夏掌編 【エンリル】 ◆
「夏といえばこの人」アンケ1位のSS。2部終盤のネタバレ有。
「客が入らない?」
ごてごての婉曲表現をいともたやすく粉砕し、皇帝陛下は単純至極な要点を修辞の海から拾い上げた。その視線の先にいる陳情者は、「はあ」と曖昧に応じて額の汗を拭く。
失礼のないように、ご機嫌を損ねないようにと、心血注いで十重二十重にくるんで差し出したものを、剥き身で投げ返されたのでは無理もない。
加えて実際、室内も暑かった。
ラガエ総督府は湿度の高いエラードの夏に対応して、防犯上どうかと思われるほど風通しの良いつくりになっているが、それでも今年は、真昼の数刻、仕事にならぬほどの蒸し暑さだ。
街では店も客もすっかりうだって活動停止に陥っているが、多忙なデニス皇帝エンリルは右に倣うわけにもゆかず、不運な召使に扇がせながらの執務である。七面倒に回りくどい話を続ける気分でなくとも当然なのだが、そんな皇帝を相手にする方は、別種の汗をかくはめになっていた。
「ターケ・ラウシールは営利目的の組織ではない。客と言うのもおかしいが、来ぬから困るというのは、さらに解せぬな」
エンリルが眉を寄せたもので、相手は縮こまってしまった。その非営利組織の職員であるしるしに、青い縁取りをした長衣をまとっているが、今は大きな袖で顔を隠してしまいたいとばかりの風情である。エンリルはやれやれとため息をついた。
「そう萎縮するな。そなたを咎めておるのではない。運営上の理由でさらに資金が必要だというのならば簡単な話だが、客が来ぬと訴えられても、事情が分からぬのだがな」
「はっ、も、申し訳ございません!」
「謝罪は良い。具体的に、何がどうして困っておるのか申せ」
簡潔にな、と言い添えられ、男は恐縮しながら窮状を説明した。
――いわく。
この夏はひときわ暑く、ために、人々の活力もすっかり低下してしまった。少々のことでは、具合が悪くともターケ・ラウシールまでやって来ない。
ために、性質の悪い伝染性の下痢が一部で広まってしまい、街の一区画を封鎖せねばならぬほどの騒ぎになった。早めに治療に訪れてもらわねば被害が拡大するし、来てくれなければ衛生上の指導をすることも出来ない。広場で叫んだところで、この暑さでは誰も注意して聞いてくれないのだ。
それだけでなく、『客』というのはおかしいとエンリルは言ったが、実際のところ金銭的な問題もある。基本的にターケ・ラウシールの資金源は富裕層からの寄付であり、治療費はほとんど取っていないのだが、それでも、世話になった者はなにがしかの謝礼を寄越すものだ。現金でなくとも、物、あるいは奉仕という形で。
国や貴族からの寄付に比べればごくわずかでも、無視できる割合ではないのであった。
「そうでなくとも、夏は客……いえ、来訪者の数が落ち込むものですが、今年は特に……」
汗を拭き拭き言った男に、エンリルは苦い顔をした。そうでなくとも夏は人の足が遠のく、その理由を知っているからだ。小さく舌打ちし、独白した。
「まだ恐れがあるのか」
ラガエ市民にとって、夏は旧王国の終焉を思い出させる季節であった。すなわち、あの、都の中心部を消し去った大崩壊の夜を。
現在では表向き、大崩壊は腐敗したマデュエス王とその取り巻きどもを一掃し、民を救ったのだ、とされている。ラガエ市民はそれを否定してはいないし、ラウシールを――ひいては皇帝を、『侵略者』『破壊者』とみなす勢力は皆無と言って良いだろう。むしろ『解放者』として、積極的に受け容れている。
だが、だからとて温かな感情を抱くまでには至らない。ほとんどの土地で優しく寛容な救い主とされるラウシールも、このラガエでだけは、堕落した街に天罰を下した畏怖すべき存在、なのであった。
ゆえにターケ・ラウシールの活動も、魔術師という特異な存在も、ここではなかなか浸透しない。それを以前からエンリルは歯痒く思っていたのだった。
「ふむ……」
何か良い手はないか、と頬杖をついて唸る。そうする間にも、じんわりと汗が浮かんでくるものだから、落ち着いて考え事も出来ない。エンリルは苛々し、里帰りと称して高地へ避暑している妻を少しばかり恨めしく思った。
(せめてここがティリスであったら)
乾いた気候ゆえ、頑丈な石造りに厚く漆喰を塗った王宮の中へ逃げ込めばかなり涼しいし、何より、真夏になるまで持ちこたえる氷室がある。今年は流石にもう空になっているかも知れないが……
(……氷?)
