雪山2
クライブは顔を上げた。青く暗く寄る夕闇に、雪原は青く沈んでいる。横殴りに吹き付ける吹雪に、雪雲さえもかすんで見えた。ゼトは眉間にシワを寄せたまま、ギョロリと目を開いた。
「オオカミだ。」
ゼトが低くそう言うと同時に、再び遠吠えが響いた。冷気を吹き付ける風の音を貫いて、その吠え声は先程よりも近づいているように感じた。
ティナが長い耳を器用にあちこちに向けながら、辺りを見回した。
「アタシ達を襲うつもりなのかな…?」
彼女は緊張気味に言った。先程まで凍えて縮こまらせていた尻尾とヒゲはぴりりと伸び、いつの間にか、背負っていた棍を手に持っている。
「オオカミは滅多に人間は襲わねぇ。」
ゼトが短くそう言った後、ぽつりと付け加えた。
「よっぽど飢えてなきゃあ、だが。」
「この秋は、山で獲れる食べ物が少ないって、村のみんなが言ってたな…。」
クライブがそう言った時、一際大きく遠吠えが聞こえた。今度は、はっきりと先程よりも近いとわかった。びゅうと風が向きを変え、巻き上げられた雪が火花のように散った。
もう一つ遠吠えが掛け合うように重なる。もう一つ、さらにもう一つ。オオカミの姿は見えない。しかし、高く低く、美しいとも聞こえる遠吠えの重奏は、彼らに、今まさに百のオオカミが取り囲んでいるように思わせるのだった。
唐突に、ゼトが松明を掲げて大きく振った。そして、口を丸く開けて頬を広げると、オオカミに負けない声量で吠えた。
「ほーい、ほおーい!」
その大声に、思わずクライブとティナは目を丸くしたのだが、すぐに気づいた。狩人達を集める合図だ。
「ほおーい!おーい!…んん?」
何度かの合図の後、ゼトは口を閉じ、訝しげに周囲を見回した。クライブ達も辺りを見回した。狩人達の松明の火が見えないことに気づいたのだ。
吹雪の中でも、クライブとゼトの持つ松明は暴れるように燃えている。捜索隊の仲間達は、十数人はいたはずだ。彼らの火がみんな消えてしまったとは思えない。
ゼトがもう一度吠えた。彼が松明の火を高く振りかざすと、火の粉が金の粉のように雪風に散り散りに舞った。しかし、近づいてくる者はなく、灯りも見えない。
「どうなってんだ…。」
ゼトは、目を見開いて呟いた。ティナが不安そうに棍を握りしめる。
「はぐれちゃったのかな?」
「馬鹿な。すぐさっきまで…。」
その言葉を遮り、またオオカミの遠吠えが響き渡った。かなり近い!
クライブは剣の柄に手を掛け、ゼトも弓を手に取った。遠吠えは、伸びやかな響きから、威圧するような調子に変わっているようだった。前後、左右から聞こえる。近づいてくる。
三人は申し合わせたように、背中を合わせて武器を構えた。先程言い合ったばかりだが、こうなっては一時休戦だ。進むにしても、戻るにしても、ここを切り抜けなければ。
「あ、あれ!」
ティナが声を上げ、吹雪の向こうを指差した。クライブとゼトも、彼女が指差す方を見た。
クライブは、灰色に煙る雪風の向こうに目を凝らした。何もないかに見える吹雪の向こうに、見間違いかと思うほどの小さな赤い点が見える。じっと見ていると、赤い点はしだいに大きくなり、炎のように瞬いているように見えた。
クライブは最初、仲間達の誰かかと思ったのだが、違和感を感じた。松明の火ではない。それは、紫がかったような、赤黒い光だったのだ。
「なんだありゃあ…。」
同じことを思ったらしいゼトが呟いた。
「こっちに来る。何だろう。」
得体の知れないものの接近に、不安が持ち上がる。あれは生き物だろうか。こちらに気付いているのだろうか…。
ふいに、勇ましい狩長の表情が、強張った。問うように呟く。
「あっちは南か?」
彼が村の掟のことを考えているのは明白だった。朝まぐれと、夕まぐれに、南の空を見てはならない。闇は、昼と夜の境目からこちらにやって来る。
朝に見ると心を奪われ、夕に見ると心に入り込むといわれる闇が…。
「あ、あっちにも!」
再び、ティナが声を上げた。ドキリとして見ると、先程見つけた赤い光の反対側、斜面の上の方からも、赤い光が近づいてくるのだった。
クライブはぐるりと、全方位を見回した。見ると、前後左右一つずつ、四つの赤い光を見つけた。いずれも、だんだんと近づいているように見える。
「何、あれ?」
ティナが光を見つめたまま、震える声で言った。
「わからん。長年この山で狩人をしているが、あんなものは初めて見る!」
怒ったようにゼトが答えた。肩をいからせ、ふうと息を吐く。勇ましい狩人は、この状況になんとか冷静さを保とうとしているようだった。
「夜の山は人間の領域じゃねぇ。この世のもんじゃねぇものの伝説も残ってる。俺も、でくわしちまうのは初めてだがな。」
ゼトが早口にそう言うと、ティナは、彼の言葉に震え上がった。
「この世のものじゃないもの?それは、襲ってくるの?戦う準備した方がいいの?」
矢継ぎ早に質問する彼女に、ゼトは光を見つめたまま怒鳴りつけた。
「わからん!だが、俺たちにとっていいものとは思話ないことだな。しかし、掟を破っちまった訳でないみたいで安心したぜ。」
ゼトはそう言ったが、ちっとも安心しているようには見えなかった。ぎりりと矢を番えて、自分の正面側の光を鋭く睨みつけている。
クライブは、鼓動がばくばくと鳴るのを感じた。剣を握る指を緩め、そっと、柄に掘り込まれた紋章に触れる。その感触を確かめた。
リィネの剣。村一番の鍛治氏の娘が鍛え、妹に託された剣だ。彼女達は、旅の無事を祈ってくれた。この剣が自分を守るだろう。そう思うと、少し心が落ち着いた。
そして、四方からこちらへ来るあの何かが、悪きものでないことを願った。
アオオオーン!
そこへオオカミの遠吠えが響いたので、クライブは飛び上がるかと思った。赤い光の出現に、オオカミのことを忘れかけていたのだ。
驚いたことに、赤い光は、遠吠えに反応するように大きく揺らめいた。急速に光が大きくなる。近づいてくる!
彼らには、待つ以外に選択はなかった。吹雪の中、武器と松明を掲げた三人は、彫像のように声も出さずに赤い光を見守った。光といっていいのだろうか。それは紫と赤黒い色の混じった、暗い色をしていた。しかし、吹雪の暗がりの中でも、異様にくっきりと目立って見えるのだった。
同時に、オオカミの吠え声も近付いてくる。近づくにつれ、赤い光は、弾むように上下に揺れていることがわかった。まるで、生き物が走っている動きのようだ…。
それはすぐ目の前まで来ると、立ち止まった。クライブは、横殴りに吹き付ける雪に視界を遮られながらも、目の前のものを凝視した。赤紫の炎の中、雪を踏み締める前足が見える。胴体にはどろどろと渦を巻くように、赤紫の火が纏わりついて、そこからたなびくように尾がうねっている。唸り声をあげると、口の端から所々赤黒い火が噴き上げた。瞳はなかった。しかし、目の位置に二つ、落ち窪んだ穴があった。その奥が水色に鈍く光っていた。
それは、禍々しい暗い色の炎を纏った、オオカミの姿だった。




