どうなんだろうね
三章 一
暑い。
……暑い。
ミンミンと鳴く蝉の声を四方八方から浴びながら、広い空の下を一人歩く。
グレー地にピンクのザックを背負って、私は一人アスファルトを行く。
盆地。
小さな盆地。山に囲まれた、小さな盆地。
ここに私を知る者は一人も居ない。ここに私が雪環灯理だと知る者は一人も居ない。
太陽の熱を遮る物が無い。アスファルトの強烈な地熱は防ぐ手立てが無い。一歩、また一歩と少しずつ近付いて来る巨大な緑が今はただ恋しいし、振り返って、電車の中は天国だったかも、なんて思う。
車窓から見た記憶と照らし合わせて道を進んで、民家の横にある坂道を上る。坂から見下ろす脇には民家の庭があって、花が彩っている。更に山の側には畑もあって、野菜が豊かに実っている。裏手の広い草地は綺麗に刈り込まれ、森と人里の狭間にある裾野のようにも見える。左右がそんな景色になると味気なさも覚えるけれど、山に入って行くのだという実感が湧いても来て、心が昂ぶるのを覚えるのだった。
やがて砂利で出来た駐車スペースに辿り着き、先生が白の乗用車を停めたその場所まで行ってみて、私はザックを降ろし、帽子を脱いで伸びをした。
あの時は、制服を纏っていた。今は、トレッキングウェアに汗を滲ませる。スポーツ飲料をぐびぐびと飲んで、ザックをぴたり背中に密着させる。
見上げた山に、私は一歩踏み出した。
先生と歩いた遊歩道。六月頭にはひんやりとしたここは、七月末でも涼しかった。電車を降りてからは日の光を遮る物の無い道だったから、身体が喜んでいるようだ。
あの時に比べればはっきりと汗を掻いているけれど、私の近くに蝶は飛んでいない。飛んでいたところで、私の汗を吸いに来てくれるとは限らないけれど。
オニグルミの木の幹で鳴いているアブラゼミを写真に収めて、更に見上げて、あと一月もすれば地面に落ちてくるであろうクルミを写真に収めて、私は遊歩道を行く。
三年振りに勝ってから、私はお父様との碁を振り返った。勝てた碁と、負けた碁を並べて、何局も何局もある、負けた碁を並べて。どうしてこんな手を打っていたのだろうと、棋譜を捨てたくなった。だからそうして改めて勝てた碁を並べた時には、お父様の言葉に頷けた。
次は先で打とう
私の力を発揮出来れば、二子など手合い違いだったのだ。三子に戻すなど、以ての外だった。三年間、お父様はそのことを私より分かりながら、ただ私を待っていたのだ。私の碁から、勝ちたいという強迫観念が無くなる日を。私の碁から、敗北への恐怖が無くなる日を。私の碁が、迷わなくなるその日を。あの日を、お父様は待っていた。私が成長するその日を。
久方振りに私が勝ったというのに、二言三言で立ち去ってしまったお父様。
お父様は、どんな気持ちで私と打っていたのだろう。
そういえば私は、お父様のことを知らなかった。お父様のことが、わかっていなかった。
碁は手談だと、先生と打った時、改めてそう思ったけれど。私はお父様との碁から、お父様のことを何も感じ取れてはいなかった。私は私のことしか、私の意思しか、見ていなかった。お父様は私のことを、確かに見抜いていたかも知れないのに。
お父様は、私のことをどこまで感じ取っていたのだろうか。
迷いでもあるのかと、そう口にした、お父様は。
次に打つ時は、私にも分かるだろうか。
お父様の手が。
お父様の人生が。
お父様との手談が。
お父様の、道が。
私にも、見えるだろうか。
「それは、どういうことなのですか」
「私には、もう赤ちゃんができないみたいなの」
それがどういうことなのかくらいは、私にもわかった。
「灯理、勉強を続けるんだ。この前のテストも一位だったじゃないか。灯理なら出来る」
その瞳に悲しみを宿しながら、真っ直ぐに強かに私の目を見据えるお父様。少し逸らしながら、潤んだ目で私を見詰める膝を落としたお母様。鈍器で殴られたような感覚を全身に覚えながら、「はい」と答えた私。涙を溢し、「ごめんね」と、お母様が私を抱き締めた。気付いたら、お父様は目を逸らしていた。
生い茂る緑の中ではたと我に返った私の前に、土の道は続いていた。
視界がぼやけていることに気付いて瞬きした時には、喉が締め付けられるようだった。
心が痛むから、思い出さないようにしていた記憶。いつも、心の奥底にしまっておいた記憶。
溜まった感情を呑み込む。
あれから私は、求められた成績を出し続ける学業とは裏腹に、碁の調子を落とし始めた。それまで楽しんでいたはずの囲碁が、そうではなくなっていった。だから囲碁部からの誘いを断った。残酷なまでに人間の出る碁を、人生と重ね合わせずにはいられなかった。だから勝ちたいと願った。けれど勝ちたいと願えば願うほどに、私は迷い込んだ。
振り返る。果たしてこんな道を歩いて来ただろうかと、折角の大自然をまるで記憶していないことを、少しぐらいは悔いるべきだろうか。蝉が鳴いていることすら忘れていた集中力の方を、誇るべきだろうか。
