後編
焚き火の向こうで、彼女がシチューをおかわりしている。
「クロードの手料理、美味しすぎるわ……!」
頬を膨らませて笑う彼女は、何も知らない。
自分を国から追い出したあの婚約破棄劇。
そのシナリオを書いたのが、目の前で食事をよそっている男だということを。
十年かけて、やっと手に入れた大切な人。
大丈夫。
あの国に未練なんて一欠片も残らないように
――うまくやるからね、エル。
♦︎♦︎♦︎
俺は、生まれた瞬間から呪われていた。
名門ヴァルトシュタイン伯爵家の次男。
それだけなら、何不自由ない人生だったのだろう。
だが俺の両目は、血を垂らしたような真紅をしていた。
この国で赤い瞳は、災いを呼ぶ『血塗れの赤目』と呼ばれる。
母は俺を産み落とすなり悲鳴を上げ、二度と抱こうとしなかった。
それでも、伯爵家の子を表立って捨てるわけにはいかない。
醜聞になるからだ。
俺は仕方なく育てられた。
屋敷の外れの離れに住まわされ、食事は家族と別。
使用人は俺と目を合わせず、「悪魔の申し子」と吐き捨てた。
腫れ物のように避けられ、蔑まれる日々。
殴られるわけでも、飢えさせられるわけでもない。
ただ、誰も俺を人間として見なかった。
せめて、忌避の目で見られずに済むように。
俺は離れの書庫にあった古い魔導書を読み漁り、瞳の色を偽る幻術を独学で覚えた。
誰に教わったわけでもない。
けれど、少しでも術が乱れれば赤い目が晒されるという環境が、俺の魔術制御を異常なまでに精密にした。
髪の毛一本ぶんの狂いもない術式。
それが、俺の唯一の武器になった。
人間なんて、くだらない。
十歳になる頃には、俺は本気でそう思っていた。
♦︎♦︎♦︎
十年前のあの夜のことは、今でもはっきり覚えている。
王宮で、貴族の子女を対象にした魔力測定の儀が開かれた。
伯爵家の子である以上、俺も出ないわけにはいかない。
幻術で瞳を黒く偽り、父の後ろについて王宮へ上がった。
測定の結果、俺の魔力量は同年代でも群を抜いていた。
もっとも、その夜いちばんの騒ぎは俺ではなかった。
別の測定台で、どこかの令嬢が触れた測定器が粉々に砕けたらしい。
大人たちは「機器の不具合だ」と慌てて片づけていたが、そのときの俺には、どうでもいいことだった。
周囲がどよめく中、父の顔だけが青ざめていくのがわかった。
帰りの馬車へ向かう途中、父が従者に囁くのが聞こえた。
「……赤目の忌み子に、あれほどの魔力だと? 生かしておけば、いずれ家に災いをもたらす。屋敷に戻り次第、病死として処分しろ」
これまでは、醜聞を恐れて生かされていただけだった。
だが、災いの芽となれば話は違う。
俺は馬車に乗る直前、従者の手を振り払って、夜の庭園へ逃げ込んだ。
息が切れ、膝が震える。
追手の足音に焦るほど、幻術の制御が乱れていく。
噴水の縁にうずくまったとき、水面に映った俺の目は、とうに赤く戻っていた。
「――だあれ?」
ふいに、幼い声がした。
顔を上げると、薄紫のドレスを着た小さな女の子が、首をかしげてこちらを覗き込んでいた。
銀色の髪に、月の光がきらきらと反射し輝いている。
まずい、と思った。
この目を見られた。
悲鳴を上げられる。
人が集まってくる。
だが女の子は逃げなかった。
それどころか、とてとてと近づいてきて、俺の顔を至近距離で覗き込んだのだ。
「わぁ……! 綺麗な瞳の色! 宝石みたい!」
俺は、息をするのを忘れた。
「ねえ、どうしてこんなところにいるの? 迷子? わたし、エルツェリア。あなたは?」
答えられなかった。
喉が、うまく動かなかった。
この目を綺麗だと言った人間は、生まれてから一人もいなかったから。
「エルツェリア様! どちらにいらっしゃいますか!」
遠くから侍女の声がして、女の子はぱっと振り返った。
「いけない、怒られちゃう。またね、ルビーのお兄さん!」
