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最終話 トンネルの向こう

反対意見は、それ以上出なかった。

満場一致ではなかった。

だが、新大島トンネル建設計画は承認された。


表向きの理由は、災害に強い避難路の整備。

地域住民の安全確保。

観光振興。

原子力災害時の交通経路確保。


モホロビチッチ不連続面のことは、記録から消された。


翌年


新大島トンネルの建設工事が始まった。


工事は難航した。


掘削機が突然停止する。

存在しない空洞がレーダーに映る。

作業員の人数が、入坑時と退坑時で合わない。

一人多い日もあれば、一人少ない日もあった。


誰も、そのことを口にしなかった。

作業員の多くは、地域住民だった。

その中には、私も居た。


工事が半分まで進んだ頃、山の中から古い自動車が発見された。

岩盤の中に埋まっていた。

昭和後期の車だった。

車内には四人分の白骨が乗っていた。

運転席の白骨だけが、両手で耳を塞いでいた。

後部座席には、泥で文字が書かれていた。


――ここは、どこですか?


工事は中断されなかった。

中断できなかった。

穴を開けた以上、最後まで囲わなければならない。

途中で止めれば、トンネルそのものが、向こう側への巨大な入口になる。


完成間近のある夜、私は一人でトンネル内を歩いた。


照明はまだ半分しか点いていなかった。

湾曲しているため、入口も出口も見えない。

前にも後ろにも、同じ暗闇が続いている。

昼間まで響いていた掘削音も、作業員達の話し声もない。


聞こえるのは、自分の足音だけ。


やがて


もう一つ、足音が増えた。


私が右足を出すと、少し遅れて右足を出す。

私が立ち止まると、その足音も止まる。

振り返ってはいけない。

工事が始まる前から、何度もそう言われていた。


名前を呼ばれても、返事をするな。

足音が増えても、数えるな。

誰かが後ろに立っていると感じても、振り返るな。


私は再び歩き始めた。

すると


――ごめんね


背後からの声に、立ち止まった。

聞き間違えるはずもない。


「夏美、どうして謝る?」


返事をしてはいけない。

そんな決まりは、もうどうでもよかった。


私は、ゆっくりと振り返った。


しかし


そこいたのは、夏美ではなかった。


照明と照明の暗がりの中に居たのは


軍服を着た男だった。


服は泥と血に汚れ、右腕がない。

腰には錆びた水筒。


男は眩しそうに照明を見上げた。


その後ろから、赤ん坊を抱いた女が現れた。

女の着物は焼け焦げていた。

赤ん坊は泣いていなかった。

小さな目を開き、トンネルの奥を見つめている。


さらに


古い作業着を着た男

学生服の少年

白髪の学者

ランドセルを背負った少女


時代も年齢も違う者達が、暗闇の中から次々と現れた。


誰も、私を見ていなかった。


ただ


トンネルの奥に灯った光を見つめていた。


血塗れの日本兵が、私の横を通り過ぎる直前、足を止めた。


「ここは、内地でしょうか?」

「……はい」


私が答えると、男は小さく頭を下げた。


「長かったなあ」


そして、光の方へと歩いていった。


赤ん坊を抱いた女が、その後を追う。


トンネルの奥から、微かに風が吹いた。


赤ん坊が、初めて声を上げた。


泣き声ではなかった。


笑っていた。


女は赤ん坊を抱き締め、光の中へ消えた。


皆、同じ方向へ消えて行く。


やがて


足音が消え


誰もいなくなった。


私は一人、トンネルに残された。


「夏美?」


呼びかける。


返事はない。


「いるんだろう?」


先ほどの声は、間違いなく夏美だった。


十三年間、一日たりとも忘れたことのない娘の声。


だが、どこを見ても夏美はいない。


代わりに、壁に小さな手形が一つだけ残っていた。


私は、その手形へ近づいた。


手を重ねる。


「お前は、どこにいるんだ?」


返事はない。

振り返る。

大勢が消えた方向には、明るい道が続いている。

反対側にも、同じような光が見える。


どちらが入口だったか。

どちらが出口だったか。


わからなくなった。


私は、どちらから来た?

何故、ここにいる?


