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第1話:死亡フラグと推しへの愛

ガシャンッ!


深夜の静寂を切り裂くような鋭い音を立てて、手から滑り落ちた豪奢な銀細工の手鏡が、冷たい石の床で無惨に砕け散った。

粉々になった鏡の破片が、高い窓から差し込む青白い月光を反射して、きらきらと冷たい光を放っている。

しかし、今の私にはそんな光景はどうでもよかった。床に散らばる高価な鏡よりも、自分の頭の中に流れ込んできた途方もない情報量の処理に追われていたのだ。


「……思い、出した……っ!」


砕けた鏡の一番大きな破片に映り込んでいるのは、見知らぬ、いや、前世の記憶を通してよく知っている、意地悪そうに吊り上がった目を持つ美女。

プラチナブロンドの髪を美しく結い上げた彼女の名前は、リリアーナ・フォン・フェルゼン。

領地経営に失敗し、今にも没落寸前の崖っぷちに立たされている伯爵令嬢、二十歳。


それが、今の私だ。


そして、私の前世は――現代日本で働く、ごく普通の、いや、少々異常なほどの情熱を持った保育士だった。


「まさか、転生なんて非科学的な現象が本当に起こるなんて……」


前世の私は、児童心理学の専門書を何十冊も読み漁り、夜な夜な子供たちが喜ぶフェルト製の手作りおもちゃを徹夜で縫い上げ、アレルギー対応かつ栄養満点の給食の献立を考えるのが大好きな人間だった。

子供の満面の笑顔のためなら、自分の睡眠時間やプライベートな時間など喜んでドブに捨てられる、筋金入りの保育オタク。

休日の息抜きといえば、ファンタジー世界を舞台にした女性向けの乙女ゲームをプレイすることくらい。


「ここ、生前徹夜でコンプリートした乙女ゲーム『ロイヤル・ラブ・マジック』の世界じゃない……!」


前世の記憶と、リリアーナとしての二十年間の記憶が、パズルのピースのようにカチリと音を立てて噛み合っていく。

明日、私は政略結婚をする。没落しかけた実家の膨大な借金を肩代わりしてもらう代わりに、王国で最も権力を持つ公爵家へと「身売り」同然で嫁ぐのだ。


相手は「氷の公爵」の異名で恐れられる冷酷無比な宰相、アレクシス・フォン・ローゼンタール(二十五歳)。

誰もが振り返る超美形だが、仕事以外に全く興味を示さない超ワーカホリック。さらに、過去のトラウマから深刻な女性不信を抱えている、プレイヤー泣かせの攻略難易度ルナティックのキャラクターだ。


そして何より私の運命を決定づける重要な事実が一つある。

彼には先妻との間に生まれた、今年で三歳になる息子がいるということ。

名前はノア。


「待って……私、ノアの『悪役継母』なの!?」


サーッと、全身の血の気が引いていくのがわかった。足から力が抜け、冷たい床にへたり込んでしまう。

原作ゲームのノアは、父親であるアレクシスからの完全な無関心と、屋敷の使用人たちからの陰湿なネグレクトや虐待によって、深刻な愛情飢餓に陥る。

その結果、彼の中に眠る強大すぎる魔力が黒く濁って暴走し、やがて世界を恐怖のどん底に陥れる『魔王』へと変貌してしまうのだ。


そして、魔王として覚醒した成長後のノアが、真っ先に血祭りにあげる人物。

それが……幼い頃に自分をネグレクトし、さらに言葉の暴力を浴びせて虐げた張本人である悪役継母の私、リリアーナだ。


『僕を愛さなかったお前たちに、生きる価値などない』

そんな冷たいセリフと共に、暗黒魔法で継母を惨殺するルート。

それがこのゲームにおいて、プレイヤーたちに最も深いトラウマを植え付けたバッドエンドだった。


確定された死亡フラグ。

どんな選択肢を選んでも辿り着いてしまう、回避不能のバッドエンド。


「うそでしょ……私、数年後に八つ裂きにされて殺されるの……? 痛いのは嫌、絶対に嫌ぁぁっ!」


恐怖と絶望でガタガタと震え、両手で顔を覆い隠そうとした、その時。

ふと、視界の端、マホガニー製の書斎デスクの上に置かれた一枚の紙が映った。

それは、明日の結婚式の誓約書に同封されていた、ローゼンタール家の身上書だった。


私は無意識のうちにふらふらと立ち上がり、その身上書を手に取った。

端に添えられた小さな写し絵に描かれているのは、氷のように冷たい目をした完璧な容姿のアレクシスと……その足元の暗い影の中で、ひっそりと、怯えたように身を縮めている小さな男の子の姿。


銀色のサラサラとした髪に、氷のように透き通った青い瞳。

ご飯をろくに食べさせてもらっていないのか、同年代の子供と比べても異常なほど華奢で、儚げで、今にも消えてしまいそうな存在感。


――ピロンッ。

絶望に支配されていた脳内で、何かのスイッチが弾ける音がした。


「……え? ちょっと待って」


ノア。

三歳のノア。

私が前世で狂ったように公式グッズを買い集め、部屋の半分を使って祭壇を作り、寝る間も惜しんでネット掲示板で愛を叫び続けていた、私の人生を懸けた『最推し』キャラクター。


「私の推しの……一番可愛くて、一番手がかかる三歳児時代を……この手で直接、合法的に、毎日二十四時間体制で愛でられるってこと!?」


ドクン、ドクン、ドクン!

