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110.盤上の駒は踊らない①父の焦り(ワンダー侯爵視点)

 元帥であるジャスティンが去った部屋には沈黙が落ちていた。

 城の使用人も下がった今、残されたのはワンダーと商会長ゲイリー、そしてその付き人であるチャーリーを始めとした数人のみ。

 叩きつけられた現実をすぐには飲み込めず、誰もが静まり返った中でただ元帥の去った扉を見ていることしかできなかった。


 まずいことになった。

 侯爵は内心でこの状況を歯噛みした。


 婉曲ではあったがステラを人質として取られてしまったのは状況から明らかだ。

 形勢は極めて不利。そして、その責は侯爵にあった。


「すまない、ジャレットくん。まさか元帥が初手からこんな強硬な手段に出てくるとは予想していなかった。────実は、彼からの城への招待よびだしの手紙には、本来はアリスを連れてくるようにと書かれていたんだ」


 こうなってしまっては些細な隠し事も今後の軋轢の種になるだけだ。

 ここまで伏せていた事情を説明する。


「近く、例のサーカス団のメンバーに対して城で聴取のための裁判が行われるらしい。アリスを、というのはそれ絡みだろう。だが侯爵家の娘があの場にいたのはなるべく公にしたくない。申し訳ないことだが、アリスと共にあの場にいたステラ嬢を代理として同行させてもらったんだよ」


 それがまさか元帥がこんな思い切った手段に出るなんて、と、侯爵が謝罪する間も、ゲイリーはソファーに座り俯いたままでいた。

 再び場がシンと静まる。


 沈黙に耐えかねた侯爵がまた口を開きかけたそのとき、侯爵はゲイリーの変化に気が付いた。

 隣に座るゲイリーの肩が小刻みに震えていたのだ。


「ジャレットくん……?」


 俯いたゲイリーの肩越しに侯爵が顔を覗き込むと、そこには般若がいた。


「!?」

「ひとじち……? ですか……?」

「じゃ、ジャレットくん……」


 般若はゆらりと顔を持ち上げると、顔を上げるのとほとんど同時にその身をすっくと立ち起こした。

 ソファから大人一人分の体重が抜け、驚愕と動揺で侯爵の体が揺らぎ、慌てて体を起こす。


「ジャレットくん、落ち着きたまえ」

「落ち着いてなどいられますか? これが? ステラが人質に? そんな場合ですか? 今あの子はどこにいます? 僕のかわいいかわいい天使(ステラ)が軍人風情に人質にされることなど、あってはいけない……」

「ジャレットくん、待て、行ってはいけないよ」


 フラフラと、まるで熱に浮かされたような足取りで元帥の去って行った扉へとゲイリーが向かっていくのを、侯爵は慌てて引き止める。

 思わず腰へと回した腕が妙に熱く、ゲイリーの内側から今まさに湧き出さんとする憤怒の灼熱を物語っているようだった。


「行ってはいけない! いけないよ、ジャレットくん! 相手が悪い! 落ち着いて、今後の振る舞いについて話し合わせてくれたまえ!」

「言っている場合ですか!? あの子が今どんな目に遭わされているか分かったものじゃない! ここじゃ商人の娘一人どうとでもできてしまうのではないですか!? 早くあの子の元へ行かなければ!」

「ジャレットくん! 行っても状況を悪くするだけだ! 落ち着いてくれっ」


 腰にしがみつく侯爵を引きずるように、一歩また一歩と前へ進むゲイリーは止まらない。

 固く握られた両の拳にいよいよゲイリーの覚悟を見て取った侯爵は顔面を青白にし、助けを求めて周囲を見回した。


 侯爵付きの使用人は、今ここに連れてきているのは老執事だけだ。

 元帥との舌戦になれば役に立ってくれるだろうと連れてきた老練な執事だが、こうなってしまっては役に立たないだろう。


「チャーリーくん! 君も止めてくれ! 無礼があれば最悪君の主人の首が飛んでしまう!」


 商会の若いフットマンの青年がソファの後ろに控えたままなのを見つけた侯爵は、普段の朗らかさをかなぐり捨てた大声で必死で彼へと助けを求めた。

 その声に反応したのか、それまで微動だにしていなかったフットマンの青年がこちらへと顔を向ける。


「旦那様、お待ちください」


 よく通る声だった。

 冷静さを欠いていたゲイリーもこの声には反応したのか前進しようとしていた力が和らぐ。

 よかった、と、そうホッとして力を抜きかけた侯爵の耳に次に飛び込んできたのは、芯のある凛とした青年の主張で。

 