道
これが私の道なのだろうか
歩いて来た道に、歩いてきた足を、かすむ視界で見詰める。土に塗れた足は、綺麗ではないけれど。これが、私らしいのかもしれない。
前を向く。行くべき道に向き直る。足を踏み出し、前へ進む。
一歩一歩を踏み締めて、遊歩道を進んだ。
やがて水音が聞こえて来て、私は小さな橋に差し掛かった。照り付ける陽射しが熱い。橋を渡ったところで立ち止まり、下流の方にちらりと目を遣ってから、私は橋を渡り切った。
未知の領域に踏み込むと、あの時と同じように全身がぞわぞわとした。更に深く茂る緑で、日の光が余り入らない暗い森。川で開けた空を見た直後だから、全く別の世界に来てしまったようにも感じる。風が私の服を吹き抜けて、爽やかに体温を奪っていく。
道を曲がると前方が明るい。大きく深呼吸をしてから、暗い森を抜けた。
崖。
私が左に見たのは、そうと呼んでも差し支えのなさそうな急斜面だった。転げ落ちたら命は無いだろう。膝を突いておそるおそる覗き込んで、そこが谷であることと、谷底には川が流れていることを知る。盆地に流れ込んでいた別の川か。谷底は暗く、生い茂る木々に日の光を遮られ、川辺には苔らしき緑も見える。沢。僅かに射し込む日の光が、幻想的な空間を作り出していた。
立ち上がると膝の土を払って、盆地を背に山を更に深くへと進む。地図と空撮写真によれば、この先に草原がある。先生とお昼を食べたのとはまた別の草原だ。そこが今回の登山の目的地で、私はそこでお昼を食べたら下山することになっている。ルートは事前に調査済みだし、地図に経路を記し照らし合わせながらの登山だ。間違っても遭難だけはしてはいけない。否、間違った時にするのが遭難なのだけれど、私は他の何を間違えても、そうなってしまってはいけない。私には、雪環灯理には、生き抜く責務がある。私は、生き抜かねばならない。生き抜いて、やらなければならないことがある。
両親の反対を押し切って一人で来た。そうでなければ、意味が無いと思っていたから。そう、今だったのだ。私が私の運命を背負うのは。私の意思なのだから。
一歩踏み外せば転げ落ち、命さえ落としかねないこの山で、私は今、歩いている。そんな実感が、登山開始から私の中に充ち満ちていた。一歩、また一歩と進むのが、私に力を呉れる。肉体が疲労しながらも、精神がそれを打ち消して行く。身体が前に進んで行く。私は初めて、一人で歩いている気がしていた。誰とも擦れ違わないこの道で。私は今一人だ。だけれどここに、私の居場所がある。霧山千陽先生が、私にそれを呉れた。
私に呉れた、雪環灯理の在処。
雪環灯理に呉れた、私の在処。
私が勝てたのは、私が前に進めたのは、そんな居場所のお蔭だったのではないか。
最終的に、登山届の提出と雪環家への定期連絡を約束することで、私はこれを許されたのだけど。その程度で許されたのは、あの日先生に、なにかを言われたからでもあると思える。私は今も、そこに居ない先生に支えられているのだろう。私が一人で歩けるように、私が道を選べるように、先生が、私の前に続いていた道を消してくれたのだろう。一人で歩くことの楽しさを、私が知れるように。
先生は、ご自身が自由であるだけでなく、私に私の自由まで用意してしまったらしい。一体どうしたら、あのお父様を相手にそんなことが出来るのだろう。私にもいつか、そんなことが出来るようになるのだろうか。
さて。
午後一時。登山開始から一時間が経過していた。この森を抜ければ、目的地だ。
暗い森の中で何度か道を折れると、遠く前方に光が、強烈な光が見えて来た。幾万の木漏れ日が集まればそんな光にもなるだろうかというような、圧倒的な光だった。その光はそのまま私に射し込むようで、一歩、また一歩と、焦らずに進めば必ず辿り着けると思えた。あっという間だったようでも、少しずつ伸びてきた影が時の流れを物語っている。
ここまで、来た。私の脚で、ここまで来た。
きつい斜面を登った時にはどっと汗を掻き、心肺の叫びを聞きもしたけれど。私はここまで、やって来た。カナカナと哀愁漂う鳴き声が響いて、ヒグラシが私を送り出す。
出口だ。
強烈な光が真正面から真上から、風呂桶をひっくり返したかのように降り注いで来た。眩しい。太陽が眩しい。思わず手で影を作って、足下の視界を確保する。草を踏み鳴らして一歩踏み出して、先ずは景色を眺めようと、足下の視野を徐々に広げながら視界の開けていそうな方向を探す。それなりに高いところまで登った筈だから、見晴らしも良いはずだ――そう思った私の目は、しかし草原から離れなかった。
草原の一角、木陰になったその場所で、グレーにピンクのラインが入ったトレッキングウェアの背中が見える。茶髪の、小柄な女性だ。
横たわっている。
瞬間、私の頭からそれまでの思考が消し飛んだ。
暑くて気分でも悪くなったのだろうか。動けなくなってしまったのだろうか。
気付いた時には女性の傍らで膝を落として顔を覗き込んでいた。