小さな手を振って、彼女は駆けていった。
凍りついていた世界に、強烈な印象を残した。
その後、俺は庭園で追手より先に、ある老人に見つかった。
宮廷魔導師団長。
測定の場で俺の魔力に目をつけていたらしい。
「その目、その制御力。伯爵家に戻れば殺されるのだろう。ならば儂の下へ来い。表には出られんが、生きる場所くらいはくれてやる」
こうして俺は、魔法師団へ引き取られることになった、『平民の孤児』として。
伯爵家は簡単に俺を手放した。
世間的には病死となり、実際は師団長に売られた。
家名も本当の名も捨て、俺はただの『クロード』になった。
表向きは来るもの拒まずな、軽薄な若手魔導士。
裏では、汚れ仕事を請負う始末屋となり悪事にも手を染めた。
今思い返しても、かなり荒んだ生活だったと思う。
魔法の腕は確かだったので、諜報部隊の副隊長をさせられたが、俺の本当の瞳の色を知るのは、魔法師団長ただ一人だ。
もっとも、副隊長といっても仕事のほとんどは影の中。
式典や夜会に顔を出すこともなく、王宮で俺の顔と肩書きを結びつけられる者は、数えるほどしかいない。
あの夜の女の子が、ローゼンバーグ公爵家の令嬢で、のちに王太子の婚約者になったと知ったのは、それから少し後のことだった。
♦︎♦︎♦︎
三年前。
国境の向こうの迷宮で、妙な冒険者が暴れ回っているという噂が立った。
Sランクの魔物を一撃で吹き飛ばし、日付が変わる前にはふっと姿を消す。
どこのギルドにも籍がなく、素性は一切不明。
国家戦略級の魔力を持つ、正体不明の人間。
師団長から下った命令は、ひとつだった。
「正体を突き止め、国にとって危険かどうかを見極めよ」
副隊長の肩書きは伏せ、ただの冒険者として、俺は迷宮へ向かった。
そして、深緑の樹海で彼女を見つけた。
「いっけぇぇぇ! 電撃砲!!」
轟音とともに、エンシェント・ワイバーンが地に墜ちる。
爆風の中で、銀色の髪をなびかせた少女が、子供のように両手を突き上げて笑っていた。
一目でわかった。
あの夜の女の子だ。
王太子の婚約者。
ローゼンバーグ公爵家の令嬢、エルツェリア。
王宮では、感情を殺した完璧な淑女として知られている彼女が――ここでは、こんなにも自由に笑うのか。
見惚れていた、その一瞬が命取りだった。
彼女の魔術の余波が、俺の立つ岩場まで届いた。
咄嗟に防御障壁を張ったが、衝撃で幻術が剥がれる。
「あっ、ごめんなさい! 人がいたなんて――」
駆け寄ってきた彼女と、目が合った。
赤い目を、まともに見られた。
十年ぶりの、あの距離で。
「……わぁ」
彼女は目をまん丸に見開いた。
「なんて綺麗な瞳! ルビーみたいな色! それに今の障壁、どうやったの!? あの衝撃を、あんな薄さで完全に逸らすなんて……術式の組み方が細かすぎるわ! あなた、天才じゃない!?」
俺のことは、覚えていなかった。
当然だ。
八歳の子供が、一晩出くわしただけの少年を覚えているはずもない。
なのに彼女は、十年前とまったく同じ顔で、同じことを言った。
誰もが目を背けるこの瞳と、生き延びるためだけに磨いてきたこの魔術を――彼女だけが、まっすぐに見て、「綺麗だ」と言う。
その瞬間、胸の奥に存在しなかった熱が灯った。
ああ、駄目だ。
どうしようもなく、この人が欲しい。
♦︎♦︎♦︎
「……そうか、あの子か」
報告を聞いた師団長は、深いため息をついた。
「ローゼンバーグ嬢の本当の魔力は、儂と陛下しか知らぬ国家機密だ。あの体質では、ときどき思い切り発散せねば身がもたん。……息抜きくらい、させてやれ」
「放っておけと?」
「いや。危ない目に遭わんよう、陰から見張ってくれるか。お前の腕なら造作もなかろう」
願ってもない命令だった。
俺は神妙な顔で頭を下げながら、込み上げる笑みを必死に噛み殺していた。
…だって、これはもう運命だろう?
