ツケですか?
三
午後一時二十五分。私は雪環家の門を徒歩で出た。よく晴れた空を眺めながら、閑静な住宅街で十字路を折れる。大通りに出ると、車道の向こう側で緑が茂っている。公園だ。
歩道橋を渡って公園に入ると、アスファルトに照り返される歩道よりは幾分涼しいようだった。両側を高木に覆われた道を歩く。歩く。
散歩とは、これでいいのだろうか。
歩く。目的もなく歩く。道が続いているので、歩く。
ジョギングする人や樹上にカメラを向ける人を見ると何の目的もない私がなんだか間抜けにも思えて立ち止まる。立ち止まったところで目的が発生するではないけれど、それとなく高木を見上げて木漏れ日を手で避けた。
先生と山を歩いてから二月が経とうとしている。あの時は木陰に入るだけでひんやりとしたけれど、七月も半ばを過ぎれば真夏日が続く。風の少ない今日のような日中には立っているだけで汗が滲む。通気性の良い服を選びはしたけれど、暑いものは暑い。帰ったらシャワーを浴びよう。張り付いたシャツとの間にぱたぱたと風を送り込んで、私は再び歩きだす。
散歩。
散歩行くか。
夏休みに入ったから、次に先生と会えるのは随分先のことになる。だからというのではないけれど、私は先生がしてくださったことを反芻してみようと思った。
主体性。
強烈な主体性。
一応私は主体的に散歩に出た訳だけれど。今はまだ、それ以上の主体性は無い。学校から車で一時間の山に生徒を連れ出すような主体性など、遠く遠いだろう。何せ先生は、お父様とお母様に存在していた絶対的な優先順位を、たった一手で破壊してしまった。午後の仕事を全てキャンセルして帰宅したお父様とお母様は、玄関で私の帰りを待っていた。それが一体どれだけの影響を齎すのか、数値化さえ出来るであろうそれと天秤に掛けた上で、お父様とお母様は帰宅することを選んだ。私を出迎え、霧山先生と直接会って話をするということの価値が、それを上回ったのだ。きっとあの時教室に返されていたら、家に帰されていたら、病院に届けられていたら、そうはならなかっただろう。私が体調を崩しただけでは、そうはならなかったはずなのだ。そしてお父様とお母様は、先生を一瞥すると目を丸くしていた。その髪がどうしてそんな色に染められているのか、その眼に、どうしてそんな光が宿っているのか。そんな顔に見えた。先生は、出逢うだけで、雪環の長の目に自分の手を打ち込んでしまったのだ。一手。たった一手だ。――遠い――碁すら打たずに、碁を打つように生きてしまう――そんな先生になんて、私はとても届かない。こんな私では、とても先生の背中を捉えることが出来ない。けれど、朧気なその影が、薄らとではあっても見えているようにも思えて、のんびりと木々の間を歩いていると、先生と歩いた山での出来事が次から次へと思い出されてきて、私は近所の公園を歩いているのに、気分だけは山に、あの山に居るような気がしてきていた。
「苺を採りに行こう」
車に戻ると体操ジャージに着替え、私は先生と斜面に繰り出した。私が車中で着替えている間に先生が坂を下って調達して来た水の入ったペットボトルをザックに詰めて、コンビニもスーパーもすぐ近くには無かったのに一体どこで調達して来たのだろうという疑問を抱きながら、斜面で草を踏み分けた。
均された公園の道を行きながら、私は草を踏み分けるように脚を蹴り出していた。
「掴め」
差し出された手をぎゅっと握ったら、もう片方の手で木の幹を掴む先生に引き上げられた。落ちたらどうしようと、本当は怖かったのだけれど、先生の手が温かくてほっとしている内に一気に駆け上がっていた。
少しでもそうしたくなって、私は均された公園の道でも、花壇の上に続く坂道を選んだ。斜面を踏み締めると思い切り蹴り上げる。
「お、シカが来てるな」
先生が斜面を指差して言うから、私はそこを覗き込む。そこでは幾本もの細長い草が地面からしゅっと伸びて、私の膝丈くらいのところで先をぶら下げているのだけど。その一部は、まとめて刈り取られたように途中で千切れている。
