112.盤上の駒は踊らない③崩す(ジャスティン視点)
第二王子の教育係が去った後も、変化した部屋の空気はもう元には戻らなかった。
商会長の娘を利用したことでジャスティン側へと大きく傾いていたはずの交渉の天秤は、すでにジャスティンの手を離れその均衡を取り戻してしまっている。
(ここまでか)
緊張を忘れすっかり腑抜けてしまっているその場の空気に、ジャスティンは一切足掻くことなく交渉の失敗を受け入れた。
それは、思いがけずこの交渉へと差し込まれた王子の影のせいであり、それから、未だに部下が拾い切れない量のどんぐりがそのあたりに散らばっているためでもあった。
(想定外、か)
ほんの一、二時間ぶりだろうに感動の再会と言わんばかりな父からの抱擁を、のんびりと受け止めている幼い娘の姿を見やる。
軍部のトップとして数々の作戦指揮を取ってきたジャスティンにとって、今回の読み違いは大きな意味を持っていた。
有力な侯爵を取り込みたい、そのついでであった商会の、商会長の娘。
それがたまたま第二王子と面識があるらしいとの調べがついたことで、今回の交渉の絵を描いた。
それがどうだ。
蓋を開けてみれば、引き離しによる交渉優位は失敗に終わり、恩を売るはずだった王子に対しても娘経由で不信を招いた。
事前調査でろくに調べもしなかったこの娘が、それだけ王子への影響力を持っていたということだ。
思いもしない伏兵の一刺し。
その後の交渉の結果も言わずもがなだった。
侯爵や商会長がこの状況を利用できないような馬鹿ではないのはジャスティンとて分かっている。
『ステラ嬢はどうやら第二王子に気に掛けてもらっているようだね。怖い思いをさせてしまって、可哀想に』
侯爵からの牽制。
『娘のステラもこのとおりまだ幼いですから。商会の大事は、落ち着いて決めさせていただきたいものです』
『旦那様、結果を早急に決断される必要はないかと』
商会長も即断しない姿勢を示した。
ジャスティンの優位が崩れた以上、保留は妥当な返答だった。
本来は互いに利のある交渉であることは彼らの念頭にもあるのだろう。
交渉のテーブルにつかないというわけではないと示しながら、しかし、今回の件で即協力関係を持てるわけではないと王子の後ろ盾を得た彼らは示した。
(未だ十歳にもならない第二王子、いやその側近。あの教育係の男か? どうやら第二王子の周囲に身の振り方に慣れた者がいるらしい)
今回は、駒の価値を測りかねたジャスティンの失態に終わった。
しかし、得られた情報は無駄ではない。
『結論を急がせた無礼を謝罪しよう。今回の件は改めて場を設けさせていただく』
最後に二人へとそう断って、ジャスティンは部屋を出た。
退室のために扉を開いた部下が、己の仕出かした不手際に深く頭を下げている。
娘を自由にさせ、王子と接触させたこと。
王子の側近が娘のあとを追い、会談の場へ来たこと。
それらを咎めることに意味はない。
ジャスティンはただ戦況が変わったことを理解し、脳内の盤面配置を修正することに思考を割いた。
(……こいつの意図も読めん)
背後に閉まる扉の音を聞きながら周囲に気取られないよう宙へと視線をやる。
────獣はやけに上機嫌だった。
普段は人同士の会談になど興味はないと同席したりなどしないくせに、先ほどあの場に限っては部屋の中まで同行してきた茶と白の毛並みをもつ獣。
宙に浮かび、ことの成り行きを見ていた己以外には不可視の存在は、途中から何やらころころと嬉しそうに笑っていたかと思えばどうやらそれがまだ収まっていないらしかった。
一枚扉を隔てた向こうでは商会長らが無事を喜ぶように娘を挟んで安堵の声を上げ始めたのが聞こえてくる。
ジャスティンはさっさとその場を後にすることに決め、もう帯同の必要はないと部下たちを下がらせた。
廊下をある程度進んだところで、歩みながらコンコンと二度杖を床に鳴らす。
歩みは止めず、顔は正面を向いたままで口を開いた。
「いつまで笑っているつもりだ」
『御前殿ほどの男がのう、ああんなちんまい童に転がされて、ふふふ、よいよい』