彼女は、桁外れの魔力を隠して生きている。
俺は、この赤い目を隠して生きている。
陛下と、師団長以外にこの事実を知っているのは――俺だけ。
本当の俺を知っているのも、師団長と――彼女だけだ。
ほら、ぴったりだ。
世界中でたった二人、同じ形の秘密を抱えている。
だったら、彼女の隣にいるべきなのは、あの凡庸な王太子じゃない。
俺だ。
彼女を理解できるのも、彼女の孤独に寄り添えるのも、この世界で俺ひとりだけなんだから。
♦︎♦︎♦︎
それからの俺は、我ながら異常だったと思う。
裏稼業の情報網を使って、彼女が潜る迷宮を突き止めた。
偶然を装って同じ迷宮に入り、何度か窮地を助け、パーティーを組む仲にまで漕ぎ着けた。
「クロードって、本当に器用ね!」
そう言って笑う彼女の隣で、俺は笑みを浮かべていた。
彼女と話している時間だけ、俺は人間でいられた。
彼女が、ほかの冒険者に笑いかけるたび。
俺はそいつの顔と名前を覚えた。
二度と同じ迷宮で彼女と行き会わないよう手を回すのは、造作もないことだった。
そして、少しずつ距離を詰めた。
もちろん、彼女が公爵令嬢であることには気づかないふりをして。
ここでの俺は、ただの後腐れない冒険者仲間だ。
ある日、魔物の爪で彼女の腕に浅い傷がついた。
治癒魔術をかけながら、俺は何気ない調子で言った。
「エルってさ、魔法使ってる時ほんと楽しそうに笑うよね。そんな顔してると、悪い男に捕まっちゃうよ? たとえば、俺とか」
「な、何言ってるのよ。からかわないで」
彼女はぷいと顔を背け、すぐに次の魔物の話を始めた。
けれど、銀色の髪の隙間から覗く耳が、ほんのり赤く染まっている。
ピュアだな。
普段は完全無欠の淑女を装っているから、こんな姿を知ってるのは俺だけだろう。
また別の日、迷宮からの帰り、彼女がふと訊いてきた。
「ねえクロード。あなたって、誰にでもそういうこと言うの?」
「そういうことって?」
「だから……綺麗だとか、もったいないとか」
「君にしか言わないよ」
「……嘘ばっかり」
そう言って転移の光に消える直前、彼女は少しだけ唇を尖らせていた。
怒っているのか、照れているのか、自分でもわかっていない顔で。
それで十分だった。
今はまだ、それでいい。
彼女が転移の光に消えたあとも、空気に残った魔力の名残がすっかり消えるまで、俺はその場から一歩も動けなかった。
俺には、許せないものが二つあった。
一つは、彼女を縛る環境。
冒険者のエルは、日付が変わる前に必ず転移で帰っていく。
待っているのは、息の詰まる王妃教育と、彼女の価値を何ひとつ理解しない婚約者だ。
王太子ジュリアン。
凡庸で、見栄っ張りで、婚約者の魔力が王都の結界を支えていることすら知らない男。
あんな男の隣で、彼女の翼が少しずつ折られていくのを、黙って見ていろというのか。
もう一つは
――あの精霊だ。
使い魔を通して彼女の部屋を見守っていると、決まってあの精霊が現れる。
少年の姿で、彼女の周辺にまとわりつき、甘えた声で膝の上に乗るのだ。
「エル〜、魔力ちょうだぁい」
「はいはい、どうぞ。一気に飲んじゃ駄目よ」
「だって、おいしいんだもん〜」
案の定、欲張って飲みすぎたルカが、ぱんぱんのお腹を抱えて「うぅ……もぉ、むりぃ……」と転がる。
彼女は呆れたように笑いながら、その頭を撫でる。
その光景を垣間見て、俺の奥歯がぎりりと鳴った。
精霊ごときが、彼女の膝の上に。
俺が焦がれた彼女の膝の上に、当たり前のように座っているなんて。
――けれど、その忌々しい精霊が、やがて俺の計画の要になるのだから、皮肉なものだ。
♦︎♦︎♦︎
彼女をかの環境から救い出す方法は、ひとつしかなかった。
彼女自身に罪を着せて、この国から追い出すことだ。
正面から婚約を解消させることはできない。
公爵家と王家の契約は、俺ひとりの力では覆せない。
だが、王太子自身が「この女は要らない」と叫べば話は別だ。
必要なのは、王太子をその気にさせる駒。
それは、すぐに見つかった。
伯爵令嬢リリア。
人並み以上の魔力と、人並み以上の野心。
王太子に色目を使い、婚約者の座を虎視眈々と狙っていることは、裏稼業である情報ギルドを通じて早くから掴んでいた。
