箱根の温泉宿 2/6 救世主
富士山屋ホテルは、長い歴史を誇る老舗である。しかし、その華やかな歴史の裏には、幾度も経営危機に見舞われた過去があった。消費税の増税が人々の旅行予算を圧迫し、震災の影響で観光地としての箱根全体が一時的に衰退し、さらに新型ウイルスの感染拡大によって宿泊客が途絶えた。富士山屋ホテルも例外ではなく、経営陣は次第に資金繰りに苦しみ、宿の維持すらも危ぶまれる状況に陥っていた。
そんな中、ある夜のこと。ひとりのフランス人客が、この温泉宿を訪れた。彼の名はレオ・ラシュペール。母国フランスで名高いホテルのシェフ・ド・キュイジーヌ(総料理長)を務め、世界中のメディアにも取り上げられるほどの実力を持つ人物だった。フランスで成功を収め、名声を得たレオは、長年の夢だった日本の温泉を体験しに、この富士山屋ホテルを選んだのだ。
しかし、滞在中にレオは宿の料理にどこか物足りなさを感じてしまった。味そのものに問題があったわけではなく、むしろ純粋な和食の美しさと味わいに感動した。だが、長い歴史を持つ富士山屋ホテルが提供する料理としては、現代の観光客にとっては魅力が不足しているのではないかと感じたのだ。そうした思いがレオを突き動かし、彼はチェックアウトの際、フロント係に詰め寄り強引に呼び出した経営陣に大胆な提案を行った。
「富士山屋ホテルの料理を、和の伝統にフランスのテイストを取り入れて再構築するのはどうでしょう?宣伝方法も含め、海外からも興味を引くようなコンセプトを提供するのです。」
経営陣は驚いた。異国の地から訪れた一人の客が、流暢な日本語で自らホテルの未来について語り、アイディアを惜しみなく提案してくれたことに感激したのだ。実際、経営陣もこのままでは富士山屋ホテルが存続できないかもしれないと、危機感を抱えていた。そのため、レオの提案を聞いた彼らは、その斬新なアイディアに一縷の望みを感じ、思い切って彼をシェフとして迎え入れる決断をした。
こうしてレオ・ラシュペールは、富士山屋ホテルの専属シェフとして新たな一歩を踏み出した。彼の料理は、和と仏の融合が美しい調和を生み出すよう設計されていた。例えば、富士山の名にちなむ一皿には、刺身にフランスのソースを絶妙に合わせ、素材の味を生かしつつも豊かな香りと奥行きを引き出す。季節ごとの地元食材をフランス流の調理技法で仕上げ、伝統を守りながらも斬新な味わいを提供した。また、料理の演出や器にも一工夫を凝らし、視覚からも楽しめる芸術的な料理を実現した。
さらに、レオは料理だけにとどまらず、ホテルの宣伝方法にも手を貸した。日本国内だけでなく、フランスや他のヨーロッパ諸国、さらにはアメリカなどにも情報を発信する手助けをしたのだ。SNSで活躍するインフルエンサーを起用し、富士山屋ホテルの魅力を積極的に発信することで、瞬く間に「箱根で最も美食を楽しめる宿」という評判が広がった。口コミは次第に広まり、再び海外からの旅行者が増加していった。富士山屋ホテルは、かつての栄光を取り戻す以上に、新たな富裕層客を引き寄せる特別な宿として、復活を果たしたのだ。
レオは、まさに富士山屋ホテルの「救世主」として、経営を建て直し、伝統を守りつつも革新をもたらした存在となった。日本の文化を敬い、その中にフランスのエッセンスを自然に融合させたレオの料理は、富士山屋ホテルの新たなシンボルとして、訪れる人々を虜にし続けていた。
そして今、パージ法施行の夜が近づいている。富士山屋ホテルはこの異様な夜を迎える準備をしていた。かつての救世主であるレオも、その夜の特別メニューを作るため、厨房で静かに腕を振るう。彼が厨房の仲間に見せる笑顔は相変わらず穏やかだったが、その瞳は冷たい炎を宿していた。