「────徹底的にやらねばなりません。ステラ様に手を出すことがどういうことか、思い知らせてやりましょう。旦那様は増援を呼んでください、俺が先に出ます」


 まっすぐな目だった。

 澄み切った目だった。


「君のほうがクレイジーなのか!?」


 侯爵は叫んだ。

 澄んだ目をした青年はまっすぐな目でゲイリーでも侯爵でもないどこか遠くの一点を見つめている。


「俺の亡骸は屋敷の庭に埋めてください」

「これ以上、物騒なことを言うのはやめてくれ!!」

「お嬢様、今行きます」

「やだー!!」


 冷えた顔に微笑みさえ浮かべ始めた青年を前に、これにはゲイリーも少しはたじろいだ。

 前進していたのをやめて振り返り「チャーリー、先走ってはいけないよ」と、いつの間にか制止する側に回っている。


 自身よりも怒りに狂う者を見て、人は冷静になれるようだった。



 ◇ ◇ ◇



 しばしの間。

 なんとか商会二人をなだめすかしてソファに座らせることに成功した侯爵は、二人に気付かれないように溜めていた息を吐いた。


 この場面では活躍できないと思われていた老執事は、しかして老練だった。

 その後もなんだかんだと息巻いて飛び出していきかねなかった二人を落ち着けてくれたのは他でもない彼だ。


 彼らを止めようとオロオロと間に入っていきそこで『イタタ』と腰を痛がって見せた彼の演技は迫真だった。

 今はそんな彼を休ませる名目で、全員でソファへと座って落ち着くことができている。


「元帥の目的は僕の侯爵家と、軍需商店としての君の商会の取り込みだね。そこまでは理解しているかな」

「はい、なんとか」

「僕らが悪い返事さえしなければステラに害は及ばないよ。そのための人質だ、気が気じゃないだろうけど、今後のことを話そう」

「はい……」


 仕方のないことだが遣り手の商会主とはいえ王城のこうした政治には疎いらしく、現状を説明してやるとゲイリーは話の半分は理解しきれないという顔をして聞いていた。

 しかし渦中の人となってしまった今、分からないで済ませていい問題でもない。


 噂では、元帥は近い将来戦を始めるつもりだ。

 その相手国が海を挟んだ他国といわれている以上、優秀な流通を持つ大商会を駒として取り込もうという元帥の意図は明確だ。


 ゲイリーの商会の成長ぶりは目覚ましいものがあるが、その急激な成長に後ろ盾の確保が追い付いていない。

 今はワンダーが侯爵自らが彼らの後ろ盾を用意してやるしかなかった。


「このままでは君の店は食い物にされるかもしれない。僕の属する派閥は穏健派の中立だけど、古い家の中には軍に顔の利く家もある。僕から話してみよう」

「そんな、よろしいのですか? それでは閣下のお立場が────」

「言いっこなしだよ、ジャレットくん。こうなったのは貴族である僕に責任がある。こうなれば僕の家と君の家とは一蓮托生だ。それに、娘同士の恩を返さないといけないからね」

「ワンダー様……」


 さっきまでの覇気はどこへやら、一気に消沈したゲイリーは自身とその家とが危うい立場であるという実感が沸いてきたらしい。

 今は娘も手元から離れて不安いっぱいという様子の彼を可哀想にも思うが、軍需商店というのは決して損ばかりでもないのだ。


 侯爵としても、中立派としての立場は今後揺らいでしまうかもしれないが、戦を起こす元帥の大義名分によって立ち回りようもある。

 商会長である彼にもここでひと踏ん張りしてもらい、この状況を商機に変えてもらうくらいの気概を見せてもらわねばと侯爵は鼓舞するようにゲイリーへと励ましの言葉を重ねていった。




 ぽつりと、それまで静かに侯爵と商会長のやり取りを聞いていたフットマンの青年が何かを呟いた。

 それはひとり言ではなかったようで、同じく消沈したフットマンの青年をなだめるように背をさすってやっていた老執事が侯爵へと目配せを寄越す。


「チャーリーくん?」


 尋ねた侯爵へとフットマンの青年チャーリーは顔を上げた。

 その顔は先ほどまでの澄み切った凛々しさとは異なり随分と弱り切った表情を見せている。


「お嬢様は……」

「うん」

「お嬢様は、ご無事でしょうか」


 まるで縋るような彼の目に負けた侯爵は少しでも安心させてやろうとなるべく優しく言葉を返す。


「うん、きっと大丈夫」

「……お嬢様は、怖がっておられませんでしょうか」


 フットマンの青年のその弱った声に、侯爵の隣に座るゲイリーも膝の上のこぶしを強く握りしめている。

 彼らは耐えていた。

 同じ娘を持つ者同士、それを十分に汲んでやることのできた侯爵は、可能な限り彼らの心配を取り除いてやりたいと意識してフットマンの青年に向けて言葉を返す。


「大丈夫。彼女は強い。僕よりも君たちよりも、きっとずっとね」

「……」

「ステラを信じよう」


 侯爵の言葉に、再び俯いたフットマンの青年は、けれど一度だけこくりとうなずいた。

 彼も何とか感情に整理をつけてくれたようだと侯爵は安堵する。

 

「ステラならきっと、お利口さんに待ってくれているさ」


 二人を励ましたくて付け加えたそんな一言が、今まさに大きく裏切られているのを、侯爵はまだ知らない。






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