第一幕 第一話 「リコー・タディーカ」
初投稿です。 書きたいように書きます。
鉄と臓物が腐臭を放ち、泥と混じり合ってリン平原を分厚く覆っている。黒い鳥たちが空を旋回し、つい数日前まで命を持っていた肉塊をついばむために舞い降りる。帝国の旗が、血に濡れた風に重々しく揺れていた。
泥濘に車輪を取られ、何十台もの幌馬車が軋んだ悲鳴を上げている。前線への補給物資を積んだ長大な隊列の先頭で、黒毛の馬に跨る男がいた。
リコー・タディーカである。
仕立ての良い軍服には一つの皺もなく、泥跳ねのしみひとつない。背筋をぴたりと伸ばし、彼は手綱から片手を離した。広大な死体畑に向けて、舞台俳優のように両腕を大きく広げた。
「おお、素晴らしい。じつに素晴らしい景色ではありませんか。」
張りのある、よく通る声だった。リコーは馬の上で振り返り、傍らを歩く副官に向かって、恭しく首を垂れてみせる。
「砦の北側でさえ、この在り様。見渡す限りの赤と黒。我が帝国の剣と魔法が、この大地にどれほど美しい花を咲かせたことか。諸君、この芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込みなさい。これこそが勝利の残り香です。」
馬の蹄が、誰かの兜を踏み砕く。
泥まみれの副官は、眉間に深い皺を刻んでリコーを見上げた。その目には、後方から物資を運んでくるだけの男爵家の三男坊に対する、明確な軽蔑が宿っている。
「……前線はひどく疲弊しております、リコー中級魔導士殿。呑気な物言いはお控えいただきたい。我々の任務は、一刻も早くこの食料と武器、魔力結晶を砦に届けることのみです。…あなたはただの、お飾りの指揮官だ。ゆめゆめお忘れなきよう」
「ええ、ええ。まったくもってあなたの仰る通りだ。腹を空かせた英雄たちの元へ、この大いなる恵みを届けねばなりません。」
リコーは手袋の指先を直し、天を仰いだ。そして、腹の底から響くような声で笑い声を上げた。
「アーッハッハッハッハ! しかし急ぐ必要はどこにありましょう! すでに王国軍は後退し、我らが盾は盤石。このぬかるんだ大地を、ゆっくりと、確実に踏みしめて進もうではありませんか。足元には、両国の栄光の残骸が散らばっておりますからね。」
大仰な身振りで前方を指し示すリコーの背中を、副官と兵士たちは冷ややかな目で見つめる。リコーは彼らの視線を背中に浴びながら、薄い唇の両端を吊り上げた。馬の歩みは、周囲の兵が疲労から足を止めるたび、それに合わせるように巧妙に減速されていた。
――同時刻。王国首都、参謀本部。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き抜かれた円卓に冷たい光を落としている。豪奢な絨毯の敷かれた部屋は、息が詰まるほどの沈黙に支配されていた。
円卓を囲むのは、仰々しい軍服に身を包んだ王国の将軍と参謀たちである。卓の中央に広げられたリン平原の地図には、中央の砦、そして無数の赤い駒と黒い駒が配置されていた。
「リン平原は事実上、膠着状態にある。だが、我が軍の損耗は想定を遥かに超えている。」
白髭を蓄えた参謀長が、卓を指の関節で二度叩いた。
「帝国は前線に大規模な補給隊を差し向けている。指揮を執るのは、おそらくリコー・タディーカ」
「タディーカ? 知らん名だな」
「前線にも出られぬ臆病者が荷馬車を引いて出てくるだけでしょう」
恰幅の良い将軍の一人が、鼻で笑うように息を吐いた。しかし、参謀長は銀色の指揮棒で、地図上の黒い駒が通る不可視の線路をなぞる。
「……敵を小さく見るなと、儂はいったはずだ。…やつは、蛇行しながら砦に向かっている。無駄な迂回だ。少なくとも、奴の視点では。」
「…この情報はどこから…?、…いや、そうですな…。森や丘を通っている?」
「そうだな。もし、我々が伏兵を配置するなら、いずれも適している場所だな」
「!!!」
「ふん、砦の北側に伏兵などおらん」
「で、では、奴の無駄足で…」
「すでに引き上げさせた後だからだ」
それはつまり…
部屋の空気が一段と重くなる。誰もが地図上の黒い線に目を落とした。
「あの男は魔導ではなく、理の轍で危険を潰していると見る。奴が前線に到着すれば、帝国軍の息継ぎは完全に終わる」