待てよ、とエンリルは頬杖を外し、青褐色の目をしばたたいた。
「夏なればこそ、人を集められるやも知れぬぞ」
我ながら妙案を思いつき、彼はにっこりと極上の笑顔を見せたのだった。
数日後、ラガエの多くの家庭で似たような光景が見られた。
「お母さん、お碗! お碗とお匙!!」
「まあ、何なのいきなり。何の騒ぎ」
「いいから、お碗ちょうだい! ラウシール様んとこ行ったら、氷もらえるの!!」
「はぁ!?」
半信半疑ながらも、お得情報に弱い主婦が、子供に急かされてターケ・ラウシールへと向かう。すると驚いたことに、子供の言った通りなのであった。
建物のホールに即席の屋台が出現し、市民が持参した容器に次々と気前良く、砕いた氷らしき白いものを盛っている。屋台に並んだ壺には各種の果汁や蜜の類が入れられ、人々は好きなものを選んでかけていた。
この暑いのに、どこから氷が?
訝りながらも新参者は列の後尾に並ぶ。やがて自分の順が来ると、さらに信じられないものを目にして絶句するのだった。
なんと、屋台の奥に大きな釜がでんと控え、にわか店員と化した職員は、そこから白いものをすくって客によそっていた。釜の表面は露でびっしょりだ。その滴り落ちる床には、不可思議な模様が描かれている。
「はい次の方ー!」
呼ばれて客が器を差し出すと、普段は薬草園の世話をしている職員が、白いものを山と盛る。受け取った客は大抵、目を丸くして叫ぶのだった。
「雪!? どこから!」
「本当だ、すっげえ!」
「まあ、どうやってここまで!?」
等々、大人も子供も大興奮である。職員達はにこにこしながら、魔術ですよ、と応じ、それでも不思議そうな人々に、しばらく待っていたら分かります、と言い足した。
ややあって釜に残っているのが水ばかりになってしまうと、屋台の後ろに控えていた長衣姿の銀髪の少女が、すっと立ち上がって何やら呪文を唱えた。刹那、床に描かれた転移陣が光り、釜がその場からかき消える。
初めて見る客がどよめき、既に何度も見物した客も、面白そうに顔を輝かせた。しばらく間があって、次に釜が姿を現した時には、また雪で満杯になっていた。わっと歓声が上がり、拍手まで起こる。
「おおお~~!! すっげえぇー!!」
「まほうだ、まほうだー! お母さん、おかわりしてきていい?」
「また? しょうがないわね、少しにするのよ」
氷菓もさながら、釜が消えてまた現れるという出し物に、客は大喜び。ひときわ騒がしくなったホールを見渡し、銀髪の魔術師はやれやれと肩を竦めて再び後ろにひっこんだ。
「まったく、何をやらされるやら分かりませんね」
ぼやいた少女の横で、皇帝陛下が自分の雪をシャクシャクと食べている。見られても正体がばれないように、昔のような麻の平服だが、そんな格好だとまるで田舎の子供がそのまんま大きくなったような風情だった。
「市民も喜ぶ、ラウシールの受けも良くなる、人も集まる。一石三鳥ではないか。そなたら魔術師にとっても、悪い話ではなかろうに。違うか、アミュティス?」
「高地の山のてっぺんで雪を集めるために待機している、気の毒な何人かを除けばね」
「涼しくて良かろう」
「だったら陛下、交代に行かれては?」
「余は他人の楽しみを奪うほど狭量ではないぞ」
しらっと受け流し、エンリルはこっそり後ろから雪のお代わりを取る。アミュティスは呆れて頭を振った。
「そんなに一度に召し上がっては、おなかを壊しますよ」
「その時は、ここで薬湯でも頂戴するとしよう」
右端の果汁を試してからな、と子供のようなことを言って笑う。まるきり屈託のないその笑顔を見ていると、アミュティスはつい、考えてはならないことを考えてしまうのだった。
「陛下……もしかして、」
「うん?」
匙をくわえて振り返った皇帝陛下に、アミュティスは胡乱げな半眼になり、言葉の後半を飲み込んだ。
「失礼。なんでもありません」
(訊くまでもないか)
単に自分が食べたかっただけなんじゃありませんか、などと。
「…………はぁぁ……」
ため息をつき、ホールの壁に描かれたラウシール様の肖像を見上げる。その麗しい顔がこちらを振り向いて、記憶にある柔らかな苦笑を浮かべたように思えたのは、誰かに同情してほしいという願望ゆえだろうか。
アミュティスはもう一度、小さく頭を振ると、諦めて自分も雪を食べることにしたのだった。
(終)