最高の駒だ。
俺は情報屋の伝手を何重にも挟み、リリアの耳に噂を流した。
出どころは「高貴なとあるお方」。
あの女は勝手に箔をつけて信じ込んだ。
「エルツェリア様は夜な夜な、部屋に年端もいかない少年を連れ込んでおり、部屋からは悲鳴が聞こえるらしい」
「結界用の魔石は、彼女が私利私欲で浪費しているらしい」
嘘はひとつもついていない。
部屋に少年の姿の精霊がいるのも、悲鳴が上がるのも、魔石が大量に使われているのも、すべて事実だ。
意味をすり替えただけで。
♦︎♦︎♦︎
問題は、証拠だった。
ここで役に立ったのが、あの忌々しい精霊だ。
使い魔越しに何十夜と彼女の部屋を見てきた俺は、知っていた。
彼女が迷宮へ抜け出せるのは、せいぜい週に一、二度。
行けない夜は、溢れた魔力をルカに吸わせている。
欲張りな精霊は決まって飲みすぎて、「うぅ……もぉ、むりぃ……」と苦しげに唸りながら転がるのだ。
扉の外で聞けば、子供が責め苦に遭っているとしか思えない声で。
噂を流すと同時に、俺は情報屋を通してリリアに囁かせた。
「毎晩、お部屋の前で耳を澄ませてごらんなさい」と。
伯爵令嬢の手の者が、公爵家の奥まで入り込めるはずがない。
裏口の鍵を開けさせる使用人は、金で一人買っておいた。
リリアの侍女は毎晩のように部屋の前に張りつき、録音の魔石を構えた。
だが、唸り声だけでは決め手に欠ける。
あの女は、もっと決定的な声を待っていた。
そして、その夜が来た。
ルカが彼女の夜食のお菓子を横取りしようとして、くすぐりの刑に処された夜だ。
『――うわぁぁん! もう、むり、もうやめてぇぇぇ……!』
録音の魔石が光るのを、俺は離れた屋根の上から見届けた。
案の定リリアは「許してぇ! くすぐったいってばぁ!」を、都合よく切り捨てた。
(よくやった、愚か者)
俺は小さく笑った。
♦︎♦︎♦︎
あとは、仕上げだ。
王太子の側近に、それとなく吹き込んだ。
「公爵令嬢を処刑すれば、公爵家と全面対立になります。ですが国外追放なら、殿下の寛大さを民に示せましょう」
殺されては困る。
彼女には、生きて自由になってもらわなければならないのだから。
そして、結界のこと。
彼女が去れば、遅かれ早かれ結界は崩れる。
それは百も承知だった。
リリアが魔石の利用を避けるよう噂を流したのは俺なのだから、あの女がいずれ接続を引き抜くことも、計算のうちだ。
結界が砕ければ、エルはきっと王都へ戻ろうとする。
街の人々を見捨てられる人ではない。
だから俺は、彼女の部屋に溜まっていた魔石を、密かに回収し、師団長のもとへ届けさせる手配をしておいた。
あの老人なら、それで当面の瘴気はしのげる。
彼女は結界のことを、きっと最後まで気に病む。
けれど、追放される身で手を打つことはできない。
だから、俺が先に片づけておく。
彼女の心配事は、ひとつ残らず。
彼女が戻る理由を、ひとつ残らず潰しておく。
すべては、彼女が二度とこの国に帰らなくて済むように。
卒業パーティーの夜、俺は自分の机に辞表を一枚置いて、王宮を出た。
今ごろ、あの老人はこめかみを押さえていることだろう。
♦︎♦︎♦︎
誤算はひとつだけ。
リリアが結界から魔石の接続を引き抜くのは、もう少し先だと思っていた。
師団長が制止し、数か月は魔石を使い続けるだろうと。
まさか式典の当日、衆人環視の中で引き抜いて、自分ごと干からびるとは。
「……思ったより、早かったな」
遺跡の入り口で、思わず呟いてしまった。
もっとも、あの女の末路に、同情する気は一欠片もない。
単なる使い捨ての駒にすぎないのだから。
王太子ジュリアンのほうは、外遊から急ぎ戻った国王の逆鱗に触れ、結界崩壊の責任を問われて、廃嫡のうえ北の塔へ幽閉と決まったらしい。
彼女を「悪逆非道」と罵ったあの口で、今ごろ塔の上から何を叫んでいることやら。
王冠ひとつ守れない男に、彼女の隣は最初から過ぎた席だったのだ。
♦︎♦︎♦︎
追放から数日が過ぎた、ある日の夜。
「エル〜、魔力ちょうだぁい」
焚き火の前で魔導書を広げる彼女の膝の上に、少年姿のルカが当然のように潜り込んだ。
「もう、食いしん坊ね」
