五十音掌編 「せ」
完結からしばらく後、セファイドとクシュナウーズの話。
【背丈と器量】
せちがらい国に来たもんだ。
小さく舌打ちして、セファイドはいまいましげに手の中の紙切れを睨んだ。
確かにカネは入るようになった、立派な部屋に寝心地のいいベッド、美味い食い物と酒もある。だがどうだ、女房子供に会うこともままならない上に、何をするにも『許可』がいる、『文書』がいる。読み書きの出来ないよそ者に対する嫌がらせとしか思えない。
ああしかも、お許しを請わねばならない相手は、貧相な小男ときたもんだ!
セファイドは天を仰いで故郷の神に祈り、苛立ちを隠しもせず、大股に西棟へと歩いて行った。件の小男は殆どの時間を港で忙しくしているか、暇なら磯で釣り糸を垂れているのだが、今はそのどちらでもないと分かっている。
なぜか。先刻、城下町の楽器屋が配達に来たからだ。風采の上がらない小男のくせに芸術家気取りとは、笑わせる。
セファイドは無理に嘲笑を浮かべたが、結局すぐに、いまいましげに口をひん曲げた。あの男のことを考えるだけで苛々が募る。
(背丈も低けりゃ、器も小さいってわけだ)
むっつりとそう考えながら、彼はひとつの部屋の前で立ち止まった。直属の上司、海軍元帥クシュナウーズ閣下の私室である。
正直、顔を合わせたくはない。相手だって同じだろう、いつだってセファイドの顔を見ると不機嫌になるのだから。その豹変ぶりは、何か個人的な恨みでもあるとしか思えなかった。あるいは生理的嫌悪感、いわゆる“虫が好かない”というやつか。とにかくセファイドにしてみれば身に覚えのない、理不尽な仕打ちであった。むろん、好かれたいなどとは毫も思わないので(寒気がする!)、お互い様と言えばそれまでだが。
「…………はぁ」
深いため息をつき、セファイドは諦めてノックしようと手を上げた。フナムシやアメフラシより嫌いな相手でも、その印章を貰わないことには仕送りさえ出来ないのだ。
「……?」
と。室内からこぼれてきた五弦琴の音に気付き、セファイドは手を止めた。知っている。この曲は、故郷の歌ではないか。
そろっ、とセファイドは中を覗き見た。目隠しの衝立が邪魔だ。懐かしい調べはその向こうから流れてくる。
セファイドを毛嫌いしている男が、その故郷の歌を弾くとは思えない。誰か島の者が訪ねて来たのだろうか。もしや、何か便りを携えて来たりは?
望みを抱いて、セファイドはこっそり部屋へ入った。そして、衝立の陰から首を伸ばす。だが、そこにはいまいましい小男一人しかいなかった。
ぼんやりと窓の外を眺めたまま、楽譜を見るでもなく、ぱらぱらと雨垂れのように爪弾いている。うろ覚えの旋律を確かめるように。実際、セファイドの知るものとは、あちこちが微妙に違っていた。全体に哀調を帯び、流れが緩やかだ。
セファイドは無意識に、口の中で旋律を追っていたらしい。自分でも予期しない小さな声が漏れ、ぎょっとして我に返った。同時にクシュナウーズも、はっと顔を上げる。
刹那、その表情がひどく無防備に見えた。が、錯覚かと瞬きする間もなく、いつもの――否、いつもに輪をかけて、苦々しい不機嫌面に変わる。
何の用だ、と問いもせず、クシュナウーズは黙って文机に向かい、印章を取り出すと、投げて寄越した。
「勝手に捺せ」
「…………」
直前の状況がなければ、噴火していただろう。だがセファイドは、いつもの嫌悪感を抱きながらも、不可思議な気分で相手を見つめていた。
「なんであんたが、その歌を知ってる?」
応えはない。感情を隠した無機質な視線だけが返って来る。
「俺たちの歌だ」
セファイドは居心地の悪さに身じろぎし、ぼそぼそとそう言い足した。するとクシュナウーズは、ふと意地の悪い笑みを閃かせた。