思い出そうとするほど、記憶が遠ざかっていく。

胸の奥から、言葉が零れた。


「ここは……どこだ?」


自分の声が、トンネルに響いた。


―――


翌日


新大島トンネルは、予定通り開通した。

入口には紅白の幕が張られ、地元の子供達が小さな旗を振っていた。


知事が壇上に立った。


安全で便利な道路が完成しました。

災害に強い地域になります。

観光の発展が期待されます。


表向きには、地域を結ぶ新たな道路。

だが私にとっては

娘のいる場所へ続く、たった一本の道だった。


拍手が起こった。

私も拍手をした。

テープカットが行われる。


記念撮影には、私も並んだ。


「もう少し、中央へ寄ってください」


撮影者が、何度も首を傾げていた。


―――


開通式が終わった日の夜。


私は再びトンネルを訪れた。

あの場所まで歩いた。

壁には、もう手形がなかった。

開通前の最終点検で、汚れとして拭き取られたのだろう。


「夏美」


暗闇へ呼びかけた。

返事はない。


「出て来てくれ。お父さんだ」


自分の声だけが、虚しく響いた。


―――


結局

夏美は現れなかった。


翌日も。

その次の日も。

一週間

一か月


何度訪れても、声は聞こえなかった。

足音も増えない。

壁に手形もつかない。


ただ、車が通り過ぎていくだけだった。


夏美に会う。


それだけを考えた。


――ごめんね


あの声は、確かに夏美だった。


大丈夫


必ず、父さんが見つけてやるからな。


―――


ある夏の夜


大島半島では、祭りが行われていた。

盆踊りの太鼓が鳴り、提灯の明かりが海沿いの町を照らしていた。

浴衣姿の子供達が、屋台の間を駆け回っている。


焼きそば

たこ焼き

綿菓子

お面

りんご飴


遠くからでもわかるほど、誰もが楽しそうだった。


私は一人、新大島トンネルを歩いた。


「夏美、今日はお祭りだぞ」


返事はない。


「覚えているか? くじ引きで小遣いを全部使っても当たらなくて、泣いていたよな」


声は聞こえない。


「最初から当たりなんか入っていないと言っても聞かなくて、しばらく口も利いてくれなかった」


トンネルの壁に、私の声だけが反響する。


「仕方なく、どれが欲しいんだと聞いたら、嘘みたいに機嫌を直して」


思わず、笑ってしまった。


「まさか、ひまわり畑が見たいという理由で、スペイン旅行をねだられるとは思わなかったぞ」


足音は増えない。


「連れて行ってやりたかったが、予算も時間もなかった。それで嘘を付いたんだ。富良野へ連れて行って、ここがスペインだとな」


車が一台、私の横を通り過ぎた。


「お前は疑いもせず、大喜びで走り回っていたな」


あの日の光景が浮かんだ。


青い空。

白い雲。

一面のひまわり畑。


黄色い花の間を、夏美が駆けていく。


「ソフトクリーム屋のおばさんに、どこから来たのと聞かれて、お前は大きな声で『日本!』と答えた」


笑い声が出た。


「ついおばさんと大笑いしたら、お前が怒ったんだ。『何がおかしいの』って、何度も聞いてきたよな」


今度は、少しだけ声が震えた。


「帰りの飛行機で、タネあかしをしても、『あそこがスペインだもんっ』って、信じなかったな」


涙が頬を伝った。


「いつか本当のスペインへ連れて行ってやると言ったら、お前は、またあそこがいいって」


私は立ち止まった。


「すまなかった。 約束を、守れなかった」


祭り囃子が、遠くから聞こえる。


出口を折り返し、元の場所に戻って来た。


往復約4、6キロ。

苦痛に感じたことは一度もない。


私は最後に、必ず同じ言葉を告げる。


「また、来るからな」


――もう、来なくていいよ


足が止まった。


祭り囃子が消えた。


波の音も。


風の音も。


何も聞こえない。


ただ


懐かしい声だけが、背後から響いた。


「夏美?」


――うん


「夏美なのか?」


――迎えに来たよ


ゆっくりと振り返った。


そこには


臨海学校へ出発した、あの日の姿。


白いシャツ

紺色の半ズボン

背中には、少し大きすぎるリュックサック

手首には、色鮮やかな青いミサンガ


「夏美……」


十三年間、探し続けた娘。

何千回も夢に見た姿。

私は駆け寄ろうとした。


だが、足が動かなかった。


