18 雨
私の吹月学院生活三日目の朝は、雨だった。
朝食のテーブルにて、夏休みぎりぎりまで帰省している生徒達もそろそろ戻って来る頃だと聞いた私は、人が増える前に学院内の説明を受けることにした。
案内役は京極さんが引き受けてくれた。
「それじゃ行こうか、ミス・フルーガル。昨夜はよく眠れたかな?」
制服姿で待ち合わせたフラットAの玄関先、優雅に話しかけられて、彼はこのまま欧州の社交界に出ても溶け込めそうだなと感心した。
今となっては私よりも長いサラサラの髪をハーフアップにしており、長身で筋肉もありそうなのに、円城寺君とは違った意味でどこか中性的でもある。
だが、その柔和な容姿に惑わされてはいけないと、この数日のやり取りの中で私はそう結論付けていた。
この人や栗栖君は、きっとそれだけじゃない人だから。
内心では警戒ランプを灯しつつ、私は表面上は穏やかな学院見学で午前中を過ごしたのだった。
「晴れていたらもっと色々案内できたんだけど、また今度だね」
雨足が強まってきたので、校舎内の他に図書館、講堂、職員棟、そして音楽棟を案内してもらったところでひとまず終了となった。
他には各フラット、時計塔など、敷地内にはまだ施設もあるが、私の学院生活に即刻必要な場所でもないので、おいおい案内してもらうことにしたのである。
朝はパラパラだった雨が、ザアザアを越してバシャバシャと地面の泥濘を跳ね返らせてくるほどだった。
雨に追われた私達はフラットA側よりも手前にある管理棟の扉から建物に入った。
「さすがにちょっと濡れてしまったね。早く戻って乾かした方がいいよ」
「そうですね」
管理棟のエントランスで制服に付着した雫を払い落としながら、京極さんは私を真っ先に気にかけてくれた。
「京極さんは大丈夫でしたか?」
「俺は大丈夫。それより、部屋まで送らなくても大丈夫かな?」
「勿論平気ですが…」
「じゃあ、俺はまだ学校で用事があるから、ここで失礼するよ。くれぐれも、よく乾かすんだよ?」
「はい、ありがとうございました」
直接校舎に向かえばよかったものを、わざわざ私を送り届けてくださった事に心からの礼を伝え、京極さんをお見送りした。
寮長とは生徒会長と同等の役職だというから、まだ学校が始まってなくともこなすべき仕事が多いのだろう。
それなのに案内役を引き受けてくださって、申し訳ない事をしたと内心で反省した。
だがその直後、並々ならぬ視線を感じ、咄嗟に振り返った。
「―――っ?」
だが広がっているのは、無人のエントランスばかりで。
誰もいない?そんなはずない、あんな強烈な視線、絶対に気のせいなんかじゃない。
今一度辺りを見回すも、管理人室は不在だし、その前のエントランスには私以外誰もいないのだ。
おかしい。
確信的な違和感を記憶に刻んだところで
「楠先生、倉庫にはなさそうですよ」
地下に続く階段から管理人の葛城さんの声がしたのだった。
「…葛城さん?」
私が声の方に歩み寄ると、玄関からは死角になっていた地下への階段の壁後ろから、スッと女性が現れたのである。
ラフなパンツスーツ姿だが、きちんとした身なりだ。
女性は私と目を合わせると軽く笑み
「わかりました。葛城さん、お手数おかけしてすみませんでした」
地下の倉庫に返事を投げた。溌剌とした声と口調で。
葛城さんが先生と呼んでいたのだから、この女性は学院の教師なのだろう。
事前資料では、高等部にいる女性教師は一人だけだったはずだ。
確か名前は、楠 優子。
彼女は私が来るまで、ここでは最も生徒に近い女性だった。
「いえいえ、お役に立てませんで……おや館林さん、学校案内はもうお済みですか?」
葛城さんが階段を上がってきて私に気付く。
すると女性も続いて私に話しかけてきた。
「あなたが館林さんね?はじめまして。音楽担当の楠です」
にっこりと、ほぼ満点の愛想笑いで名を告げた女性。
だがその直前、微かに唇に力を込めたように見えた。
まるで私を警戒しているように。
それならばと、私は至って普通に返すことにした。
「はじめまして、館林 舞依と申します。ご挨拶が遅れてしまい失礼いたしました。これからよろしくお願いいたします」
可もなく不可もなし、変哲もない挨拶だ。
すると楠先生は視線を斜め上に一瞬だけ動かした。
「こちらこそよろしくね。でも今日会えてよかったわ。高等部にいる女性職員は私一人だけだから、何かあったら…いいえ、何もなくても、いつでも声をかけてね」
「はい、ありがとうございます」
「あなたの事は久我先生もとても気にしていたのよ?まるで妹のように思ってるみたいね」
「久我先生が、ですか?」
「そうよ?彼は心配性な性格だから」
久我先生が私を気にするのは、私が吹月に来た事情を知っているからだと思うけれど。
果たしてこの楠先生はそこまでを把握しているのだろうか。
それに、彼女の口ぶりは、何だかただの同僚というには親しげだ。
私生活に踏み込むつもりはないが、ひょっとしたら二人は親しい間柄なのかもしれない。
だがそうだとすると、私の事情も久我先生からこの人に伝わってそうなものだが……
「とにかく、私を頼ってね?…と言っても、実は今日から夏休みで実家に戻っちゃうんだけど。でも数日だから。だから私が戻ってきたら、そこからは私を頼りにしてね?それじゃ、今度はゆっくりお話しましょうね」
楠先生は裏表なさそうに見える笑顔であっけらかんと言い残し、管理棟を出て行った。
「ところで館林さん、雨には濡れませんでしたか?」
葛城さんは急ぐ風でもなく、窓を打つ雨を見やり、同情を滲ませて私に視線を戻した。
「少しだけ。ですが大丈夫です。靴も濡れてしまいましたが、昨日の新聞紙がまだ余っているので、それで湿気を取り除きます」
「生活の知恵ですね。私の母もよくブーツの中に入れてました……おや?」
にこやかだった葛城さんが、ふと考える仕草をした。
「どうかしましたか?」
「いえ、以前も今と似た会話をした記憶がありまして」
「生徒さんとですか?」
私以外にも古新聞のリユースに積極的な生徒がいたのだろうか?
ちょっとした興味が芽生えるも、葛城さんは釈然としない面持ちになっていた。
「どなただったでしょうか……。いけませんね、歳を取ると忘れっぽくなって」
まるで筆頭執事のように見えるほどしゃんとしている葛城さんが、そんな事を忘れたりするのかと疑問が浮かぶ。
だが、もしかしたら曖昧なままで終わらせたい話かもしれないなと、私も深くは追わない事にして葛城さんと別れたのだった。