年の頃なら私と近そうな横顔の女の子は、すや、すやと…………
ね、……寝てる
火照っている様子もないし、よく見れば脱いだ靴が帽子を掛けたザックの前に綺麗に並んでいて、枕まで準備万端整えてから眠りに就いたようだった。
とても、幸せそうな横顔で。或いは、ここで寝る為にここまで登って来たかも知れないくらいに、女の子のそれは、安らかな寝顔だった。
「ん……しづるー?」
どきり。
起こしてしまった。しづる、同伴者の名前だろうか。
言いながらゆっくりと寝返りを打った女の子が、薄らと目を開けた。
「いえ……」
見詰め合ってややあって、女の子が慌てふためく。
「あっ、あのっ、ごっごめんなさいそのっ、わたわたしたっ、倒れてたとかそーいうんじゃなくてったた、ただお昼寝をっ」
果たして私がどんな顔をしていたのか、必死に弁明させてしまって、却って申し訳ない気持ちになってしまう。
「いえっ、私こそ、ごめんなさい。その、お昼寝の邪魔をしてしまって」
女の子は慌てて起き上がろうとして一度滑って、ちょこんと座り直した。正座だ。女の子にそうされて見て、私も正座していたことに気付いたのだけれど。私は女の子の姿を、しばらく見てしまった。どこか不格好な正座が、なんだか可愛らしかったのだ。
ふと女の子がどぎまぎしていることに気付いて、私のミスにも気付く。早く立ち去るべきだった。寝ていただけなら良かったですとでも言って、立ち去るべきだった。
でもそう思ったところで、どうして私がそうしなかったのかに思い至る。
ここが、目的地だった。
立ち去る場所などないのだ。
この小さな草原の中で、「じゃあ……」とでも言って少し離れてお昼を食べるのでは、まるで人見知りの子供だ。
そう、ここが目的地だったのだから。ここが目的地なのだから。
「わ――私は、灯理といいます」
私の取った行動は、自然だったはずなのだ。
「火偏に丁の灯すに、理解の理で、灯理です。高校一年です」
そこまで言って、咄嗟に紹介する自己というのがそんなものしか出て来なかったことに、内心失望した。こんな山の中に居ても、私の頭に浮かんで来るのは実態の無い漢字だった。ただの情報で、記号で、そこに私が在るのかさえわからないような、文字だった。
俯き加減で様子を窺っていると、しばらくぱちくりしていた彼女が、にっこりと微笑む。
「わたしは香。香木の香。わたしも高一なんだ、よろしくね、灯理ちゃん」
不意に触れた彼女の枕がひんやりと冷たくて、私は指先からの刺激に撃たれる。
「うん、よろしくね、香ちゃん」
屈託のない笑顔を向ける香ちゃんと、
草原の一角で、
出逢った。
「灯理ちゃんも、ここでお昼?」
決して気まずさなどなかったのだけれど、流れた時間の後に、香ちゃんが聞いてきた。
「ええ」
「じゃ、食べちゃおっか」
「しづるさんを、待っているのではないの?」
「うーん、なんていうか、おなか空いちゃって……えへへ。どーせそのうち来るし」
おなかを空かせている香ちゃんを待たせても悪いし、私だってそこそこへとへとで、エネルギーを補給したいし、ザックからお弁当箱を取り出す。今日は軽さを重視したお弁当箱にしてもらったから、外見も香ちゃんのそれと変わらない。中身だって痛み難い物で構成されているから、似たようなもので。
「いただきます」
香ちゃんと隣、おにぎりに噛み付いた。
「香ちゃんは、この山には何度か登っているの?」
一つ目のおにぎりを食べ終えたところで、私は尋ねた。
「うーん、何回、なんだろう。麓にお爺ちゃんの家があってね、来る度に登ってるかなぁ。だから山に登るっていうか、まぁ、散歩だね」
「さ」
「さんぽ」
「灯理ちゃんは、あんまり山には登らないの?」
「ええ。籠もりがち、だから」
「そっか。そのうち慣れるよ。こんなもん散歩みたいなもんだーって」
先生の言った散歩とは、そういうことだったのだろうか。
こんなものは山登りの内に入らないと
そういうことだったのだろうか。
「まぁ、山を舐めるなって、お爺ちゃんの口癖なんだけど」
「一瞬の油断が命取りということかしら」
「昔しづるとふざけてて、斜面から落っこちそうになってね。こっぴどく叱られて……それ以来、口癖みたいになっちゃって」
「しづるさんとは、古いの?」
「うん。赤ちゃんの時から、なのかな。幼馴染みってやつ?」
「姉妹みたいなもの?」
「うーん、ど、どうだろう」
困った風な香ちゃん。困った顔が可愛くて、聞いて良かったと思った。
「どうなんだろうね」
わたしにもわからない、そんな風に笑った。
その時、草を踏み分ける音が聞こえて来て、
「お……そちらさんは?」
男の子だった。
しづると聞いて女の子を想像していた私は、軽く衝撃を受けながら、香ちゃんに親しげな目を向ける彼に向き直る。
「灯理といいます。高校一年です」
「ほー、しかもその様子じゃ、ここが目的地って感じじゃねえか」
「……ええ」
ここが目的地であることが、意外なのですか?