普段ないほどに嬉しそうに笑う獣へ一瞬ちらりと視線をやり、それから一度だけ息を吐いた。
先ほどの様子がよほど琴線に触れたらしい。
いつまでも笑っているなと、それだけ言って執務室へと向かう足を速めようとしたときだった。
「あら」
最近また聞き慣れてきた声に気が付き、足を止める。
見れば、ちょうど移動の最中だったらしい二人もまたこちらに気が付き足を止めていた。
「先ほどぶりだな」
「ええ、今日はもう下がらせてもらいますね」
「慌ただしく悪いな」
「いいえ、そんな」
こちらへと向けられるその声は穏やかで、ここへ呼び出してからはしばらく残っていた険は今はすっかり抜けている。
毎日のように業務の合間を縫っては対話する時間を設けていた甲斐があったようだ。
ジャスティンがそのように考えていると、こちらを見ていた赤茶の瞳がわずかに影をまとった。
おずおずと口を開いた彼女から向けられたのは、これまでも何度かされた問いだった。
「あの、やっぱりお母さまには……?」
「悪いが、彼女の容態は思わしくない。お前であっても今は控えてほしい」
「そうなの」
ジャスティンの答えに赤茶の瞳はわずかに揺れ、それからわざとらしく拗ねてみせる。
妙齢になっても幼いころの癖の抜けない彼女は、それでも経過した月日を表すようにすぐに落ち着いた雰囲気を取り戻すと、辞去の挨拶をともう一人へと促した。
視線を下げれば、彼女の足元に半身を隠すようにしていた幼い視線がおずおずとこちらを見上げてきている。
初日のように震えるほどの緊張こそされなくなったものの、やはりまだ慣れてはくれないようだ。
「……」
「私はもう行く。また明日時間を設けよう」
長く軍に身を置いてきたこの姿が幼い子どもに威圧感を与えるのは分かっており、慣れてもいる。
それでも、幼い日のわが子たちの姿と重なる者に怖がられるのに、いくらかだが胸が痛んだ。
そうしてジャスティンが軽くだけ声をかけ、その場を後にしようとしたときだった。
「あ」
鈴が鳴ったような可憐な声が零れた。
本人も思わず出てしまった声だったのだろう、ジャスティンが足を止めるとそれに気が付いたようで焦ったように「あっ」と再び声を上げている。
怯えさせないように、委縮させないようにと緩慢な動きで振り返ってみれば、幼子は慌てながらもジャスティン近くの床の一点を気にしているようだった。
不思議に思い見ていると、やがて母の足元からそっと離れた彼女はジャスティンのほうへと床を見ながら近寄ってくる。
思いがけないその動作に、ジャスティンが驚かせぬようじっと待っていると、彼女はジャスティンの足元で一度しゃがみ、それから何かを手にして立ち上がった。
手に持つ何かを見ている。
「────どうした?」
「!」
少し待ってから声をかけてみれば、ジャスティンの足元で彼女は一度びくっと小さな体を揺らした。
しかしそれから、控えめながらもおずおずと、その手に持つ物をジャスティンに見せてきた。
彼女のピンク色の頭が上を向き、髪で覆われていた顔がこちらを見上げて露わになる。
彼女の持つ、あどけない碧の瞳と初めてしっかりと目と目が合った気がした。
「どんぐり……」
「あ、ああ」
両方の手のひらを上に向け、その手に乗せたどんぐりを不思議そうに私へと見せてくる彼女に、彼女と会話するためにこれまで用意していたどんな言葉もうまく当てはめてやることができず、すぐに会話は途切れてしまう。
けれど、次の瞬間には彼女はほわりと顔をほころばせた。
「どんぐり、裾に入ってたみたい、です。コロンって今」
「そうか」
あの時か。
どんぐりの出どころはすぐに思い当たった。
足元では、幼子が初めて気を許した様子でこちらへ笑顔を見せている。
自分たちを見守っている娘の幼い頃にもよく似た、そんなはにかみ顔を眺めながら、今回はどうやらつくづく完敗だったようだと、小さな伏兵に思いを馳せた。
獣はただ三人を見守っていた。
どんぐりころころ どんぶりこ♪
次回閑話を挟んで新章予定です。
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