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Step to Tomorrow  作者: 巣立最中
一章
2/20

逃れるには、死しかない

   一章   一


 負ける。どう打っても負ける。

 右上から右下、そして左下にまで繋がり、左上からも力を送る黒の勢力。中央は完全に黒の勢力圏になるはずだった。だったのに。

『十秒』

 どこか温もりの感じられる女声が私の秒を読み上げて、既に持ち時間を使い切っている私は二十秒未満に次の手を打たなければならない。というのに盤から目を背け、私は双眸の閉じた世界で時を烏鷺(うろ)を遡る。首を捻ると浮かぶ幾つかの局面で私の思いが駆け巡る。あの時はまだ形勢が良かったのではないか、あの時までは間違いなく順調に打ち進めていたではないかと。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだと。

『二十秒、一、二、三』

 わからない。

 私のなにが。

 何が間違っていたのだ。

『七、八』

 秒に追われ半ば爪先から放るような着手。力なく時計を押下して、私は溜め息を吐いた。息は熱く、沸き立ったまま全身を滾る赤いそれに中てられたようで、やり場のない感情を湛えてさえいる。空調の効いた涼しげな和室に居ながら、私は滲み出す汗に苛まれていた。

 序盤、黒は白に実利を与えつつもしっかりと外勢を築き、何れ起こるであろう戦いを有利に運べる筈だった。そうして、先に与えた実利に追い付き、追い越せる状態だった。布石を打ち終えた段階で、二子局(にしきょく)のリードははっきり保たれていた筈なのだ。だのにそこから、まるで夢でも見ていたかのように、気付いた時、黒の勢力は消えていた。

 夢を見ていた訳ではない。

 私が、ただ、弱いから。

 私が――私の主張のだけが、まるで相手にされていないかのようだった。こうなることが分かっていなかったのは、私だけだとでも、言うかのような。私だけが、こうなることを分かっていなかった。私だけが。私。私だけが。私だけが。

 これが、二十年前には学生タイトルを総なめしていた者の実力なのだろうか。

 否、そんな次元ではない。

 私が、ただ、弱いから。


 私が、弱いから


 盤面を見遣る度に溜め息が漏れる。私は弱い。私は負ける。私は私がこの碁に負けることを知っている。勝つ可能性が無いことを分かっている。それでも、負けたくない。私の放った手が否定される結末を迎えたくない。私の人格を否定される瞬間が嫌なのだ。絶対に無理なのだとどんなに分かっていても、まだ、投げる気になどなれない。嫌だ。勝ちたい。勝ちたかった。

『七、八、九』

 またも秒に追われ、私は右下隅に黒石を放った。もし白が手を抜けば次に右下隅の白を殺せるという手だから、白は絶対にそこに手を入れる。碁の焦点は中央だというのにまるで関係ない地点へのその着手は詰まり、一手を三十秒以内で打たなければならないというルールの中で、とりあえず着手をすることでその制約を一度は潜り抜け、これから中央に打つ手について新たに三十秒の考慮時間を稼ぐという手法――時間繋ぎだ。

 三十秒を稼いだところで、千秒を稼いだところで、革新的な一手など生まれようが無いということは、もう分かっているのだけれど。そうせずには、いられなかった。

 黒地(くろじ)は盤のあちこちに数目(すうもく)の地が点在していて、……合わせて三十七。まだ中央には黒地の付きそうなところがあるから、最終的には十目強の増加を見込みたい。

 一息吐いて白地(しろじ)を数え始める。左辺(さへん)上辺(じょうへん)に十五ずつは確定していて、左上に七、右辺(うへん)から右下を通って下辺(かへん)にまで入り込んでいる大石に五。中央に、十二。合計、五十四。

 更に白は、先程まで白への攻撃を担っていたはずの黒数子(すうし)を取り込まん勢いだ。助けようと思えば黒数子は助けられる。しかしそれを助け出せば一緒になって白石が中央に雪崩れ込んで来て、自然に中央の白と連絡し攻めを狙えなくなるどころか、増加を見込んでいた黒地さえ自然消滅する。