「知らねえってのは無邪気なもんだな」
「なに?」
「あれは元々おまえらのもんじゃねえ。おまえの先祖が、他人から奪い取ったもんだ。おまえらの……」
語調が荒れかけたところで、不意にクシュナウーズは言葉を飲み込んだ。そして、小さく首を振って、深いため息をつく。それきり彼が黙ってしまったので、セファイドは戸惑い、うつむいた。
知らなかった。いや、自分たちが海を渡る民の子孫であり、今の住処に移ってきたのも、ほんの数世代前のことだとは知っていた。だが、少なくとも……自分達は“本物”だ、と思っていた。
手の中で印章を転がすと、てのひらに薄くインクがつく。その印影が、今は己自身に思えた。何かは知らないが“本体”によって捺された、ただの影にすぎないもの。
「……あんたの故郷の歌か」
だから俺を毛嫌いするのか、とまでは口にしなかったが、言いたい事は伝わったらしい。クシュナウーズはとぼけて肩を竦めた。
「今は何処にもない国の、忘れられた民の歌だ。それより、用があるのはその印章だろう」
「ああ」
ほかに何とも言うことが出来ず、セファイドは曖昧にうなずく。と、クシュナウーズは予想外の言葉を続けた。
「持って行け」
「あぁ?」
上官に対してする返事ではない。だが、出てしまったものは今更ひっこめられなかった。クシュナウーズが冷ややかな目をくれる。
「よく見ろ。そいつは元帥印じゃねえ。今さっき彫り師から届いたとこだ」
言われててのひらについた印影をよく見ると、文字は読めないが、確かに見慣れたものと模様が違う。インクがついたのは、試しに捺してみたばかりだったからか。
「後で正式に辞令を出すが、おまえにアルハンの船団を任せるからな。その印章だ」
「俺が? アルハンの?」
セファイドはぽかんとして、馬鹿のように繰り返す。
「そうだ。デニスのあっち側の海に関しちゃ、おまえは玄人だろう。イフトールも近いこったし、仕送りの手数もかからねえってもんだ」
「…………」
セファイドは呆気に取られ、何も言えずに立ち尽くした。だがその顔は正直に、困惑と喜びとを浮かべていたのだろう。クシュナウーズが「勘違いするな」と渋面になった。
「俺もいい加減、あちこち飛び回るのにうんざりしてるんだ。幸いおまえはマトモに仕事が出来る。だからアルハンにやっときゃ、不愉快な面を見なくて済んで一石二鳥ってわけだ」
むさくるしい野郎なんざ喜ばせたって嬉しかねえ、といまいましげに付け足す口調の、妙に白々しいこと。セファイドは思わずにやにやした。
「ありがとよ。俺もあんたについてひとつ訂正しておこう。背は小せえが、器は案外でかいようだ」
「余計な世話だ」
言い返したクシュナウーズの口元には、苦笑が浮かんでいた。苦味も本物だが、しかし同時に温かみも備えた笑みが。
セファイドはそれ以上踏み込むのはやめて、からかうように、しかし敬意をこめて一礼すると、くるりと背を向けた。部屋を出かけたところで、さりげない言葉がかけられた。
「向こうに着いたら、家族に会いに行け」
無造作を装った声には、思いやりと痛みが滲み出ている。それは多分、背中に向けて言うからこそ出たものだろう。だからセファイドは、振り向かずに
「ああ」
と、短く一言だけ答えた。――それもまた、顔を見ないからこその声で。
(終)
小男、と連発されていますが、実際はクシュナウーズは172~3cmあります。
セファイド基準で小男ってことで。
スクードラ人男性はだいたい180~190cmあり、体格もゴツイです。
クシュナウーズは身長もさながら、どちらかと言うと華奢な方なので、
セファイドから見ると実際以上に小さく感じられるのでしょう。