そう言うあなたも、ここが目的地なのではないのですか。
「いいところだよな」
「ええ」
話の調子が掴めない。しづるさんは妙な人だ。
この妙な感じには、覚えがある。そう、霧山先生に初めて会った時の感じと、似ている。
ザックを降ろし、円を作るよう私と香ちゃんの向かいに胡坐を掻いた、彼の名は志弦。やはり同学年で、高校ではサッカー部に所属、夢もまたサッカー選手。そんな志弦さんは香ちゃんを一人残してどこに行っていたのか。
昨夜から麓の家に泊まっていたという志弦さんと香ちゃんは、今朝、沢伝いに登り始めた。私が崖から見下ろした、あの沢だ。あそこを、数時間前に二人は登っていった。そうして、香ちゃんは途中でこの草原を目指して進路を変更、志弦さんはそのまま沢を登り、上流からこの草原へと戻って来たそうだ。
志弦さんは既に下山途中で。ここは第二の目的地だったのかも知れなかった。
沢登りは、本格的な道具を使う程ではないけれど、素人が登れば命の保証は無いと言う。
「それはつまり、危険なのではないの?」
「危ねえ。だからいいんだ。絶対に生き延びなきゃならねえ、絶対に帰って来なきゃならねえ、だから行くんだ。ただ危ないことをしたい訳じゃねえ。絶対に成し遂げなきゃいけねえから、やる価値があるんだ」
「同感だわ」
思わず口にしていた。
「お、気が合うな」
私の登山も、そうだから。
とは、まだ、言えなかったけれど。私は口に出した言葉以上に、だから一致を感じた。
主体性。
強烈な主体性。
私が目指したそれの獲得に、それが必要だと、私は思っている。念っている。
「灯理はどっから来たんだ?」
電車で一時間少し東の方から――そう口にしたところで、思い出した。慌ててカメラを取り出して、周囲の景色を撮影する。
「両親には、反対されていたから。最後には許して貰えたのだけど、定期的に連絡を入れなければならなくて……親の反対を押し切るなんて、おかしいかしら」
敢えて、口に出した。志弦さんがどう答えるのか、興味があったから。どこか千陽先生と似ている志弦さんが、どう答えるのかに。興味があったから。
「いいじゃねえか。どうしても来たかったんだろ?」
それは、期待通りで、期待通りだった。否定、曖昧、肯定。理性でのそれと違う、主体的な回答。
「昔なあ、どっかの世話焼きのオバサンが言ってたのさ。『誰かの言った通りにしてりゃあてめえの責任が軽くなるとでも思ってんのか』ってな」
その言葉に、胸が騒ぐ。
「素敵な言葉ね」
「後悔しても遅え。てめえがこうするべきだと思ったことは、そうするべきなのさ」
「私もそう思うわ」
今は――今の私なら、そう思うわ。
「おーおー、灯理とはなんだか気が合うな。旅は道連れ世は情け、ウマい湧き水があるんだ、飲みに行かねえか」
湧き水。そう言えば先生も、もっと上の方には湧き水がある、と仰っていたような。同じ湧き水なのだろうか。あの日先生と行けなかったところに、行けるのだろうか。
「そんなにきつくないところだから、大丈夫だと思うよ。志弦が登ってたようなところとは、全然違うから」
「そうなの。……じゃあ、ご一緒しても、宜しいかしら」
声を掛けてくれなくても、私の返事は決まっていたかも知れないけれど、香ちゃんの声が、私の喉を潤して、口を滑らかにしてくれた気がした。
「うん! 一緒にいこ」
香ちゃんは、どうしてこんなにも私を受け入れてくれるのだろう。まるで、初めて保健室を訪れた私を突然こんな山に連れ出してくれた千陽先生のよう。ただ受け入れるだけではないのだ。そこには、確かな主体性がある。
写真を送信して動画を撮ろうして、けれど一人でカメラに話し掛けるところを二人に見られるのもなんだか恥ずかしい気がして、まごまごしていたら。
「俺も映ろうか」
え?
「灯理ちゃんのお父さんとお母さんに、大丈夫だよって言うんなら、わたしも映るよ」
「そうそう、それこそあれだ、旅は道連れ世は情けだ。山で会った高校生二人と一緒に行動することになりましたーなんて言っても心配されちまうだろうけど、この山を知り尽くした二人なら話は別だろ? 丁度採って来た山菜がある、論より証拠だ」
「志弦だけじゃ却って危なっかしいけど、わたしがついてるから」
どうして。どうしてこんなにも、良くしてくれるのだ。
撮影が終わると雪環家に向けて送信。私達は歩き出した。お父様は会社の囲碁部で大会ですから、対局中なら返信は来ません。対局が終わって携帯を見て、驚かれるでしょうか。次の対局に悪い影響が出ないよう、遠くからですが祈っておきましょう。
それから十分ばかり日向を歩いた。片側は切り立った斜面で、片側は崖。傾斜も少しきつくて、私の脚は遅くなる。
香ちゃんが歩調を合わせてくれて、志弦さんも時々止まって待ってくれる。
「もし疲れちゃったら、お爺ちゃんの家で休んでってもいいし」
香ちゃんが、そんな風に言ってくれるから。疲れたことにして、休んでいってしまおうか。そうしたら、二人ともっと居られるではないか――なんて思った。
それからは一転日影に入って、気温こそ下がれど、じめじめとして蒸して来た。所々に大きな岩があり、足下にも石がごろごろとしていて。徐々に足場が悪くなって、私は時々香ちゃんの手を借りる。樹木が茂り、茸もあちこちに見える。緑の匂いが濃くなって、土の匂いも立ち込める。初めて嗅ぐ匂いがいくつもあって、息を吸うのが楽しかったのだけど。斜面や岩場を上り下りする内に、息が、上がって来て。大きな岩に手を突いて、止まってしまった私を見て、香ちゃんが志弦さんを呼び止めた。