 私は一体、どれだけ弱いんだ。

 思わず項垂れそうになって、天井を見上げた。照明が目に飛び込んだけど、痛くなかった。照明と木目の綺麗な天井を少しの間眺めた。

 逆転の一手を探そうにも、その圧倒的な差は覆りようが無いということを、数字で示された瞬間だった。詰まり私には、四十台後半の黒地を確保するが白地が六十にまで伸びる図で負けるか、白地を五十台半ばに抑えるが黒地が三十台後半から伸びない図で負けるか、二つの敗北が用意されているだけだ。

 そんな盤にいくら向かったって、空しいだけだって、知っているけれど。

『六、七』

 パチン。

 食い付きたい。食らい付きたい。そんなにあっさりと土俵を割るような勝負ではなかったことくらい、この盤に刻みたいんだ。

 パチン。

 しかし白の着手は、私の想定を超えて、時間を繋いだことさえも後悔させるような厳しさを孕んでいた。逃れようが無い。二つの敗北が、一歩、また一歩と迫って来る。もっと早く負けを認めていれば、ここまで追い詰められずに負けられた、こんなに惨めな盤面に出会すことなどなかった、そんな風に悔いて、自分の手の置かれた、自分の腿を見詰めた。それさえも嫌になって、目を閉じて首を捻った。畳を見詰め、柱を見詰め、壁を見詰めて、冷静さを取り戻そうとする。

 この一局、私の思い描いた図は全て幻と消えた。何一つ思い通りには成らなかった。何一つ許されなかった。全ての主張が、否定された。

 私は盤に、何も表現出来なかった。

 詰まり。

 詰まり勝負になどなっていなかったのだ。

 そうなのだろうか。

 危機を感じさせることは、少しも出来なかったのだろうか。

 それでは、あんまりではないか

『三、四、五』

 初めて二子で打った、数年前のあの日から。私は、少しも進歩していないのだろうか。

 私はまた、私の碁を打てなかったのだろうか。


 私では、駄目なのか。


 私では、お父様には敵わないのか


 盤の向こう、ワイシャツを僅かに視界に捉えた。

 項垂れるように頭を下げ、碁笥(ごけ)の蓋からアゲハマを掬い取ると、静かに盤上へと投じる。

『九、十。時間切れです』

 投了を知る術の無い機械の命令通りの動作が鬱陶しかった。だったら対局時計を止めればよかったじゃないかと、容赦の無い現実が無情に告げて来る。でも、しょうがないじゃない。苦しくて辛くて、私にはそれが出来なかったのだから。石を投げるだけで、精一杯だったんだ。こういう時に一体どうなれば気持ちの整理が出来るのか、同じような気分を幾度となく味わっているというのに、私は未だにその片鱗すら掴めないで居る。私の人格が、私という人格の全てが否定されたようで、未だ沸き立つ血液は灼熱地獄を連想させて来る。それは私の全身を駆け巡り、逃れることを許さない。逃れるには、死しかないのだ。

「負けました」

 口でそう言って置かなければ私が私でなくなりそうだったから、私はそう放した。でもそうしたらそうしたで、そんなことは口にしたくなかったのにどうして認めてしまったのだと、黒々とした靄が込み上げて来て止まない。ぼうっとしていればそのまま地獄に迷い込んでしまいそうな憎悪の(もや)を、振り払うように息を吐いた。

 僅かに顔を上げて盤を見て、果たしてこれが今打った碁なのか、わからなくなった。こんな碁を打ったおぼえはない。こんなところに打った? なんで。この石は何だ。何に迷い込んだらこんなところに石が行くんだ。

 私は一体この二時間、何をしていたんだ……。

 何をどうすればいいのかなど、終始わかっていなかった。盤に残されたのは、空しささえ覚える黒の投了図だった。

「迷いでもあるのか」

 四月二十四日、午後六時二十二分。細く射していた茜色の光が地平線の彼方から消える。

「いえ……」

 雪環家三階の特別対局室で、熱を失い始めた身体が空調に冷える。上座からの問い掛けに否認した私を耳鳴りが一撃すると、結んだ唇の奥で奥歯がギリリと音を立て、目を瞑った先で鼻がつんとした。




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