「スゲが食われてる。こいつはシカの仕業だ」
「これが、シカの食痕なのですか?」
「切り口が斜めだろ? シカの下顎の歯ってのは半円状になってるから、こうして切り口が斜めになるんだ。つまりこの辺りの切り口から推察するに、シカはこっちから……こうやって、噛み付いたんだな」
手を口に見立ててパクリとやってみせた先生に、浮かんできたシカの映像が重なった。
「まあ。情景が浮かびます」
公園で草花を見るけれど、どれも綺麗な形を保っている。蝶の姿も見えない。
先生と山に行った翌日に保健室でデータを受け取った時、
「シジミチョウの他にも、蝶は来ますか?」
その一言で、先生のバタフライガーデン講座が始まったのだった。帰るとすぐに調べ始めて、お父様とお母様に直談判。さして庭には拘りが無いらしく快諾してくださった。庭師の方に相談しながら取り掛かると、あっという間に蝶はやって来た。卵が産まれ、幼虫が生まれ。私の庭は、あれよあれよと賑やかになったのだ。庭師の方もやり甲斐に満ちている風だったし、蝶が来るようになると、お母様もお父様もたまにそれを眺めているらしかった。
公園の花壇全体をよく見ると、ところどころで小さな蜂が飛んでいる。
苺を採りに行く途中にも蜂はいた。花があるところには蜂が来る、そういうものだとは理解出来ても、あちこちで羽音がしていると落ち着かなかった。でも、クマバチを前にして腰を抜かしてしまっただけでも気恥ずかしかったから、私は気丈に振る舞ったのだ。
「あれもハナバチやミツバチですか?」
「そうだなー」
「石は、投げませんよね?」
「ふふふっ。あいつらにゃ追い掛ける習性はねぇからな」
石を投げて遊べるのは、クマバチの雄。しかも繁殖期に限る。なんだか寂しい気もしますが。
あちこち見渡してはみましたが、クマバチはいません。先生によると、葉っぱが飛んで来ただけでも、チョウが飛んで来ても追い掛けてしまうのだとか(!)。
「ほら、あそこだ」
それからしばらく、時には獣道も使いながら進んで、先生が指差す先には生い茂る緑。最初は一粒しか見えませんでしたが、近付くに連れて緑に映える果実が次々に顔を覗かせます。一般の苺とは違う、これはクサイチゴというのだそうで。つぶつぶ感が印象的な外観です。
「山の中に自生しているというだけで、なんだか神秘的に見えます」
「同じもんをこの山の住民達も食ってるんだしな」
動物たちに食べられず残っていた分。山からのお裾分け、でしょうか。
収穫したクサイチゴを袋に仕舞うと、水で満たして丁寧に洗う。
濃厚な甘さと野性的な香りを思い出したら、またクサイチゴが食べたくなってしまったけれど。もう時期を過ぎているだろう。あれをまた味わうには、来年まで待たなければならない。
気付けば、私は公園を一周していた。更に気温が上がってきたように思う。じりじりと暑く、木陰のベンチに腰を下ろ――
「自然界に真理が無ければ、この世には絶望しかない」
それは絶望などという言葉が絶望的に似合わないような、軽い口調で放たれた。
一体どうしたらそんな言葉が出て来るのか――覗き見た横顔が、清流のような儚さで、私は目を奪われ、そして、少し逸らした。私の視線がそこにあるだけで、その横顔は崩れてしまいそうだったから。そこに微かな風でも吹けば、姿を変えてしまいそうだったから。静かに早まる鼓動さえ、その儚さの前では乱暴なように思えたから。
「そう思ったんだ」
空に似て晴れ晴れとした声で、そよそよと吹く柔らかな風が撫でられた。
――途端その場面がふっと思い出されて、私は誰も居ないベンチの隣を見遣っていた。
そうか。そうだった。先生は、千陽先生は、山が好きなだけではない。自然が好きなだけでは、なかった。私は矢庭に立ち上がり、足早に出口を目指す。大通りを目の前に、公園と歩道の境に立った。土とアスファルトの境に立った。自然と都会の境に立った。
