#66 のんびりと
この世界に初めて来た日の夜、無銭で泊まったクアの宿。
一階のフロントの奥、浴場に繋がる廊下の途中に、暖簾で隠された扉がある。
開ければ、そこは外。
家や店が背中を向け壁を作る、小さな庭のように拓けた四角い空間。
その先で、一軒だけ家がこっちを向いている。
それこそが、彼女たち、エイオータの一家が暮らす家だ。
ラフェムの家より一回り小さいが、アパート住みが憧れるには充分すぎる一軒家。
入ってすぐの居間で、俺たちはのんびり寝転がって、だらけていた。
エイポンの陽気な鼻歌と、調理の炎と油が弾ける音が、すぐ横のキッチンから絶えることなく聞こえてくる。
時々誰かがハミングを重ねたり、流れる香りを嗅いで心躍らせたり、時間はのんびりと過ぎていく。
穏やかな日。
この世界を壊してしまう化け物がいるなんて思えない、至極平和な昼下がり。
あまりにも平和すぎて、さっきの激闘まで嘘のように思えるが、かすかに意識を掠める、痺れるような、もしくは焼けるような、じんじんと奥で響く痛みが、あれは真実だと主張していた。
……こうして休めるのも、今日が最後。
旅に出た途端、義務感は絶えず纏わりつくだろう。
常に進まなければ、強くならなければと焦燥に駆られる日々になる。
現に、今日のラフェムはそうであった。
俺たちが自力で歩けぬ程に負傷していなければ、三人が草原に集まらなければ、彼は休息は断じて罪だと出発していただろう。
料理は完成に近付いて、どんどん香ばしくなる。待ち遠しいと、腹が唸る。
……そういえば、宿の客の飯はどうすんだ?
いや、朝夜だけかもしれないけれど……。
一応。
「今更だが、クアは宿の仕事やらなくていいのか? 何なら、俺も手伝うが……」
長い髪を花のように四方に広げて、大の字で寝そべっていた彼女は、この提案が意外だったのか、わざわざ起き上がり、背を正して俺と目を合わせた。
「あら、ありがとう。でも大丈夫よ。実は、あの日からお客さんが減る一方で……それで、ついに居なくなっちゃったのよ」
彼女は首に手を当て、困り顔で答える。そして、そのまま黙り込んだ。
商店街、帰郷した時一度消えた人気は戻ったものの、目に見えて少なくなっている。
……それでも、まだまだ賑やか。
だけど、その活気を構成するのは、きっとこの街に住んでいる人か、隣町アトゥールの人。
泊まる必要のある場所からは、もう……。
彼女たちの経営、大丈夫なんだろうか。
彼女たち……あ。
「ロネちゃんは一人でいいのか?」
「ロネは平気よ。それどころか仕事がなくなって、逆に元気だわ。来ないのは、ただいつもの場所で趣味の本を読んでるだけ。人の側にいると落ち着かないの」
ああ、あの子コミュニケーション得意じゃなさそうだったしな。俺もその苦痛はわかる。もう、怖くはないけど。
ふと、この宿に泊まったときの事を思い出した。
顔を染め、慌てて出ていってしまった、幼い顔立ちの青髪少女。ロネちゃんを見たのは、それが最後。
なんで姉が朝焼けに煌く水面のように明るいのに、妹は夜の海底のように昏いんだ……。
姉は元々こうだとして、あの暗さにはやっぱり何か、理由がありそうだけど……。
カチャリと、ドアの音がする。
「た、ただいま……」
今にも死にそうな、か細い声。
噂をすれば、ロネちゃんのお出ましだ。
どうやらご飯を食べに来たらしい。
彼女は部屋に入らずに、廊下で突っ立って、エイポンの背を注視していた。時折、警戒している獣のように、背を屈めて辺りを見回す。
俺が怖いか、詩歌が怖いか?
わからないが、恐れ過ぎじゃないか。
大丈夫だよ、と声をかけようか迷ってるうちに、料理が完成した。
エイポンに呼ばれると、ようやくロネちゃんは居間に入ってきた。
早速、六人で食卓を囲む。
四人用のテーブルに、流石にこの人数は狭いけれど、窮屈なのも中々悪くない。
場所の関係で、俺の隣に座らされたロネちゃんと詩歌は嫌そうだけれども……。ネルトやラフェムみたいなイケメンでなくて、悪うござんした。
それはともかく。
飯は、皿にどかんと乗せられた、厚切りハムのようなゴージャスステーキ。もちろん、ラフェムの好物トカゲ肉。
ああ、美味そう! いただきます……!
