9.あれから七年【最終話】
最終話です。
あれから七年が経過して。
満は十三歳。灯によく似た可憐な少女に成長した。
一度は崩壊した、家庭。その残骸の上に慎重に立ってバランスを取り、灯と悠馬は彼女に出来得る限りの愛情を注ぎ込むよう努力して来た。その努力が、報われたのだろう。与えられた名の通り、その愛情が満の体いっぱいに満ち満ちているのを感じる。彼女の内側から、幸せが光り輝くように香ってくるような錯覚を覚えるほどに……
満の笑顔を見ると、不覚にも目頭が熱くなる時がある。
よくぞここまで育った―――親でもないのに、厚かましくもそう思う時がある。
複雑な家庭に育った筈なのに、彼女は今時の少女にしては真っすぐ過ぎるくらい、素直に健やかに育っている。
女は、あれ以来大人しくなった。
正確には、ならざるを得なかった
俺達がこれまで被った迷惑を文章化し、今後こちらに関わらないで欲しいと言う要求を弁護士を通して彼女と、彼女の夫に対して行ったからだ。
どうやらそれまで、女の不貞に夫は気付いていなかったようだ。ほどなく、夫が雇っている弁護士から慰謝料の提示と、謝罪と協議の場を設けることを提案された。が、それについて灯は元夫の悠馬にも非があるからと、すぐさま断った。
これは灯の性格もあるだろうが……経営者として、正しい判断と言える。女の夫は、新興の化粧品会社が盾突けないほどの大物だからだ。手の引き時を間違えたら、こちらが足を救われかねない。
彼は都心で大きな再開発を行う起業家で、その一族は戦後大きく財を成した資産家だ。傘下に様々な業種を抱える、多角企業の親玉でもある。会社として、決して敵に回して良い相手ではない。灯はことを荒立て会社の皆に迷惑を掛けたくない一心で、自分一人耐えれば良いのだと考えていたようだが……。
家や会社に押し掛けられるようになっては、今後満に対しても何をされるか分からない。今回のことで漸くキッパリと女と対峙する決意が決まったらしい。その覚悟が、彼女の気持ちに良い影響を与えたのだろう。胸のつかえが取れたのか吹っ切れたように明るくなり、酷い無茶も鳴りを潜めた。
女の夫が冷静な判断をしてくれたことについては、正直胸を撫で下ろした。業務上何かと横槍を入れられることも想像したが、これまで特にアクションらしきものが無いことにホッと安堵する。
その後暫く、女と関わることもなく時が過ぎた。
しかし後に、その動向を知るに至る。
彼女は何と、家を出て行ってしまったらしい。けれどもあれほど執着し、追い回した悠馬の所に向かったのではない。新しい不倫相手を見つけ、やがて息子を置いて手に手を取って逃げたのだと言う。またしてもダブル不倫で、更にその過程で相手の家庭とひと悶着あった後の出来事だったそうだ。
それを知ったのは満が小学生になり、暫くした頃だった。
満が、あの女の息子―――航太郎を家に入れるようになったのだ。
正確には学校の後、時折航太郎が遊びに来ていたのだそうだ。夕方には帰ってしまうので、灯がそれに気付いたのは、ずっと後だった。
留守番も兼ねた家政婦からは、友人が遊びに来ているとの報告を聞いていたのだが、まさかその友人があの女の息子であるとは想像もしていなかったらしい。
気付いた時には航太郎は、灯の幼馴染として家にすっかりなじんでしまっていた。
親同士の軋轢を知らない二人に理由を説明することも出来ず。また、伝え聞く限りでは既に軋轢の原因となった航太郎の母親も家を出て行っており、こちらも悠馬とは離婚済みだ。最初どうしたものか、と悩んでいた灯だが―――持ち前の呑気さとおおらかさで、航太郎の存在をそのまま認めることに決めたようだ。
心配になった俺は、何度か満のご機嫌伺いと称して家を訪ね、更には市場調査と称して、二人をこじゃれたアイス屋やスイーツショップに連れ出した。食べ盛りの子供達は何の屈託もなく、俺に奢られるままに付いて来た。
そうして彼等の様子を見、航太郎本人と話した俺は、灯の判断を支持するしか無いだろう、という結論に達した。
航太郎はなかなか利発な少年で、人の心に入り込むのが上手だった。
かといって図々しいと言う一線は超えて来ない。要するに躾けの良い、気の利くガキだ。
そして何より、満と航太郎の間に何らかの共鳴するものがあり、お互いを気の置けない兄妹のような存在に感じているようだ。少し人見知りのきらいのある満が、特に気を許している貴重な存在でもあるらしい。
二人の関係を見る限り―――今無理に引き離すのは、得策ではない。
更に俺が航太郎を切れなくなった理由が、別にある。
気が付くとこの少年に、いつの間にかひどく懐かれてしまっていたのだ。
満によると、仕事で忙しい父親とあまり接点がない航太郎は、頼れる強い男(自分で言っておいて恥ずかしいが、俺のことらしい)に対して、憧れの気持ちがあるそうだ。ある時空手を教えて欲しいと請われ、迷った末俺がボランティアとして師範を務める道場を教えた。するとそこへ奴は、イソイソと通うようになってしまったのだ。
見目も良く、年の割に気配りも出来るこの少年は、道場内の厳つい人間達とも直ぐに打ち解けて、今ではすっかり仲間内に馴染んでしまった。
案の定、学校でも友人も多く卒なく振る舞っているらしい。
だから満に拘る必要は無い……と思われるが。
しかしどんなに忙しくとも、航太郎は時間をやりくりして満のもとに通って来る。
そこに邪な気持ちが少しでも混じっていれば、すぐさま排除しなければと思うのだが……どうやら、二人の間に男女の甘い感情は皆無のようだ。大抵は居間でゲームに勤しみ、時には宿題を片付け、一緒に漫画を読んだり時には互いが空気のように過ごしている。
だからまぁ、今のところは見逃してやろうと思う。
だけど満に何か不埒な真似をしようものなら、直ぐに排除してやる。
害のない子供だと高を括っていたら、中学に上がり間もなくもう『彼女が出来た』と言うのだ。
釘を刺したら、蒼くなって震えていた。
だから万が一にでも、コイツが俺の目を盗んで満をどうにかすることは無いだろう。それほどに俺に対して純粋な畏れと、そして何がしかの好意を寄せていることは自覚している。
航太郎と遊び始めた頃になるのだろうか、中学生になるかならないかと言う頃から満は俺と『ケッコンする』と言わなくなった。
当時は満がそう宣言する度、灯にそれを揶揄われ、とてもやるせない気分になった。未だに俺は、このバイタリティーのある、健気で美しい上司に想いを寄せているからだ。
だが、同時に満の無邪気な好意を嬉しくも感じていた。満に真っすぐな瞳を向けられると、俺はまるで、自分の巣に産み付けられた卵を守る様な気持ちになってしまうのだ。
しかし満は、子供染みた戯言からは卒業したらしい。
いつの間に成長したのだろう? 既に幼児ではなく、すっかり『少女』と言えるほどに成長した彼女を目にする時、不覚にも父親のような気分で目頭が熱くなることがある。
『イシドウさんと、ケッコンする!』
そう言って笑った幼い頃を思い出すと、冷酷無比と陰で噂される俺の頬も自然と緩む。そして今は成長した満が、思い直してくれた事に安堵している所だ。
―――けれど不覚にも。
少し惜しい、と思ってしまう事は、俺の一生の秘密だ。
【理想の夫 石堂の場合・完】
お読みいただき、誠にありがとうございました。