「足りないんだ、もっとちょうだい〜」
使い魔越しに何十回と見てきた光景だ。
精霊であり、しかも少年の姿とはいえ…許すことなどできない。
俺は鍋をかき混ぜる手を止め、にっこりと笑った。
「はいはい、精霊くんはこっち」
ルカの襟首をひょいとつまみ上げ、俺の隣に下ろす。
「契約精霊なら、触れなくても主から魔力は受け取れるよね? わざわざ膝に乗る必要、ある?」
「……まあ、そうね?離れていても渡せるわね」
魔導書から目を離さないまま、彼女があっさり頷く。
「えぇ〜!? エルまで〜!くっついてたほうが、おいしいのにー!」
「ふっ。飢えるわけでもない」
ルカはぶすっと頬を膨らませ、俺を睨み上げた。
「……クロード、エルのこと独り占めしたいだけでしょ」
「さあ、どうだろうね」
「ふふっ。二人とも、すっかり仲良しね」
彼女は魔導書から顔を上げて、楽しそうに笑った。
仲良くなど、ない。
けれど、精霊がエルの膝の上に乗ることはもう二度とない。
♦︎♦︎♦︎
古代遺跡の回廊を、彼女が駆けていく。
銀色の髪が、魔導灯の光を弾いて揺れる。
ときどき振り返っては「早く早く!」と手招きする姿は、十年前の庭園で手を振った、あの小さな女の子そのままだ。
「ねえクロード、この遺跡、罠の術式が全部生きてるわ! 何百年前のものかしら!」
「はいはい。やたらと起動させないでね」
「わかってるわよ!」
絶対にわかっていない顔で、彼女は壁に頬を寄せた。
俺は、その後ろ姿を見つめる。
彼女は、手際のいい相棒を拾えたと無邪気に喜んでいる。
噂を流した「とあるお方」が、毎晩シチューを作ってくれる男だなどとは、夢にも思っていない。
それでいい。
知られては困るのだ。
副隊長の地位も、裏稼業の立場も、全て捨た。
追放の夜、焚き火の前で彼女が「よろしくね」と笑ったとき、思わず口からこぼれた。
――やっと、手に入れた。
十年かかった。
君を縛る王冠も、家族も、国も、ぜんぶ奪ってやった。
君はどこまでも自由に、世界中を駆け回ればいい。
――俺の腕という、一番広くて、一番逃げられない鳥籠の中で。
♦︎♦︎♦︎
「ねえクロード! この石板、すごい魔導文字があるわ!」
回廊の奥から、弾んだ声が響いた。
行ってみると、彼女は石板の前にしゃがみ込み、刻まれた文字を夢中で指でなぞっていた。
「見て、これ。たぶん失われた飛行術式よ!」
「どれどれ」
俺は彼女の肩越しに身を屈めた。頬が触れそうな距離。彼女の肩が、ぴくりと跳ねる。
「ち、近いわよ」
「近くないと見えないんだもん」
「……もう」
彼女は文句を言いながらも、離れようとはしなかった。
しばらく黙って文字を読んでいたかと思うと、ふいに、横目で俺の顔を見上げる。
「ねえ、クロード。あなたの本当の目って、赤いでしょう?」
「……覚えてたんだ」
「当たり前じゃない。初めて会ったとき、見ちゃったもの」
――初めて会ったとき。
一瞬、心臓が跳ねた。
十年前の、あの庭園のことかと。
いや、彼女が言っているのは三年前、迷宮で幻術が剥がれた、あの日のことだ。
……そうだよな。
覚えているはずがない。
小さく息を吐いて、俺はいつもの笑みを取り繕った。
彼女は壁に視線を戻して、小さな声で続けた。
「私、あの色、好きよ。宝石みたいで。……隠さなくていいのに」
息が、止まった。
過去にも、彼女は同じことを言った。
そして今また、同じことを。
俺は指先で、そっと幻術をほどいた。
「君の前でだけ、なら」
赤い瞳で見つめ返すと、彼女は一瞬ぽかんとして――それから、みるみる頬を染めた。
「べ、別に深い意味はないわよ! ただ、綺麗だなって思っただけで!」
慌てて立ち上がった拍子に、足元の瓦礫につまずく。
倒れかけた腰を、俺は片腕で抱きとめた。
「……転ばないでね、俺の可愛いお嬢様」
「か、可愛いって……!」
腕の中で、彼女が耳まで真っ赤になって固まっている。
鈍感なお嬢様が、自分の気持ちに名前をつけるまで、あと少し。
焦らなくていい。
時間なら、いくらでもある。
どうせもう、逃がすつもりはないのだから。
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