「ごめんなさい。体力は、人並み以上にはあると、思っていたのだけれど……上り下りというのは、慣れて、いないからか、少し、息が上がってしまって」
「うん。少し、休もっか」
時々ヒグラシの鳴くそこで、耳を澄ますと水音が聞こえた。志弦さん曰く、湧き水の近くに流れる川の音なのだそう。途中途中で急勾配を落ちて、小さな滝のようになっているのだとか。それも、見てみたかったのですが。そんな欲張りを言えるような状態では、ありませんね。
少し落ち着いたところで立ち上がり、心配する香ちゃんににこりと笑い掛けて、私達は歩き出した。先行する志弦さんが足場を確かめて、邪魔な石を退けてくれる。香ちゃんが私の隣で、背中を支えてくれる。
切り立った斜面を曲がったら、ぴちゃぴちゃと。細い筒から透明な水が流れ出して、水質検査のお墨付き。ザックを降ろすとしゃがみ込む。
「大丈夫!?」
香ちゃんが湧き水をペットボトルに注いでくれたそれを、ごくごくと飲み干す。声が出る程美味しかった。
志弦さんは大きなペットボトルに四リットルも詰め込んで、それを背負って帰るらしい。帰ったら冷蔵庫で冷やしてから飲むのだそうだ。もっと美味しそうではないか。
お父様とお母様に、持って帰ったら――
得体の知れないエネルギーが湧いて出て、立ち上がる。
私も一本、お土産を作った。
同じ道で草原まで帰って、沢を下るのは私には危険ということで、私が登って来た道で下山することになった。途中、小さな川に差し掛かったところで、再び休憩を取る。午後五時、真っ昼間のそれと比べれば楽なものだけれど、それでも暑いものは暑い。相当に汗を掻いていて、その時、コミスジが私の腕に止まった。ホシミスジと模様はとても似ていて、ホシミスジより体は小さい。私の庭にもよく顔を見せ、地面でよく吸水している。滞在時間も長くて、小柄で可愛くて。香ちゃんと隣、飛び立つまで眺めていたのだけど。
「灯理ちゃん、着替えある?」
志弦さんが川原で石を積み上げて遊んでいるのですが、それには目もくれないまま、私に尋ねる香ちゃん。
「ええ、一式は」
元は、お昼を食べた後に人目の無さそうなところで着替えてしまう予定でしたので。
「シャワー浴びてく? お爺ちゃんの家、すぐそこだから。時間さえあれば……」
「時間は、まだあるのだけど。その、お家の方に了承など取らなくても、宜しいの?」
「うんうん。そのまま帰しちゃったら怒られるかも知れないくらい」
「そう、なの」
話を聞き付けたのか、積んでいた石が崩れてしまったからか、戻って来て志弦さんが言う。
「帰るか」
「はい」
やがて砂利で出来た駐車スペースまで帰って来て、坂を下り切って。香ちゃんのお爺様の家とは、坂のすぐ横にあった民家――森坂家だった。その前に立ち、裏にそびえる山を、私が今登って下りたその山を、眺めた。
門から敷地に入ったところで志弦さんと待っていると、香ちゃんに連れられて出迎えてくださったのは、白髪頭のご老人。
「ほお、お嬢さんが灯理さんか、こりゃまた別嬪さんだな」
「初めまして。お寛ぎのところに突然お邪魔してしまいまして申し訳ありません」
「はっはっは! 硬え硬え。今かーちゃんが家ん中片付けてるから、何もねえところだが、まあ庭でも畑でも眺めててくれ」
それだけ言うと、にこりと柔らかな笑みを残して戻られる。身体の線は太くないのだけれど、足腰がしっかりしていそうな方だった。
「灯理ちゃん、犬は大丈夫?」
「ええ。特に怖れてはいないし、アレルギーも無いわ」
「じゃあちょっと待っててね」
香ちゃんが早足で戻って、玄関を開けたかと思うと瞬く間に戻って来る。中型犬に追い抜かれながら。香ちゃんを追い抜いた犬が駆けて来て、志弦さんに飛び付くと頻りに尻尾を振る。
「一太、お客さんだ」
志弦さんに導かれて、一太が私の周りをくるくると回り始めた。やがて脚など臭いを嗅ぎ始めて、私を見上げて来る。しゃがみ込んで黒い背中を撫でたら、今度は手の臭いを一頻り嗅いでから、香ちゃんのところに帰って行った。ずっと尻尾を振っていて、ご機嫌なように見える。気に入って頂けたのでしょうか。顔の中央が白く、両側が黒く。白いお腹と黒い背中。地面を踏み締める足は、とても力強く見えます。ボーダーコリーというそう。 香ちゃんが被っていた帽子を器用に投げ飛ばすと、一太が空中でキャッチして届ける。とても楽しそうで、はしゃいでいる香ちゃん。ふと、投げた帽子が遠くまで飛んで行って、放物線を描いて落ちる。急加速した一太が飛び込んでキャッチ。帰って来た一太を抱き締めて褒める香ちゃん。見ているこちらまで楽しくなってきてしまいます。
志弦さんの投げ飛ばした帽子が一太に気付かれもせずぽとりと飛び石に落ちた時、お爺様が戸を開けてくださって、招かれた。
登山靴を脱いで玄関に上がって、この床は製材というのだったか。カーペットの敷かれた居間に通される。居間は雑然として、生活感に溢れていて。なんだか落ち着いた。
香ちゃんにお風呂場を案内されて、湯船に張られたそれを、勧められるままに頂いてしまう。さっぱりしてスポーツウェアに着替えると、透き通るような爽快感に包まれた。全身で疲れが吹き飛んだようなのだけれど、もう身体にエネルギーが残っていないようでもあった。
居間に戻ると、香ちゃんが食卓を拭いていて。
「あ、お風呂どうだった?」
「とても気持ち良かったわ。すっかり疲れも飛んでしまったみたい」
「良かった。あとね、言い忘れてたことがあるんだけど、ごはん食べてく?」
志弦さんが重ねた食器を運んで来る。
「トマトうめーぞー。トマトだけでも食ってけよ」
ト、トマト……!