参謀長が顔を上げたとき、重厚なオーク材の扉が、ノックもなしに開かれた。
蝶番が軋む音に将軍たちが一斉に顔をしかめる。
「なに、みんなして暗い顔を突き合わせて。お葬式?誰か死んじゃった?」
扉の枠に背中を預け、屈託のない笑みを浮かべる少年が立っていた。
年の頃は十六ほど。軽薄な態度とは不釣り合いな、特注の騎士服と豪奢な装飾が施された長剣を腰に下げている。
「貴様、ここをどこだと……!」
「まあまあ、そんなに怖い顔しないでよ、血圧が上がって死んじゃうよ?」
スオス・ハイムは、朗らかな声を響かせながら部屋に足を踏み入れた。その目は、室内にいる王国最高峰の頭脳たちを、路傍の石を眺めるかのように見下ろしている。
「帝国が元気を取り戻す前に、俺が全部ぶっ壊してくればいいんでしょ? やっと初仕事だ。王国の『勇者』サマの使い所ってやつじゃないの」
スオスは腰の聖剣の柄をポンポンと叩き、シャンデリアの光を反射する無垢な瞳で、参謀長を見つめた。
「貴様、分際をわきまえよ!所詮は下賤の輩よ、猛るなッ!」
将軍の背後に控えていた王国の上位剣士が吼えた。柄に手が掛かり、スオスを見据える。鞘に納められたまま白刃は、しかしそれでもスオスの首筋へと、しかと狙いをつけている。王国が誇る剣士の、洗練された威圧であった。
刹那、豪奢な絨毯に赤い雫が飛び散った。
極めて短い、甲高い金属の交錯音。
上位剣士の体が、不自然に前のめりに崩れ落ちた。彼の手から剣が滑り落ち、両膝が鈍い音を立てて床に叩きつけられる。男は自身の足元を見下ろし、声にならない絶叫を上げた。彼の両脚が、ふくらはぎの側から、薄皮一枚を残して断ち切られていた。
「あははっ、ごめんなさい! お兄さんがあんまり怖いもんだから、ついびっくりして」
スオスは聖剣の刀身に付着した血を、気だるげに振って落とす。カチン、と軽やかな鍔鳴りをさせて剣を鞘に納めると、倒れ伏す剣士を見下ろして屈託のない笑い声をあげた。
「手元が狂っちゃいました。いやあ、俺ってば、まだまだ未熟ですねえ。お兄さん、早く治さないと、脚とれちゃうよ?」
朗らかな声が、悲鳴と怒号が交錯し始めた円卓の間に響き渡る。倒れた剣士に治癒魔法をかけるため駆け寄る者、スオスへ震える手で剣を向ける者。室内はにわかに蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。スオスは剣を向けられても、ただ機嫌よく笑っている。
やがて、分厚いカーテンの隙間から、白み始めた朝の光が差し込んだ。冷たい円卓の上に真っ直ぐな光の線が伸びていく。長い夜が終わろうとしていた。
騒乱の中心で、ただ一人無邪気に微笑む少年を前に、参謀長は深く、重たい息を吐き出す。
「……コールウォー砦を奪取する。勇者を配置し、帝国を押し潰す。」
――同時刻。コールウォー砦、北方街道。
朝陽に照らされたぬかるんだ街道を、重たい車輪の音が列をなして進んでいく。
「おお、見えてきましたよ。我らが前線、コールウォー砦の堅牢な城壁が」
リコー・タディーカは馬上から大仰に腕を広げ、朝霧の向こうに浮かび上がる黒い石造りの砦を指し示した。その声には、思い通りの劇の幕引きを控えた舞台俳優のような、優雅な響きがあった。
「さあ諸君、胸を張りなさい。我々はこの豊かな物資とともに、大いなる帝国の勝利を届ける運命にあるのですから」
彼が背後の副官に向けて、芝居がかった手つきで手綱を揺らしてみせた、その時だった。
後方から、鼓膜を裂くような絶叫が上がった。
それは明らかに、帝国の兵士の喉から発せられた断末魔であった。続いて、2、いや3回、何かを粉砕する轟音が、朝の静寂を暴力的に打ち破る。
馬がいななき、長く伸びた補給部隊の隊列に波打つような動揺が走った。
リコーは手綱を引き、ゆっくりと、極めて静かな動作で馬の首を後方へと向けた。
視線の先、巻き上がる土煙の向こうで、帝国の軍旗がへし折られ、宙を舞っている。
リコーは黒革の手袋の指を一本ずつ引き伸ばすように直しながら、目を細めた。彼の口角が、ゆっくりと、耳の裏まで届くかのように三日月型に吊り上がっていく。
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