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プロローグ 最後の微笑み

臨海学校の日の朝


「無事に帰ってきますように」


私はスペイン旅行で買った、色鮮やかな青いミサンガを娘の手首に結んだ。


「ありがとう、お父さん。行ってくるね!」


明るい声で、13歳の一人娘・夏美は玄関の扉を閉めた。


それが私の聞いた最後の声であり


最後の微笑みだった。




新大島トンネル~娘の聲~


――モホロビチッチ不連続面露頭――




第一話 ここは、どこですか?




福井県道241号線


その道は、海と山の隙間を縫うように続いている。

片側一車線。

海側には錆びたガードレール。

山側には、苔の生えた石垣。


朝になれば漁師の軽トラックが走り、夕方になれば学校帰りのバスが一台通る。

信号もない。

渋滞など、見たことがない。

観光シーズンでさえ、前を走る車に追いつけば珍しいと思うほどだった。


確かに、雨が続けば通行止めになることはある。

山から小石が落ちてくる。

波が高ければ、海水が道路まで上がってくる。

だが、それも年に一度か二度。

半日もすれば解除される。

そのう回路のために、二キロを超える新トンネルを掘る。

莫大な金を使い、何年もの時間をかける。

本当に、そんな必要があるのだろうか?


高浜町役場に監督補佐として転勤したばかりの私は、会議の席でそう尋ねた。


静寂と冷たい視線


堪らず顔を下げた。


机の上には、新大島トンネル建設計画書が置かれている。


交通量調査

災害時の避難経路

観光振興

地域住民の安全確保


もっともらしい言葉が並んでいる。


業者との癒着

そう直感した。


だが、計画書に添付されていた地図を見た瞬間、妙なことに気づいた。


「この線形では、手間が増えます」


トンネルは、最短距離で掘られるわけではなかった。

わずかに湾曲していたのだ。


工費が増えます。という意味合いを込め

ダメ元で指摘すると、課長は資料を閉じた。


「この話は、ここでとする」

「しかし」

「大島君」


課長は私を見なかった。


「君はまだ新参者だ。立場をわきまえたまえ」


会議室の空調が、低く唸り

窓の外では、雨が降り始めていた。



―――



翌朝、地質調査班と共にある場所へと向かった。


――モホロビチッチ不連続面――


通称、モホ面


地殻に露出したマントル

本来なら、決して人間が直接見ることのできない代物。


ここ大島半島では、それが地表に露出している。


前日の雨で、道路は通行止めになっていた。

理由は土砂崩れとされていた。

ところが、現場には土砂などなかった。

道路もすでに夏の日差しで乾いている。


ただ、道路脇に警察車両が二台停まり、山へ続く細い道に立入禁止のテープが張られていた。


「ここから先では、名前を呼ばれても返事をしないでください」


案内役の男が言った。

冗談を言っている様子ではなかった。


「誰に呼ばれるんです?」

「わかりません」


男は続けた。


「呼ばれた者にしか、聞こえませんから」


山道を10分ほど歩くと、岩壁が現れた。

黒く、濡れたような岩肌だった。

高さは十メートルほど。

表面には、横一文字の亀裂が走っている。

その亀裂だけが、光を吸い込んでいるように見えた。

地質学者が岩石を採取している間、私は報告書に目を通した。


最初に異変が確認されたのは、241号線が造られた昭和53年。

山を削った作業員たちが、岩の中から声を聞いた。


死んだ母親

戦地へ行った兄、あるいは息子

病気で亡くなった赤子

苦し気な女の声


声は、岩の向こう側から聞こえたという。


作業員の一人が、誰かに返事をして崖から飛び降りた。

一瞬の出来事で、誰も止められなかった。

三日後、海岸で発見された。


生きていた。


だが家族の顔も、自分の名前も覚えていなかった。


ただ一つだけ、同じ言葉を繰り返していた。


――ここは、どこですか?


その後、男は失踪。


その後も、雨の多い日に奇妙な事例が相次いだ。


運転手が突然ハンドルを切り、海へ落ちる。

誰もいない後部座席に話しかけ続ける。

一人で車に乗ったはずなのに、防犯カメラには二人で降りる姿が映る。

調査に向かった車が消える。


記録上は、転居

事故

失踪

自殺

すべて別々の理由として処理されていた。


「モホ面というのは、嘘なんですか?」


私は地質学者に尋ねた。

白髪の学者は、岩壁を見上げた。


「嘘ではない」

「では、本当にマントルが露出していると?」

「……マントルであり、マントルではない」


学者は、採取した岩を袋に入れた。


「我々は、地下に向かって層が重なっていると考えている。地表があり、地殻があり、その下にマントルがある」

「何が違うのですか?」

「少なくとも、ここでは違う」


学者は黒い亀裂を指さした。


「地面の下にあるのは、それだけではない」

「では、一体何が?」


「それ以上は――」


別の学者が口を挟んだ、その直後だった。


――ここは、どこなの?