坂を下っていった千陽先生は、すぐに戻って来た。そう遠くまでは行っていない筈だった。坂のすぐ横にあるこの森坂さん宅が野菜の販売など行っているならば。
「でも、流石にそこまでは」
「もしかして、おうちの人と食べることになってた?」
お父様は、大会が終わったらそのまま飲みに行かれるそうですが。お母様は、私の帰りを待っていることでしょう。夕食の席で私の話を聞くのを、楽しみにしている、と、思います。
まだ外は明るいけれど、午後六時を過ぎている。すぐにでも帰らなければ。残念がる香ちゃんに心が痛みましたが、台所に立つお爺様のところへと歩みを進めます。
「あの、森坂さん」
お風呂を頂いたお礼を言って、近い内にお返しすることを言って――頭の中を整理して、深く息を吸い、吐き出した――その時だった。
私の胃袋が独特の空気音を奏でた。慌てて腹部を押さえるも空しく、その音は響き渡った後。
「おう、食っていきなぇ」
「あっ、いえそのっ、今のは、そんなつもりでは」
「ん? 食って行かねえのか?」
再びの空気音。
「あ……」
「遠慮はすんなよ? 今日は多めに作ってっからな、灯理さんの分もちゃあんとある。それに、そんなに腹空かせてるのをそのまま帰す訳にゃあいかねえ。裏山登って来て疲れたんだろう? 志弦と香に付き合わされちゃあ都会暮らしのお嬢さんにはきつかろうて。今日はもうちいとばかし人が増えるが、構わねえかな。ガキ共が皆出て行っちまって、普段はかーちゃんと二人だから、賑やかな方がよくってな」
お爺様が話されている間、私の目はちらちらと……いえ、ちゃんとお爺様を見て話を聞いていたのですが、どうしても目を奪われてしまう赤い物が……俎板の、上に。
三度の空気音で、私は赤面を自覚した。
それから急いで電話して、お母様に事情を話した。呆れたような溜め息が聞こえて来て、
『電車の中でおなかを鳴らされても困るわね……全く、こんなことならおやつもしっかり持たせるのだったかしら』
と言われてしまったけれど。許しは、いただけました。
お風呂から上がってきた香ちゃんにご馳走になる旨を伝えると、とても喜んでくれた。そのまま泊まってっちゃいなよ、なんて言うから、そんなことは流石にありえないだろうと思ったのだけれど。初めてのことが沢山あった今日。予定外のことがあった今日。想定外のことが、これからも起こりそうな今日。それを終わりにしてしまうのは、なんだかもったいない気もしていた。ただの登山、ただの夕食でない、これが、旅になってしまってもいいのではないか。
やがて食卓の準備が整い、三人で並んで座る。テレビを点けてサッカーの試合が流れる。
とその時、玄関の戸の開く音がして、誰かが大きな荷物を床に置いた。
「おっすー」
それが私の知った声で、私の大好きな声だったから。刹那、私の全身で細胞という細胞が興奮し始める。
「あ、千陽さん」
香ちゃんの口にしたその名で、手に汗握る。
「おせーぞ千陽姉」
身体がぼわっと熱くなる。足音が近付いて来る。
「うるせー道が混んでたん……だよ……」
言いながら居間に顔を覗かせた先生が、私と見合ってぴたり。
早鐘を打つ心臓が、私に声を催促する。
「先生」
「先生?」「あ?」香ちゃんと志弦さんが驚いた居間で、先生がボストンバッグを床に落とす。
「なんで灯理が……こんな、とこに」
霧山千陽先生が、森坂家に、帰って来た。
ややあって、先生が安らかに笑う。再び荷物を手にして。
「ちょっと待ってろ」
保健室でそうした時のように、優しく去った。
二階に上った先生は、少しして下りて来て、居間で私の向かいに座る。先生がいない間、志弦さんと香ちゃんは落ち着いていて、何も言わなかった。目を見合わせたりはしていたけれど。
「さて……」
正座した先生が、私が初めて保健室を訪れたあの時のように、頬杖を突いた。
「そうだな、先ずはあたしのことから……単刀直入、ここはあたしの里親の家。あたしが四歳から十歳までを過ごした家だ。んで、そっちの可愛いのが香。嵐村香。ここのジジババの孫に当たる。んで、そっちのめんどくせぇのが霧山志弦。お姉ちゃんの息子だな。つまりあたしの甥っ子なんだが、何が何だか昔からよくわからん奴だ」
妙な紹介をされた志弦さんが、眉間をしわくちゃにして只ならぬ雑感を漂わせる。
「先生には、お姉様がいらっしゃるのでしたね」
今は先生が仕事着にされている白衣を、嘗てはクローゼットに大事そうに掛けていたのだという、お姉様。
「あぁ。あたしの十四個上にな。あたしが十歳になってからは、お姉ちゃんが結婚して構えた新居で一緒に暮らしてたんだ。志弦ともな」
一緒に暮らしていたのに、何が何だかよくわからないと仰る先生。まあ私にしたって、お父様のこともお母様のことも全然わかっていないのでしょうけれど。それとはきっと違う関係なのでしょう。もっと、わかり合っているような、そんな感じを受けます。
「んで、台所に立ってんのが、あたしの里親だ」
野菜を切る律動的な音が、どこか温もりを帯びて聞こえた。
時を刻む針の音が不規則に聞こえる程に、穏やかな空気が流れる居間で。
「あたしは高校まではお姉ちゃんの家で暮らしててな、香と志弦は幼馴染みで、まぁこれも訳あって小さい頃から一緒に居る時間が多かったから、あたしにとっちゃ香も姪っ子みたいなもんというか、妹みたいなもんというか……まぁ、みんな家族なんだな」
そこまで言って、先生の優しい目が、話してもいいのかと問い掛ける。