高層マンションやオフィスビルが建ち並び、衣料品店や飲食店、コンビニエンスストアが軒を連ねる。行き交う車に反射した光で目が痛む。アスファルトが灼熱を照り返す。蝉の鳴き声が降り注ぎ、排気ガスが微かに臭った。
先生はこの世の、何に絶望しそうだったのだ。一体何に。いつ、絶望しそうだったのだ。何故、絶望しそうだったのだ。何処で、絶望しそうだったのだ。
あれから二ヶ月、私はそれを聞けないままだった。或いは先生と碁を打てば何かが見えるかも知れないと思っていたけれど、その見立ても甘かった。一局目こそ半目勝負だったけれど、二局目は先生の黒番で、大胆でスケールの大きな、それでいて随所に計算された勝利への道筋を感じる布石に上手く対処出来ず、途中で盛り返しはしたけれど、差をひっくり返せそうにはなかったから、私は投了した。私はまだ、全力を拝めてはいないのではないか。先生が力を抜いていると言うのではない。ただ、先生の、魂が滾るような、そんな相手では、私はない。
「先生の白衣は、山に似合いますね」
自然界に真理が無ければ――其れだって、私の軽く発したそんな一言が、きっかけだったのだから。
家に帰ると、シャワーを浴びて汗を流した。そして私は制服に着替え、三階の襖を開けたのだ。後から入室したお父様が、物珍しそうに目を見開く。
四年目。私とお父様の、二子局が始まった。
自然界に真理が無ければ、この世には絶望しかない
この世に絶望しそうだった時、千陽先生が見出した唯一つの活路、自然界。
自然界には、先生の求めた物が――
其れが無ければ生きてはいけない。先生の魂が渇望した、真理。
あるのだろうか。
先生は、あるとは言わなかった。
無ければ、ない――そうとしか、言わなかった。
清流のように儚げだった横顔がちらちらと浮かぶ。
そう思ったんだ……
そう思ったんだ
そう――――
十八目。疾うに勝利を確信していた私は、整地の済んだ盤上を眺め、その差を確かめた。
「強くなったな」
果たして私は、どうして二子で負け続けていたのか。特に苦しむこともなく大差で勝ってしまった今、三年半苦しんだその壁を、この勝ちを、私は呆気無くさえ思う。
「そう、でしょうか」
「面白い手を打つようになった」
「四手目のツケですか?」
「いや、どれというのではない」
四手目、私は左上隅の小目にツケた。千陽先生に打たれた、あの手だ。勿論事前に練った作戦通りに碁を運ぶ為だったのだけれど、お父様の驚く顔を見てみたいという単純な好奇心もあったことは否定出来ない。眼鏡の向こうで目を丸くしたお父様が思わず身を乗り出し、特注の眼鏡が少しずり落ちた時には、勝ったと思った。……何に勝ったのだろう。
しかしどれというのではないと言われてしまえば、他に面白い手を打った感触は私にはない。ただ、何かが吹っ切れたようで。盤が広く見えていた、かも知れないけれど。
片付けを終えると、立ち上がったお父様が去り際に言う。
「次は先で打とう」
え
今、なんと
襖の開く音で我に返り、その背中を追い掛ける。
「はいっ」
身を乗り出した私に振り返ることもなく、お父様は襖の向こうに消える。
静まった和室で一人、私は座布団の上に座り直し、碁盤にそっと手を掛ける。
どうやらお父様の言葉は、本心からのそれだったらしい。
私は強くなって。面白い手を、打つようになったらしい。呆気無い勝利だったのに、私の頬は緩んだ。盤の前で正座したまま、私は笑みを野放しにした。
休みが明けたら、保健室に行こう。
先生に勝利を、私の成長を報告しよう。
喜んでくださるだろうか。そのうち勝てるようになる――そう仰っていた先生は、どんな顔をなさるだろうか。
七月二十四日、夕刻。
窓を開けると、蝉の声が一際大きくなる。
しっとりとした風がさらりと吹き込む。
茜色の空と住宅街を眺めながら、私は余韻に浸っていた。
私とお父様の二子局が、終わった。