慎重に、肉へフォークを突き立てると、弾かれも潰れもせず、ずっぷり先が埋もれていった。丁度いい硬さだ。
中までしっかり火を通してあるから、噛みごたえがある。
甘みと辛みが絶妙なバランスで絡むソースは、なめらかで舌触りがいい。旨味がじゅわっと口中に染みる。
おいしい。
馴染みの味だ。
やっぱり親子なんだな……。
……。
ラフェムは肉の隅々まで噛んでじっくりと味わい、ネルトは軽快に、ロネちゃんはゆっくりで、それでいて急かされているかのように、それぞれ自分のペースで昼食を堪能した。
ごちそうさま。
後片付けも任せてと、張り切るエイポンの善意に甘えて、再び床に雑魚寝する。
しばらくして、エイポンは皿を洗い終えると、部屋の隅に埃があったのでも見たのか、忙しなく掃除を始めて……そのまま二階に行ってしまった。
……。
…………。
………………あー。
……最後の日だから、休む他にも何かやりたい気持ちはあるんだけど……いざ好きにしていいとなると、思い浮かばないんだよなぁ。
寝転び再開、多分数十分。
詩歌とクアは、何かすることを思い出したのか、コソコソと俺たちに聞こえぬように耳打ちしあい、そしていそいそと出ていった。
一体何をしに行ったのか……。
見当もつかなかったが、詮索する気もなかった。
彼女たちがいなくなっても、このだらけきった雰囲気は変化しない。
天井の節目をなぞったり、あくびしたり、目を瞑ったり、贅沢に惰眠を貪る。
明日のことも未来のことも忘れて……なんて思ってる時点で忘れられてないんだけど。
…………だけど、流石にそろそろ飽きてきたかも?
「おい」
丁度、ネルトが口を開いた。
寝返りをうち、彼の方を見る。
ネルトは、俺もラフェムも見ず、魔法炎に照らされた天井、いや、上の空を仰いでいた。
ぼんやりと、ぼんやりと、虚ろに。
「いつもと同じ明日が来ると思うなよ」
真剣な声で、はっきりと言った。
ラフェムはそれが癪にでも触ったか、唸り声のような咳払いをする。
「はっ、不吉なことを。そんなこと、とっくに覚悟している。また引き止めたくなったか? 優柔不断だな」
「やらないで後悔するより、やって後悔しろってことだ……今も、これからも」
彼は頭だけを横にして、ラフェムを見た。
かすかに揺れる跳ねた茜髪が、潤んだ琥珀の瞳に、鮮明に映っている。
回顧か懐古か、故人を思い出した時のように、寂しく微笑む。
「オレのようにはなるな」
「……帰ったら伝える、そう約束した」
「……今度こそは気おじするなよ。全く、優柔不断なのはどっちやら……」
ネルトはゆっくりと顔を動かし、俺を見た。
途端、何故かやれやれと呆れられた。
「何ほくそ笑んでんだ? ショーセお前もだぞ」
「え、俺?」
「そうだ、他人事みたいな顔をしてるが」
「はん、俺はラフェムみたいにモテないので関係ねえ……あちっ!」
ラフェムが紙くずを投げ捨てるように、火の粉の塊を投げてきた。
突然の攻撃に、受ける準備などできる訳もなく。無防備な掌に着弾。
うっかりシャーペンを上下逆にしてノックしてしまった時と同じ、あの一瞬の痛みに勝手に体が跳ねた。
「その卑屈が既に心配だ……今、想い人は……いないかもしれないが、いつかは……それに、恋に限った話ではない」
「卑屈? 真実さ、実際俺は皆のように強くないし、格好良くないし……」
「おいおい。もっと自信を持ってもいいじゃないか!」
口にしながらようやく自覚、皆の言う通り、酷く卑下してるなあ……。
そういえば一番最初は、誰かから言われた陰口だったけれど、いつの間にか俺から名乗るようになってしまっていた。
……誰が俺をそう呼んだか……ずっと覚えていたはずだけど、ここに来てからは欠片も思い出せない。思い出せなくて大歓迎だが。