私は微笑む。
はい
「んで、こいつは灯理。雪環灯理。あたしの生徒だ」
「ユキワって、どういう字を書くの?」
というのが、香ちゃんの問いだった。説明して、香ちゃんの目がぱちくりするのを眺める。その向こうで志弦さんは、香ちゃんが何に驚いているのか分からない様子。サッカー以外ではテレビを見ないし、ニュースだってサッカーのそれにしか興味がないらしい。私にしてみればその方が気楽で。寧ろ、私のお父様がテレビに出ているのを何度か見ているらしい香ちゃんだけれど、どうもそれについては何か、あるようで。私はそちらの方が、気掛かりだった。
「わたしのお父さん、灯理ちゃんのお父さんが出てると、じっと見てるんだよね」
少し思い詰めるように言うのだけど、意中はわからないという香ちゃん。「変な話しちゃってごめんね」なんて笑って、皆のお茶碗にお茶を注いだ。誤魔化しの笑顔だったのだろうけれど、笑った香ちゃんが可愛くて、不思議と穏やかな気分になるのだった。なんだか、それが悪い兆しのようには思えなかったから。
それからすぐにお食事が運ばれてきて、夕食が始まった。志弦さんが大量に採って来たウワバミソウは、コーンと合わせたお漬け物と、ベーコンと合わせた炒め煮に変身。待ち望んだトマトは、冷やして甘酢で。夏の暑さに、この甘酸っぱさが嬉しい。裏山で採れたイチゴ類で作られたジャムも食べ比べ。甘みの強いクサイチゴはレモンを多めに、モミジイチゴはその上品な風味を、クマイチゴにはたっぷりと加糖して甘酸っぱさを強調。それらを、ご近所のパン屋さんのだという食パンに乗せて頂きました。おなかいっぱいになるまで食べても、まだパンに乗せる物があると仰る皆さん。
「明日の朝に頂きたいです」思わず言ってしまった。
「灯理ちゃん泊まってくの!?」「ようやくその気になったか。寝る場所なら空いてるぜ」
香ちゃんが目を輝かせ、志弦さんが早速算段を立てている。先生にしたって、
「おー、灯理、泊まってくのかー?」
なんて、呑気なものだ。ほんのり赤い頬は、晩酌によるものでしょうか。
「あ、今のはその、つい習慣的に」
「いいじゃんいいじゃん! もう夜遅いんだし!」「そうだな、女の夜道は危ないぞー」
「お嬢さんはまた別嬪だから気が気でねえや。泊まってけ泊まってけ」
「おい、あたしが高校生の頃なら夜でも平気で帰してたじゃねぇか。おい糞爺!」
「千陽さんはほら、……強そうだから。その、髪の毛も目立つし」
「高校生の頃はまだ黒かっただろ! あたしだって危ねぇから泊まってけとか言われてみたかったぞ!」
「言われても、千陽さんならそのまま帰っちゃいそうだけど……」
「そ、それとこれとは話が別だ! 香てめぇ乙女のくせに乙女心がわからんのか!」
もう私などそっちのけで盛り上がってしまう皆さん。とても、賑やかで。
「先生が髪を染められたのは、最近のことなのですか?」
私もそっちのけで、脱線してみた。
「ん? んー、大学の頃だ。いつだったか、明るめの茶髪に染めたダチが居たんだがな、『黒く染め直さないと教採落ちるわよ』って言って染め直させた教授が居たんだ。それがどうにも気に食わなくてなぁ、『あたしが金髪で教採通ってやるよ』ってなって、そのままだ」
な……
「ほんとかぁ? ガキの頃から蜂蜜が好きだったから、蜂になりたかったんじゃねえか?」
「んな訳あるか、どんな大学生だよ」
「千陽姉は不良だからな」
「不良じゃねぇよ。てめぇら言いたい放題か」
開いた口が塞がらない私。
そんな危険を、学生の頃から冒していたのですか、先生は。一歩間違えば人生を棒に振りかねない行為なのでは。いえ、私を裏山に連れ出したことなんて、その比ではないのでしょうけど。先生に出逢ったあの日から、聞けずにいたその答えは、余りにもあっさりと、私の心に打ち込まれた。保健室でお昼を食べる度、聞こうかどうしようかと心をざわつかせ、でも、そんなざわつきが高ぶりをくれるから、そのままでこの日常を楽しみたいと思っていた、その淡い金色は。私の心の中で、私の知らない色に輝き始めた。
「んで、どうすんだ灯理」
他の皆が千陽先生のことで盛り上がっているのを他所に、私がまだ先生の答えに唖然としているのを他所に、先生は私に問い掛けた。
「お母様に、電話を掛けてみます」
先生に優しい眼差しに、そっと立ち上がる。見上げる香ちゃんに、電話を掛けてくるわ、と残して、淡い金色を瞼の裏に浮かべながら今を出た。一緒に一太が出て来た。いいのだろうか。
玄関を出ると、静かだった。蝉が鳴き止んだだけで、物凄く静かだった。どこかからフクロウの鳴き声が聞こえた。暗い夜を、僅かな外灯と窓から漏れる光と、満月が照らしている。深い緑は微かな風に吹かれて葉擦れの音を低く轟かせる。一太が私の周りをくるくる回ってから庭に行った。電話を掛けると、十回ほど鳴ってから、お母様が出た。
あれから霧山先生がいらしたこと、お食事が終わったことなど、状況を伝える。そうしながら、どうやって切り出して、どう伝えようかと、必死で思案する。
『それで、お迎えの連絡?』
「……いえ」
これはきっと、世に言うわがままだ。けれど、食事の予定を破ってしまっただけでも気が咎めるのに、これ以上、どう伝えれば。
『霧山先生は、なんと仰っているの?』
泊まることについて、指針めいたことは言われていない。なんというか、手続き的な遣り取りは一切なかった。
『そう。まだそこに居たいのね』
え?