また幻かもしれない。


近づけば、砂になって崩れるかもしれない。


それでも


一歩

また一歩


近付いた。


「本当に、夏美なのか?」


――うん


私は震える手を伸ばした。


娘の頬に触れる。


あたたかかった。


記憶の中と同じぬくもりだった。


「遅くなって、すまなかった」


――うん


「ずっと探していた」


――知ってるよ


「ひとりで、寂しかっただろう」


――寂しかった


夏美の目から、涙が零れた。


――でも、お父さんが道を造ってくれたから


「道?」


――もう、迷わなくていいんだよ


トンネルの奥で、照明が一つ灯った。


続いて、もう一つ。


あの夜、日本兵達が歩いていった方向へ、光が続いていく。


私は、ようやく尋ねた。


「あの時、皆向こうへ行った。お前も居ると思った。だが、私は行けなかった。何故だ?」


――お父さんが、私を待ってたから


「そうか、待っていた甲斐があった。さあ、うちへ帰ろう」


――うん


肩に手を当てる。

もう、震えてはいなかった。


やはり、娘は生きていた。


なら――


「どうして、今まで出て来てくれなかったんだ?」


夏美は、逆に尋ねた。


――今日、何の日かわかる?


遠くから、盆踊りの太鼓が聞こえた。


提灯

屋台

浴衣姿の子供達


海へ流されていく、小さな灯籠。


「お盆……」


――うん


夏美は、私の前へ手を差し出した。


――だから、迎えに来られたの


?

その言葉の意味が、胸の奥でつっかえた。


「迎えに来たとは、どういう意味だ?」


――お父さん、ずっとここで迷ってたから


「迷ってなどいない。私は、お前を探していた」


――うん


夏美は、悲しそうに笑った。


――だから、自分が死んだことにも気づかなかったんだよ


「私が……?」


いつ?

そう問いかけようとして


記憶が蘇った。


いや

正確には

記憶が、思い出せなかった。


崖から落ちた日


途切れた意識


そこから……?


「いや、私は、助かった。その日の夜、県庁の会議へ出た」


――うん


「工事にも参加した。何年も働いた」


――うん


「なら……」


――ここでは、わからないんだよ


夏美はトンネルの壁へ手を触れた。


――生きている人も、死んでいる人も、同じように見えるから


白髪の学者の言葉が脳裏を過ぎった。


この場所では、生者と死者という区別そのものが曖昧なのだ。


私は、それを夏美のことだと思っていた。


あの言葉は、私に向けられていた?


「では、私は……あの時からずっと……」


――うん


「死んでいたのか」


――ごめんね


「どうして、お前が謝る?」


――私が呼んだから


「呼んでくれて、よかった」


――でも、お父さんまで死んじゃった


「それがどうした」


夏美が顔を上げた。


「ようやく、会えた」


私は娘を抱き締めた。


今度は消えなかった。


砂にもならなかった。


夏美の両腕が、私の背中へ回る。


――お父さん


「なんだ?」


――行こう


「どこへ?」


――トンネルの向こう


夏美が、私の手を握った。


―――


トンネルの照明が、一本ずつ点いていく。


私達が進むたび、暗闇が消えていく。


湿ったコンクリートの匂いが、少しずつ薄くなる。


代わりに、懐かしい夏の匂いがした。


熱い風が吹いた。


トンネルの中に、黄色い花びらが舞い込んでくる。


アスファルトの小さな亀裂から、一本のひまわりが咲いていた。


もう一本。


また一本。


ひまわりは次々と増えていく。


見上げれば、青い空が広がっている。


白い雲。


眩しい太陽。


遠くには、海。


風が、一面のひまわり畑を揺らしている。


夏美が手を離し、ひまわりの間を駆けていく。


「お父さん、早く!」


夏美が笑っている。


十三年前と変わらない微笑みで。


「ねえ、お父さん」


「なんだ?」


「ここ、本当にスペイン?」


私は、どこまでも続くひまわり畑を見渡した。


「ああ。スペインだ」


夏美は、嬉しそうに笑った。


「やっぱり!」


私達は、手を繋いで歩き始めた。



迷うことなく。




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