ともかく、心配させてしまうほど、自虐してるんだな……。
ネルトは、またらラフェムを見て、またまたやれやれ呆れる。
「ラフェムもな、人のこと言える立場じゃないぞ」
「何言ってんだネルト? 僕は事実を……あ」
…………類は友を呼ぶか。
ラフェムの自嘲は、いつもふと現れるし、その度「そこまで思わなくても……」って止めたくなるのだけれど、俺も同じ風に……。
少しは意識してみるか。
聞いていて、快くはないもんな。
簡単には治らないだろうけど、この優しい世界ならばきっと、克服できるはず……。
嫌な記憶も過去も繋がりも、捨ててきたんだならな。
怯えるのは、今日でおしまいにしよう。
「ただいまぁ〜」
「……戻りました」
玄関の戸が開く音と、少女二人の声。
「おっと……帰ってきたか。じゃあこの話は終わり……」
ネルトは口早に、あたかも何も無かったかのように上の空眺めに戻った。
俺たちも、すぐに話し始める前へと戻る。
たたっと、玄関と居間の境である廊下を飛び越えるような、軽快な足音。
クアが、勢いよく部屋に飛び込んできた。あんなボロボロだったのに、もう回復しているのか。
「ただいまラフェムー! と、皆!」
炎使い雷使いもたじろぐほどに明るく煩い言動。
そんな彼女に気圧されたのか、おずおずと詩歌が入ってきた。何も悪いことはしてないのに、畏れ多そうに怯えながら。
詩歌は紙袋を後ろに隠していた。片手で持てる大きさの、普通の袋。中身は軽そうだ。
「何買ってきたんだ?」
「ッ!」
彼女、めちゃくちゃにビビる。
「え?」
「…………」
詩歌は何も答えず顔をしかめると、さっさと部屋の隅に歩いていき、纏めてある他の荷物の山に埋めた……。
触れられたくなかったらしい……。
気不味そうに妙な間を開けて、膝を抱えてしまった。
クアは詩歌にお気の毒様……と苦笑した後、ぐだぐだと転がる俺たちを次々に見る。
当然、彼女たちは俺たちが話していたことなど知らない。
ずっと、同じ姿勢で無駄を過ごしていたと思っている。
「ねえ、ちょっと早いけれどお風呂入ったら? 温かいお湯に浸かったら、疲れも取れるんじゃない? 着替えは出しておくから」
彼女は何もしてないふりをしているラフェムの側に座り、肩を掴み揺さぶる。だが、彼はうんともすんとも言わず、唸るだけ。
いくら揺さぶっても駄目だ。あからさまに面倒くさがっている。
彼女は仕方ないなぁと笑いながら、起きようとしない上半身をゆっくり起こしてやると、機敏に背に回り込んだ。
「え? 何すんだ」
脇の下に腕を突っ込み抱きかかえる。
そして、小刻みの後ろすり足で、そのまま廊下まで引き摺った。
まるで、獲物を川底に引き摺り込むワニのような素早さで……。
「ちょっ、どこまで!?」
「お風呂まで〜」
「やめてくれ! わかった、わかったから!」
ラフェムが暴れたのだろう。ドタドタと足音が響き、床が揺れる。そして、彼だけが逃げるように部屋に帰ってきた。
「あらら〜? 元気あるじゃないのよ〜」
煽られ、彼は猫背だった背をますます丸めて、フンと鼻を鳴らした。
そのまま抵抗しなかったら、風呂まで引き摺られて、身ぐるみ剥がされて、湯にぶち込まれただろう。
彼女をよく知る者がこれ程までに慌てているのだから、そうに違いない。
彼女はマジでやるのだろう……。
「ほら、二人も行くぞ」
彼は怠そうに頭を掻きながら、俺たちがちゃんと起きて歩き出すまでを確認してから、踵を返して先陣を切って歩く。
そういえば、温泉なんだっけ?
宿には一夜しか泊まってない、しかも部屋に案内されてすぐに寝ちゃったから、どんなものかはまだ知らない。
ちょっと楽しみかも……。