『いいわ、あの人には私から言っておくから。お邪魔してきなさい』
「宜しいのですか」
『私も嫁ぐ前には、友達の家に泊まって空が白むまで騒いだものよ。それを私だけは享受しておいて、あなたからは奪うようなこと、私には出来ないわ』
嗚呼――そうか――
「お母様、私は別に、朝まで騒いだりはしませんよ」
『あら、それは結構だこと。呉々も、失礼のないようにね。それから、明日の碁会に行くのなら、時間までに帰って来るのよ』
「はい。心得ております」
私を連れ出した山について、先生がお父様やお母様に隠し事などしている筈が無い。
ここがただの山でない、裏山であることくらい、先生だって話していた筈だ。
麓に、実家があることくらい。
裏山について、充分に知っていることくらい。
庭のようなそこだから、散歩に行くようなものだとでも、言ったかも知れないくらいに。
話していた筈なのだ。
いつの間にか玄関前に戻ってきていた一太と一緒に居間まで戻る。
「先生」
電話の向こうで、お母様がどんな心持ちだったのかが、少しずつ見えて来る。
「ん?」
お父様は、どう思われるだろうか。お母様はお父様に、何と仰るのだろうか。
「一晩、お世話になっても宜しいですか」
食卓に頬杖を突き、私を見上げる先生が、
「もちろんだ」
私のお茶碗に、急須を傾けた。
泊めて頂くことなった私は、あの日、私が体調を崩して保健室で寝かされ、目が覚めたら散歩に連れ出されたことを話した。香ちゃんも志弦さんも驚いていたのだけれど、
「驚くなんてもんじゃねえ、何が起こってんのかさっぱりだったぜ」
と興奮気味なのは森坂さん。平日の午前中、突然白衣で帰って来た先生がカメラを要求し、更にトマトを二つ収穫して行き、午後になって戻って来たかと思えば水を汲んで行き、それっきり。一部始終を語った森坂さんが反応を求めるも、ふんと鼻を鳴らしてそっぽの先生。
空になっているのを見て、先生の盃に注ぐ。
「灯理ちゃんうまいね! なんていうか、優雅……」
「何かと、こういう機会があるものだから」
まじまじと感心されてしまい照れ笑い。香ちゃんの要望で、即席の注ぎ方講座。
「うちの素っ頓狂にこぉんな優秀な生徒さんが居たとはなあ。千陽と来たら、あの後だってなぁんも言わねえで、『やっぱトマトうめぇな』って送ってきたっきりだ」
先生は頬杖を突いたままお酒をごくり、まるで意に介さない風で。
「守秘義務」
とだけ言って、またお酒をちびり。
「立派にやってるようで何よりだ」
呆れたように言う森坂さんに、先生はまた鼻をふんと鳴らして、
「ふぁ……はぁ……はふ」
大きなあくび。徐に立ち上がると、「シャワーだけ浴びてくらぁ」と、再びの大きなあくびと共に廊下へと消える。どこか先生らしい生活に見えた。
夫妻が台所に立つと、香ちゃんから質問が飛んで来た。
「ねね、千陽さんって学校ではどんな感じなの?」とか、「千陽さんってやっぱり囲碁強いの?」とか聞かれたから、私は
「千陽先生は普段はどんな感じなの?」とか、「千陽先生には囲碁以外のどんな趣味や特技があるの?」とか聞いてみた。
香ちゃんから返ってきた答えはこうだ。
「うーん……わたしには予想も付かないようなことを考えてるっていうか……でも、周りの人のことをちゃんとわかってるっていうか……基本的には、マイペースなんだけど」
次の質問にはこうだ。
「料理だよ! 小さい頃からわたしと志弦にごはん作ってくれてたりしたし、わたしが風邪引いた時とかおかゆ作ってくれてね、それがおいしいんだー」
違和感を抱いた私が、こう問い返す。
「香ちゃんの家まで作りに来てくれたの?」
「うん。うち父子家庭でね、お父さんが仕事で居ない時は、千陽さんが来て看病してくれたりしたんだ。そういう時は、スイッチが入るみたい」
さらっと返ってきた答えに、衝撃を受ける。
「お母様は……」
「わたしが四歳の時に、ね。遺伝性の癌だったみたいで」
「ごめんなさい、立ち入ったことを聞いてしまったかしら」
「ううん。もうそのことで悩んだりはしてないから、大丈夫だよ。由希枝さん――志弦のお母さんも、学校から帰ったら家に預かってくれたりしてね。家が二つあるみたいっていうか、家族が二つ繋がってるみたいだったから、寂しくなかったし。それにここにも――お爺ちゃんの家にも、よく来てたしね」
さらりと話してくれるから、私もすんなりと聞くことができた。
香ちゃんのお母様と志弦さんのお母様が学生時代からの友達で、家も近かったことから、二人が赤子の頃から家族同士で付き合いがあったのだそう。それが、香ちゃんのお母様に病気が見付かって、それも、大変な病気であることがすぐに分かったから、より強く繋がるようになった。幼稚園に行くのは志弦さんと一緒で、そのまま霧山家に帰り、香ちゃんのお父様が仕事から戻られると、嵐村家に帰る。帰る家が、二つあった。家族が二つ繋がっているようだった。その中に、千陽先生も居た。
今日知り合ったばかりなのにそんな話を聞いてしまって、どこか図々しかったのではないかと気になったのだけれど。
「灯理ちゃんと居ると、なんか話したくなっちゃって。灯理ちゃんが聞いてくれると、心がすっとするみたいで、なんか嬉しいんだ」
私は香ちゃんを、誰より大切にしようと思った。
だから私も、私の家のことを、少しずつ話した。身の回りのお世話をして下さる使用人の方々や専属の料理人が居る、という話の時には興奮気味だった香ちゃんだけれど、私の庭の話をしたら、凄く嬉しそうにしていた。
それから二階の大部屋に布団を敷いて、四人でトランプをして、ひょんなことから先生が香ちゃんをくすぐり始めて、香ちゃんが笑い転げてダウンして、私にも魔の手が飛んで来て、しばらく記憶がないのだけれど、香ちゃんと結託して先生を倒して、また二人して先生に倒されて、最後には避難していた志弦さんも戻ってきて、並んで眠った。




