五十音掌編 「し」
三部のちょっとしたネタバレ有。
報われない隼殿と片恋相手のその後。
【招待状】
心頭滅却。
その四文字を今ほど切実に必要としたことはなかったろう。シャーヒーンは上質の羊皮紙を片手に、波立つ感情を必死で抑えていた。
慶事のしるしである白いリボンをかけた信書が、ニーサからアレイア領主の名で届けられた時点で、その内容については覚悟していた。だが、やはりこうして目の当たりにすると動揺を禁じえない。
(平常心、平常心、落ち着け……!)
それは、アレイア領主ゾピュロス卿の結婚式への招待状だった。花嫁は麗しき黒髪の美女、シーリーン。あろうことか、卿の養女である。そしてまた、シャーヒーンが密かに想いを寄せる相手でもあった。 ……あんまり密かに過ぎて、相手には全く気付かれていなかったが。
(分かっていたことだ、あの時から)
あの時――ティリス王宮が落ちた時、シャーヒーンは彼女を守って戦った。しかし感謝の抱擁は、目の前で別の男に奪われてしまったのだ。いともあっけなく、彼の存在など全く無視して。
シャーヒーンは深いため息をつき、もう一度、落ち着いて文面を見直した。
丁寧な字は書記のものか、あるいはもしかしたら、ゾピュロス本人のものかも知れなかった。何しろ、花嫁の恩人としてシャーヒーンを招きながらも、遠方のこととてご来駕かなわぬとは承知の上ながら、などと断りを入れている。欠席されても無礼には思わぬから安心しろ、という、いささか滑稽な気遣いが見え隠れしていた。
シャーヒーンは自嘲に口元を歪め、苦々しい思いで文字を追う。ゾピュロスは、花嫁に近付く虫に気付きながらも、所詮敵になりえないと承知しているのだ。シーリーンの眼中には、養父にして花婿である彼ただ一人しかいない、と。
どうにか最後まで読み通しただけで、シャーヒーンはぐったり疲れてしまった。返事を書く気力がない。
書記を呼んで、丁重に祝辞と欠席の意をしたためさせようとしたところで、呼びもしないのに一人の部下が入って来た。
「シャーヒーン殿、宜しいですか」
長年苦楽を共にした相棒であるだけに、言葉だけは丁寧なものの、態度には遠慮がない。シャーヒーンは頭を抱えて突っ伏したくなった。
「そういう台詞は、入室前に言え」
「おや、何か不都合でも? ほう、これは……」
とぼけて言うや、部下はひょいと招待状を取り上げる。
返せ、とシャーヒーンは言いさしたまま、結局、諦めてため息だけを吐き出した。数年分一気に老け込んだかに見える上司の前で、部下はつくづくと書面を眺め、一言。
「とどめを刺されましたなぁ」
「………………たった今、おまえにな」
応じた声は奈落の底から響くかのように虚ろだった。
その頃、アレイア領ニーサの館では。
「さて、これで招待状は最後……っと」
にこにこと上機嫌で言いながら、シーリーンが封蝋に印章を捺す。遠方の客から順に送り、今やっと、市内の名士たちへの招待状をしたため終えたわけである。
何しろ、養父と養女の結婚である。もう随分前から、シーリーンが養父一筋であることはニーサ市民の間で公然の秘密になっていたが、それでもいざとなると口さがない連中が出てくるものだ。そういう者たちを黙らせるためにも、市民への大盤振る舞いが必要だった。
「出し忘れはないかしら?……あ、ゾピュロス様、そういえばシャーヒーン卿には……」
「うむ。もう届いておる頃だろう」
「そうですか」シーリーンはほっと笑みを広げた。「招待状書きなど、私と書記でやりましたのに。どうしてあの一通だけゾピュロス様がしたためられたのか、分かりませんけれど……万が一、忘れられていたらどうしようかと不安でしたわ。ごめんなさい」
くすくす笑いながら謝られ、ゾピュロスは「いや」とも「うむ」ともつかない、妙な返事をした。
なにしろゾピュロスときたら、ごくたまにではあるが、その風貌からは到底信じかねるほど間の抜けた失敗をやらかした前科があるのだ。花婿となることが決まって以来の落ち着かない様子を見れば、招待状ひとつ満足に出せないかも、と疑われても仕方がない。
「命の恩人ですものね。カルマナ領主になられてご多忙のようですけれど、是非ともおいで頂きとうございますわ」
「………………」
「ああ、そういえばあの時、ゾピュロス様ったら危うくシャーヒーン卿を手にかけるところでしたわね。もしかして、招待状にかこつけて今頃お詫びでもなさったのかしら?」
シーリーンはくすくす笑いながら、全く悪気なく養父をからかう。ゾピュロスはそんな養女の楽しげな表情を見やり、遠いカルマナの空の下を思いやって同情した。
もし、シーリーンの筆跡で「是非ともおいで頂きたく」などと書かれていたら、あの気の毒な男は万難を排してもやって来るだろう。自らの胸に剣を突き立てるも同然の場であるというのに。
「不謹慎ですけれど、あの時私、本当に嬉しゅうございましたわ。ゾピュロス様が助けに来て下さるなんて、夢のようで」
頬を染めて思い出話をするシーリーンの口からは、最前話題にしたばかりのシャーヒーンの名すら、もはや出てこない。
ゾピュロスは嬉しいような、困ったような、複雑な気分で、ただ黙って瞬きをしたのだった。
(終)




