序章 瓦解への序曲
2013年にアメリカ合衆国で製作されたホラー映画「パージ(The Purge)」が好きで、「日本が舞台ならどうなるだろう?」を考え執筆しています。もちろんフィクションです。
■2024年10月。
新たに就任した総理大臣「石葉 重雄」が、国を立て直すべく断固たる意志を示し日本の舵を握った瞬間から、運命の歯車は狂い始めた。
翌年、石葉が行った政策は、消費税の増税だった。国家の財政難を食い止めるため、消費税を10%から20%に引き上げるという大胆な決断だった。石葉は自らの決断を国民に向けて堂々と説明し、「これが国を救い子供達の未来を明るくする為の唯一の道だ」と語った。
だが、現実は冷酷だった。
増税により、経済はさらに冷え込み、国民の生活は一気に悪化した。物価は急騰し、特に食料や日用品の価格は誰もが手に届かないレベルにまで跳ね上がった。消費が滞り、中小企業の多くが経営破綻に追い込まれた。連日、失業者が職業安定所に長蛇の列をなし、大都市の繁華街では、路上でたむろしながら安酒を呷り、政策や体制への不平不満を口にする集団の姿が増え続けた。
しかし、これはあくまでも災厄の始まりに過ぎず、ついに未来の恐怖が現実に刻まれた。
■2025年の6月。
増税による苦しい日々の中でも、少しでも前向きに生きようともがく日本で、戦後から警戒し続けていた悪夢が現実のものとなった。1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災を経験した科学者たちが長年警告してきた南海トラフ地震が、ついに発生したのだ。
震源は紀伊半島沖から四国、九州までに広がる南海トラフ。この海域のプレート境界で長期間蓄積されていたエネルギーが一気に解放され、巨大な地殻変動を引き起こした。マグニチュード9を超える巨大地震が広範囲にわたり日本列島を襲い、次々に都市が崩壊していった。そして揺れからわずか数分後、津波が沿岸部を襲う。30メートルを超える波が、静岡から九州にかけての広大な範囲を飲み込んでいった。強烈な揺れと津波によって、日本の太平洋沿岸は壊滅的な被害を受けた。
推定人口、1億2000万人だった日本で、20%ほどの約2500万人が帰らぬ人となった。
耐震構造が売り文句の高級住宅はあっけなく倒壊し、数十万人が一夜にして家を失っい、都市部の古い高層ビルもなすすべなく崩れ去り、何百万人もの命が瓦礫の下に埋もれた。インフラは完全に停止、電気、ガス、水道といった生活基盤はもはや機能しなくなった。
道路や鉄道網も寸断され、交通手段は麻痺状態に陥り自衛隊や海外から派遣されたも国際救助隊も十分に活動を行えず、物資の供給も届かなくなった。食料や薬が行き渡らず、避難所に避難した人々は飢えや寒さに苦しみ、次第に精神的にも追い詰められていった。
しかし、悪夢の連鎖はここで終わらなかった。
「世界で猛威を振るった感染症の再流行」
■2026年1月。
日本中が重く暗い空気の中で新年を迎えた。巨大地震から驚くべき速さで復興は進めてはいたが、前年の増税に物価高騰や震災によるインフラが崩壊した事により、春が足音が聞こえる時期になっても医療体制はいまだ機能不全に陥っていた。人々は適切な衛生環境を維持できず、次々に病に倒れていった。特に食料不足やストレス、避難生活の過酷さが、彼らの免疫力を大きく低下させていたのだ。
その隙を突くかのように、再び姿を現したのは、かつて世界を震撼させた新型コロナウイルスの変異種だった。
医療崩壊の中で、感染は瞬く間に広がった。既に弱り切った国民たちの身体は、新たなウイルスに対する抵抗力を持たず、次々に感染者が増加していった。避難所は感染の温床となり、ウイルスは手の施しようのないほど急速に広がり始めた。
かつてのように、マスクや消毒剤すら十分に供給されない状況下で、人々は次第に恐怖とパニックに包まれていった。病院には患者が溢れ、治療を受けることすらできない者が多数発生し、黒光りする大きな芋虫を連想させる死体袋が空き地に積み上げられ放置されるという惨状に至った。
確認できた死者数は3万人。
国全体が天災から立ち直り、やっとの思いで日常を取り戻しつつあった矢先、もはや誰も信用できない状況に陥った。隣人が感染者であるかもしれない、食料を分け与える者がウイルスの媒介者かもしれない――その恐怖に駆られ、人々は互いに疑念を抱き、心を閉ざしていった。
「不安と怒りは臨界点に達し、国家は崩壊の淵に立たされた」
■2026年5月。
一足早い梅雨が訪れ連日の雨が続く日本で、ついに社会全体が完全に崩壊した。
一部の国民が、不安とストレスの矛先を、海外から派遣されたも国際救助隊にぶけける小競り合いが全国各地で頻繁に発生した事により、国際連合は支援の打ち切りを決定し撤退した。
「自国の問題は自国で解決せよ」と。
海外からの援助がければ国家の立て直しもままならない状況下で、避難所の配給量の少なさに不満を持つ者や、診察の列で横入りしたしていないなどの小さな小競り合いが次第に大きくなり、その度に対応する警察や自衛隊ですら、この状況が続けば手に負えない状態になると不安を抱くまでに陥っていた。
国民の怒りと絶望は頂点に達し、政府に対する信頼は消え失せていた。誰もが生き延びるために他者を犠牲にすることを選び、社会はもはや一つの国として機能していなかった。
同月。
この絶望的な状況下で、総理大臣の石葉 重雄は、国を救うための最後の手段を決断した。それは、あまりにも異常で前代未聞の政策――「パージ法」の導入だった。
「3か月後の8月15日。1年に一度、12時間だけ、すべての犯罪を合法化する。この時間内では、殺人、暴行、略奪、何をしても罪には問われない。それにより、国民のフラストレーションを発散させ、国家を再び秩序に導く」
奇しくもこの日は日本の近代史における最も重要な転換点の一つ、終戦記念日である。
この日にこの法案を実施する発表は、国中に衝撃を与えた。国家が暴力と無法を認めるという考えは、多くの者にとって到底受け入れがたいものだった。しかし、もはやこの国には他の選択肢は残されていなかった。
「国民に12時間の自由を与える。それは生きるための選択だ。生き延びる為に何をするのか――それを決めるのはあなた次第だ」
冷たい声でそう語る石葉は、もはやかつての野心にあふれた革命的なリーダーではなかった。彼もまた、この国の絶望に飲み込まれた一人に過ぎなかった。
こうして、2026年の夏、日本初の「パージ」が実施される事になった。