恐怖で完全に凍りついていた心臓が、今度は全く別のベクトルで爆発しそうなほど激しく高鳴り始めた。


殺される? 魔王に惨殺される死亡フラグ?

そんなもの、知ったことか!

最愛の推しと同じ空気を吸えて、しかも「お母様」というチートポジションから合法的に触れ合えるなら、死んだって本望だ!!


私は震える手で身上書を顔スレスレまで近づけ、写し絵の幼い天使を食い入るように見つめた。


「ああっ……! 見て、この画面越しじゃない本物の可愛さ……! 圧倒的な顔面偏差値……!」


絵の中の彼は怯えたような寂しい顔をしているが、それがたまらなく私の母性と庇護欲を容赦なく刺激してくる。

私の脳内で、前世の保育士魂と、限界突破したオタクの異常な母性が、完全に暴走を始めていた。


「このちっちゃくて、ぷにぷにの『小さな手』……! 絶対に私の指をぎゅっと力一杯握らせたい……っ! あの愛らしいおててで私のドレスの裾を引かれた日には、可愛すぎて天に召される自信しかないわ!」

写し絵のノアの小さな手を指でなぞりながら、私は一人で身悶えした。


「それに、この小さなお口から発せられる『お、かあさま……』って一生懸命に呼んでくれる『舌足らずな言葉』……想像しただけで鼓膜が幸せすぎる……! 毎日三食おやつ付きで録音して、子守唄代わりにループ再生したい……!」

さらに妄想はハイスピードで加速していく。


「そして夜は、ふかふかの温かいベッドで私が作った手作りの絵本を読んであげて、私の腕の中でだけ見せてくれる『安心しきった無防備な寝顔』……ああああっ、尊い!! 尊すぎる!! この天使の寝顔を守るためなら、世界中を敵に回してもお釣りがくるわ!!」


鼻血が出そうになるのを必死に手で押さえ、私は身上書を胸に強く、痛いほど抱きしめた。


ノアを愛情飢餓で魔王になんてさせるものか。

屋敷のメイドたちのネグレクト? 父親の無関心?

ふざけないで。三歳の無力な子供にそんな残酷な真似をした奴らは、万死に値する。絶対に許容できない。


私が、前世の保育士スキルの全てをフル稼働させて、ありったけの重い愛情で彼を包み込んでみせる。


「ノアの幸せを邪魔する奴、ノアを少しでも悲しませる奴は……公爵邸のメイド長だろうが、私の実家の人間だろうが、国のトップであろうが、誰であろうと私が物理と権力で粉砕してあげるわ」


さっきまでのバッドエンドへの絶望や恐怖は、嘘のように私の心から綺麗に消え去っていた。

代わりに私の瞳には、氷のように冷徹で、敵に対しては一切の容赦を持たない冷酷な光が宿っていた。


愛する家族を、私の最愛の推しを害する悪者は、絶対に許さない。

私にできるすべての手段を使って、徹底的に排除する。社会的に、そして物理的に。


チュン、チュン……。


やがて窓の外から鳥のさえずりが聞こえ、東の空から眩しい朝陽が差し込んできた。

いよいよ、私の運命を決める結婚式の朝だ。

コンコン、と控えめなノックの音がして、メイドたちが身支度のために部屋へ入ってくる。


「リリアーナ様、お時間でございます。ウェディングドレスのお着替えを……」


「ええ、お願いするわ。誰よりも美しく仕上げてちょうだい」


私は差し出された純白のウェディングドレスを身に纏い、力強く立ち上がった。

全身を飾る宝石の重みも、コルセットの息苦しさも気にならない。

鏡に映る花嫁は、運命に怯える悲劇のヒロインなんかじゃない。

愛する息子を守るため、そして彼を世界一幸せにするための、最強の鎧を着た戦士の顔をしていた。


「さあ、まずは氷の旦那様との退屈な茶番劇を終わらせに行きましょうか。……待っててね、私の可愛い天使!」


重厚な扉を開け、私は真っ直ぐに祭壇へと続く長い廊下を歩き出した。

これから始まるのは、冷血公爵との最悪で冷え切った結婚生活なんかじゃない。


愛しの義息子を甘やかして、甘やかして、限界まで愛で尽くすための、私の無双子育ての幕開けだ!

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