが、京極さんが私に苛立ちめいてるのは肌で感じていた。
「とんでもありません」
即答した私に、京極さんが手首をゆるりと離した。
「京極さんは寮長としての責任を強く感じておいででしょうから、当然のお叱りです」
京極さんの表情がスッと変わる。
「吹月学院、ひいては吹月の生徒を守ろうとなさっているのがよく伝わりました。そしてその中には、おそらくもう、吹月生となった私も含まれている。だって、私をフルーガルと呼ぶのも、館林という名のせいで悪目立ちしそうだと判断なさったからでしょう?まだここに来て数日の私にでさえそんな配慮をくださる京極さんですから、きっと在校生に対する気遣いは相当なものだと拝察いたします。ですから、例え私に厳しい口調だとしても、それは吹月学院を想うあなたの優しさです。そして厳しい口調をいただいたとしても、私は、あなたが私への優しさを失ったと思ったりはいたしません。現にあなたは最後に私を気遣う言葉をくださいましたから」
私は間違った事は言っていない。
ゆえに、京極さんには正否を求めていない。
だが、私の発言に彼はしばしの間をとってから、やがてクスクス笑い出したのである。
その反応をどう受け取ればいいのかは判断しかねた。
やがてひとしきり笑った京極さんは一言。
「館林家は安泰が続きそうだね」
それがそのままの意味か隠語なのか明かされることはなかったが、その時の京極さんの相好は、とても楽しげだった。




