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箱根の温泉宿 1/6 客人

パージ法が施行される日が迫り、箱根の山間に佇む老舗温泉宿「富士山屋ホテル」は普段とは違った異様な雰囲気に包まれていた。この宿は創業150年近い格式高い温泉旅館で、日本初の本格的リゾートホテルとして誕生し、明治時代特有の洋風テイストのデザインを取り込みつつ日本固有の美的センスも残した和と洋が融合されたしつらえで、国内外の要人や著名人も幾度となく足を運んだ名門。しかし、不安定な社会情勢により、一般の客層は遠のき、富士山屋ホテルも次第に富裕層を対象とした特別な宿泊プランを打ち出さざるを得なくなっていた。


パージの夜には、通常とは一線を画す宿泊プランが用意された。重厚な門が閉ざされ、限られた宿泊客だけが厳重な警備体制のもとで1夜限りの贅沢な美食と至極の温泉を堪能できる。価格は一般の人々には手が届かない高額に設定されており、富裕層だけが享受できる特権として、何者にも侵されない「安全」と「安心」が約束された。


その日、富士山屋ホテルの一角に一人の異国の客が静かに宿泊の準備をしていた。アメリカ海軍横須賀基地に長らく所属していたレイナード大佐である。肩に少し年季の入ったミリタリーコートを羽織り、彼の鋭い眼差しはまるでこの宿の隅々まで把握しようとするかのようだった。


レイナードは、パージ法が発表されてからというものの日本に留まることを決断していた。米国政府は日本の法に介入せず、国連からの救援支援も打ち切られ、かつて彼が仕えていた米軍も現地からほとんど撤退してしまった。しかし、レイナードは日本を去ることを選ばなかった。この国の行く末を自分の目で確かめたいという強い思いが、彼の心に根付いていたからだ。


日本での生活は彼にとってただの任務ではなく、第二の故郷に近いものとなっていた。日本の文化や風土に深い興味を持っていたレイナードにとって、温泉宿での宿泊は長年の夢だった。何年も前から温泉に浸かるというささやかな願望を胸に秘めていた彼だが、軍の多忙な任務がそれを許さなかった。しかし、古くから付き合いのある日本人の軍事関係者から「例の日が発表される前から特別な宿を予約していたのだが、パージ法が発令され対応の為に泊まれなくなったんだ。キャンセル料金が発生してしまう為、払うのももったいないので代わりに行くか?」と喜ばしい連絡が入った。パージ法執行の夜ではあるがその夢が叶うと知った彼は、すぐ様準備に取り掛かったのである。


彼が泊まるのは、富士山屋ホテルでも特別に高額な「ヘリテージルーム菊花月きくづきか」という部屋だった。3階角部屋の最上位室。月の光が見事に差し込む窓からは、箱根の山々と夜空が一望できる。雅やかな和の雰囲気に満たされた部屋に腰を下ろし、レイナードは深く息を吐いた。あの厳しい軍の日常から解放され、彼は一夜だけの平穏を享受する準備をしていた。しかし、この国に今何が起きているのか、その行く末を冷静な目で見つめるためのもうひとつの目的も胸に抱いていた。


レイナードはしばらく静かに佇み、夕日に照らされた露天風呂を見つめていた。頭の中には、パージという異様な法制度がもたらした波紋が浮かんでいた。自国でも決して許されないこの夜の出来事が、日本でも施行されようとしている。友人や仲間たちはアメリカへ帰還していったが、自分は残る決意をした。何故なら、この奇妙で異質な現象をこの目で見届けることが、何よりも価値があると信じていたからだ。


そして、その思いの裏には、自らの命を懸けてまで日本を守る使命に従ってきた彼自身の問いもあった。この国に何が起きるのか?彼はただの観察者としてこの地に残るわけではなく、日本の一片に触れ、何かを学び、理解したいと願っていた。


やがて、外から宿泊客たちが到着する音が微かに聞こえてきた。厳重な警備のもと、富裕層たちが三々五々と集まり、パージの夜の晩餐を楽しもうとする気配が漂っていた。レイナードは一度肩を落とし、少し緊張をほぐすように、湯の温もりが立ち上る露天風呂に目を移した。そして、彼は心の中で小さく笑みを浮かべた。


「さあ、今夜は何が起こるのか――」


パージ法がもたらす混沌と、それでも守られようとする富士山屋ホテルの静けさ。その狭間で、レイナードは一夜限りの休息を過ごすため、温泉に足を向けるのだった。

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