息が止まった。


否


心臓が、止まった。


13年前の朝、玄関で靴を履きながら振り返った、「夏美」の声だった。


「夏美……?」


自分でも気づかないうちに、口から零れていた。

案内役の男が、素早くこちらを振り返った。


「今、何か聞こえましたか?」


私は答えなかった。

答えられなかった。


目の前の


黒い亀裂の奥に、何かがいる。

暗闇の中で、小さな白いものが揺れている。

指だった。

岩の隙間から、子供の手が伸びていた。


――おとうさん


間違えるはずがない。

何千回も夢の中で聞いた。

何度も記憶の中で呼び止めた。


夏美の声だった。


――たすけて


胸の奥で、何かが切れた。


「夏美!」


警察は、海に流された可能性が高いと言った。

捜索には限界があると言われた。

周囲の人間は、もう諦めろとぬかした。

遺体は見つかっていない。

死んだ証拠など、どこにもない。

私は、ずっと信じてきた。


生きていると


そして今、目の前で私に助けを求めている。


「夏美、待ってろ!」


亀裂へ駆け寄ろうとした瞬間、背後から腕を掴まれた。


「行くな!」

「放せ!」


私は男の腕を振りほどこうとした。


「娘なんだ! 夏美がいる!」

「違う!」

「何が違う!?」


――おうちに、かえりたい


亀裂の奥で、手が震えた。


爪の形

細い指

手首には、色鮮やかな青い紐


夏美が臨海学校へ行く朝、私が結んだミサンガだった。


「夏美――」


その手を掴もうと腕を伸ばした。

その瞬間、案内役の男の手が私の口を塞いだ。


「返事をするな!」


その手に噛みついた。

男が呻く。

身体を捻り、亀裂へ手を伸ばした。


「夏美!!」


あと少し

白い指先も、伸びてくる。


――ずっと、さみしかった


「ああ、ああ!父さんもだ!」


私は男を引きずったまま、岩壁へ這い寄った。


「落ち着け! あれは娘さんじゃない!」

「黙れ!お前に何がわかる!?」


叫び

掴んだ。

娘の、手を。


冷たい。

氷のように冷たい。


走馬灯のように、懐かしい記憶が駆け巡った。


小さな頃、何度も握った手。


横断歩道を渡るとき。


祭りの人混みではぐれそうになったとき。


熱を出し、病院へ連れていったとき。


一面のひまわり畑を歩いたとき。


間違えるはずもない。


「夏美……」


強く握り返す。


だが


次の瞬間


その指が、私の手の中で崩れた。


さらさらと


白い砂のように


指先から手の甲へ


手の甲から手首へ


色鮮やかな青いミサンガまで、細かな砂となって零れていく。


「夏美?」


振り返ると


少し離れた場所に、夏美がいた。


――ここは、どこ?


私は咄嗟に飛び出した。


背後で、誰かが叫んだ。


「大島さん!」

「止まれ!そこには何もない!」


何を言っている?

夏美がそこで泣いているのだぞ?


私は娘を強く、強く抱き締めた。


震える細い肩

濡れた髪

あの日と同じ、臨海学校の体操服


確かに、腕の中に夏美がいた。


――ずっと、まってた


「すまない。ずっと探していたんだが、遅くなってしまった」


――ずっとくらかった


「これからは、これからはずっと一緒だ」


――ほんとう?


「ああ、勿論だ」


声を震わせながら、私は言った。


「もう離さないぞ、夏美」


腕の中で、夏美が笑った。


玄関で見た、あの日と同じ笑顔だった。


私は


まるで気が付いていなかった。


足元に地面が無い事に。


身体に強い衝撃が走るまで。


「ぐっ……!」


視界が大きく揺れ

身体が跳ね上がった。


「大島さん!」

「大丈夫か!?」


私は太い網の上に倒れていた。

落石防止用に張られた、巨大な防護ネットだった。


崖の上から、案内役の男がこちらを覗き込んでいる。


「動かないでください! 今、引き上げます!」


私は声も出せず

網の上に横たわったまま、空を見つめていた。


夏美の姿は、もうどこにもない。

白い砂も

あるのは灰色の空と、波の音だけ。


夢だったのか?

幻だったのか?


わからなかった。


ただ

右手に、何かを握っていた。


ゆっくりと指を開く。


酷く擦り切れ、色褪せた青い紐があった。


『無事に帰ってきますように』


私が夏美の手首に結んだ、ミサンガだった。


「見つけたぞ……」


波の音に混じって、娘の泣き声がした。


「夏美。待ってろ。必ず、父さんが――」



そこで、私の意識は途絶えた。

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